昭和23年6月19日早朝に発見された“太宰治”と“山崎富栄”の遺体。
彼らが13日深夜に飛び込んだ玉川上水は「人食い川」と呼ばれる川で、
発見が遅れたのはそのためでした。
2人が入水したのは同月13日深夜。
約1週間玉川上水の水に浸っていたことになります。
引き上げられた遺体はすでに目を覆うほど痛んでいたそうです。
その状況を目撃した編集者の野原一夫は、
『回想太宰治』の中で次のように記しています。
水際の、わずかばかりの地面に、抱きかかえるようにして遺体を引き揚げるとき、
噎せるほどの異様な臭いが鼻をついた。
それは、形容できないような、異様な臭いだった。
膨れ上がって白くふやけた遺体は、指先がめりこむほどで、
こすれると皮膚がはがれ私たちの雨着に付着した。
腰のあたりにしっかり結びつけられた赤い紐。
これは程なくして切られます。
生前太宰と親しかった者にとって、
この赤い紐は許し難いものでした。
――富栄が太宰を殺した。
――彼女が太宰を奪った。
現場にいた者たちには、
そんな思いが込み上げてくるのを禁じ得なかったのです。
ところで、2人の遺体には明確な違いがありました。
それは死に顔です。
富栄は目を見開き、
「こんなに烈しい恐怖の表情をぼくは考えることもできなかった」
と山岸外史が述べるほどその死に顔はすさまじいものでした。
死の恐怖に手足をばたつかせたのか、
指先は奇妙に曲がっていたと言います。
それに対し、太宰の表情は至極穏やかなものでした。
無傷ではなかったものの、
富栄の遺体を見たあとでは、
「ミゴトにやった」とさえ山岸が思うほどでした。
それほど2人の遺体には違いがあったのです。
これは何を意味するのでしょう?
太宰はほとんど水を飲んでいないことが判明します。
富栄は青酸カリを持っていました。山岸外史は、
「死にいたる時間が計算されていたのである。薬品の使用法が巧かったのだ」
と述べていますが、果たして本当にそうでしょうか。
もしこのとき太宰に死ぬ意志が本当はなかったとしたら……
彼らが13日深夜に飛び込んだ玉川上水は「人食い川」と呼ばれる川で、
発見が遅れたのはそのためでした。
2人が入水したのは同月13日深夜。
約1週間玉川上水の水に浸っていたことになります。
引き上げられた遺体はすでに目を覆うほど痛んでいたそうです。
その状況を目撃した編集者の野原一夫は、
『回想太宰治』の中で次のように記しています。
水際の、わずかばかりの地面に、抱きかかえるようにして遺体を引き揚げるとき、
噎せるほどの異様な臭いが鼻をついた。
それは、形容できないような、異様な臭いだった。
膨れ上がって白くふやけた遺体は、指先がめりこむほどで、
こすれると皮膚がはがれ私たちの雨着に付着した。
腰のあたりにしっかり結びつけられた赤い紐。
これは程なくして切られます。
生前太宰と親しかった者にとって、
この赤い紐は許し難いものでした。
――富栄が太宰を殺した。
――彼女が太宰を奪った。
現場にいた者たちには、
そんな思いが込み上げてくるのを禁じ得なかったのです。
ところで、2人の遺体には明確な違いがありました。
それは死に顔です。
富栄は目を見開き、
「こんなに烈しい恐怖の表情をぼくは考えることもできなかった」
と山岸外史が述べるほどその死に顔はすさまじいものでした。
死の恐怖に手足をばたつかせたのか、
指先は奇妙に曲がっていたと言います。
それに対し、太宰の表情は至極穏やかなものでした。
無傷ではなかったものの、
富栄の遺体を見たあとでは、
「ミゴトにやった」とさえ山岸が思うほどでした。
それほど2人の遺体には違いがあったのです。
これは何を意味するのでしょう?
太宰はほとんど水を飲んでいないことが判明します。
富栄は青酸カリを持っていました。山岸外史は、
「死にいたる時間が計算されていたのである。薬品の使用法が巧かったのだ」
と述べていますが、果たして本当にそうでしょうか。
もしこのとき太宰に死ぬ意志が本当はなかったとしたら……
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