クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

ふるさとの“神社”を巡りませんか?(17)―氷川神社と太宰治Ⅵ―

2008年01月17日 | 神社とお寺の部屋
昭和23年6月19日早朝に発見された“太宰治”と“山崎富栄”の遺体。
彼らが13日深夜に飛び込んだ玉川上水は「人食い川」と呼ばれる川で、
発見が遅れたのはそのためでした。

2人が入水したのは同月13日深夜。
約1週間玉川上水の水に浸っていたことになります。
引き上げられた遺体はすでに目を覆うほど痛んでいたそうです。
その状況を目撃した編集者の野原一夫は、
『回想太宰治』の中で次のように記しています。

 水際の、わずかばかりの地面に、抱きかかえるようにして遺体を引き揚げるとき、
 噎せるほどの異様な臭いが鼻をついた。
 それは、形容できないような、異様な臭いだった。
 膨れ上がって白くふやけた遺体は、指先がめりこむほどで、
 こすれると皮膚がはがれ私たちの雨着に付着した。

腰のあたりにしっかり結びつけられた赤い紐。
これは程なくして切られます。
生前太宰と親しかった者にとって、
この赤い紐は許し難いものでした。

――富栄が太宰を殺した。
――彼女が太宰を奪った。

現場にいた者たちには、
そんな思いが込み上げてくるのを禁じ得なかったのです。

ところで、2人の遺体には明確な違いがありました。
それは死に顔です。
富栄は目を見開き、
「こんなに烈しい恐怖の表情をぼくは考えることもできなかった」
と山岸外史が述べるほどその死に顔はすさまじいものでした。
死の恐怖に手足をばたつかせたのか、
指先は奇妙に曲がっていたと言います。

それに対し、太宰の表情は至極穏やかなものでした。
無傷ではなかったものの、
富栄の遺体を見たあとでは、
「ミゴトにやった」とさえ山岸が思うほどでした。
それほど2人の遺体には違いがあったのです。

これは何を意味するのでしょう?
太宰はほとんど水を飲んでいないことが判明します。
富栄は青酸カリを持っていました。山岸外史は、
「死にいたる時間が計算されていたのである。薬品の使用法が巧かったのだ」
と述べていますが、果たして本当にそうでしょうか。
もしこのとき太宰に死ぬ意志が本当はなかったとしたら……


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