クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

かつて埼玉にいた“龍神”はいまどこにいる?

2012年01月08日 | 奇談・昔語りの部屋
初詣は地元の神社のほかに、
大宮の“氷川神社”へ行くのが恒例となっている。
特にこだわりはないのだが、
長年続けている恒例を途中でやめるのは何となく気が引ける。

氷川神社は武蔵一の宮で、
埼玉県内で初詣客が最も多い神社である。
「混んでるところへよく行きますね」と言われるが、
思いのほかスムーズに参拝できる。
警官の誘導と秩序を乱さぬ参拝者の行儀のよさ所以だろう。

ところで、2012年と言えば“辰年”である。
天高く昇る龍。
大宮と言えば、見沼の龍神伝説がよく知られている。

その昔、江戸時代の頃の話。
新田開発を奨励した幕府により、
関東郡代の“伊奈忠克”は浦和に“八丁堤”を築いた。
伊奈家の手法は伊奈流とも関東流とも言われる。
この八丁堤の築堤により、大きな溜井が出現することとなった。

そもそも、太古の昔、海のない埼玉には奥東京湾が浸食していた。
大宮内にも貝塚が出土している。
水が引けたあとには広大な湿地帯が広がっていた。
ここを再び水で満たし、灌漑用水としたのである。
ときに寛永6年(1629)のことだった。

しかし、幕府の台所事情は次第に苦しくなる。
徳川吉宗の時代、新田開発をさらに奨励し、
幕府の財政を立て直そうとする。

そこへ登場したのは“井沢弥惣兵衛為永”だ。
為永(ためなが)は、広大な見沼を新田に変えさせようと考えたのである。

そこで八丁堤を切り開き、見沼を干拓。
溜井に代わる用水路を掘削した。
現在の利根大堰からほんの少し上ったところを取水口とする。
そこは、日照りでも水の枯れないところとして知られていた。

かくして、享保12年(1727)に用水路は完成。
見沼に代わる用水路として、“見沼代用水路”という名がつけられた。
この名はいまも使われ、利根大堰から取水されている。

前置きが多少長くなったが、
見沼の干拓事業が始まったとき、
井沢弥惣兵衛のところへ一人の美しい女が現れたという。
実は、その女は見沼に棲む“龍神”であった。

見沼が干拓されれば棲むところがなくなってしまう。
新しい住処を見付けるゆえ、99日間工事を止めてほしいと、
龍神は為永に言った。

ところが、為永は龍神の願いを無視して工事を続行。
あるとき、風邪をこじらせて寝込んでいたら、再び龍神が現れる。
「あなたの病気を治してあげよう。その代わり、私の願いを聞き届けてほしい」

そのとき為永の様子をそっと見た従者の話だと、
蛇身の女が目を光らせ、耳まで裂けた口から真っ赤な炎を吐きながら、
為永の体をなめ回していたという。
これを聞いた為永は肝を冷やす。
詰め所を万年寺に移し、そのまま工事を続けたということである。
そして、工事は無事に終わりを迎えた。

見沼は干拓され、龍神は住処を奪われたことになる。
ちなみに、氷川女躰神社では、かつて龍神を祀る「御船祭」が行われており、
船に御輿を乗せて、見沼の四本竹で儀式を行うというものだった。
発掘調査により、その跡地からは多くの竹と小銭が出土している。

つまり、見沼周辺に暮らす人々にとって、
龍神は信仰の対象であり、荒ぶる神だったということだ。
見沼干拓を反対する村人も多く、
龍神の祟りを恐れた者も少なくなかったに違いない。

そうした龍神への畏怖と、偉大な事業を成し遂げた為永への畏敬が混じり合って、
上記のような伝説が生まれたのだろう。
龍神の登場などおとぎ話のようではあるが、
その伝説の背景には、新田開発に挑んだ人の軌跡と、
人々の深い信仰が隠されているのである。

ところで、住処を失った龍神はいまどこにいるのだろう。
見沼に代わる用水路の中を泳いでいるだろうか。
それとも空高く飛んでいるかもしれない。

辰年の2012年。
見沼の龍神に想いを馳せたい。
飛翔する年になることを祈りながら……


埼玉県さいたま市


氷川神社


氷川女躰神社


分骨して建てられた井沢弥惣兵衛為永の墓碑(埼玉県白岡町)


見沼代用水路元圦


見沼代用水路の旧流路


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