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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

北条高広の“天魔の所行”に上杉謙信は激怒する? ―上州争乱(27)―

2013年09月26日 | 戦国時代の部屋
私利私欲で戦うことはなく、筋目を重んじ、
義に厚い上杉謙信は、正義である自分から離反するなど、
もってのほかと思ったただろうか。

永禄9年に主立った関東諸将は謙信から離反。
同じ年に武田信玄は箕輪城を落とし、西上野を掌握するに至った。
関東における上杉勢力網の瓦解である。

そんな謙信にとって、さらなる追い打ちが重なる。
厩橋城代の“北条高広”(きたじょうたかひろ)が謙信から離れ、
北条方へ走ったのだ。
関東経略の拠点として信頼を寄せていた北条の離反は、
謙信にとっては体の一部を失うほどの衝撃を覚えたに違いない。
謙信は本庄実乃に宛てて次のように書き記す。

 丹後守(北条高広)召連、南方陣へ差渡候事、前代未聞之刷、不及是非候、
 道七以来之芳志与云、関東ニ輝虎為代差置候事、無其隠候、如此之仕合、
 天魔之所行ニ候

よほど信じられなかったのだろう。
なぜ、北条(きたじょう)までが自分を裏切るのか?
なぜ、譜代の芳志を忘れ、妻子を捨ててまで後北条や武田に与するのか?
謙信にとっては理解不能であり、
その離反を天魔の仕業としている。

永禄10年10月24日、越山した謙信は沼田城へ着陣。
そして、翌日には離反した諸将に対してその鬱憤を晴らすがごとく、
「厩橋・新田・足利敵城廿余ヶ所」を攻める。
城下を荒らし、火を放ち、離反者への制裁を加えたのだろう。

北条氏政の陣所の近くまで攻め寄せたが、
利根川に架かる舟橋を切り落とし、決戦にはいたらなかった。
そして、謙信は唐沢山城を攻める。
唐沢山城主佐野氏は離反と従属を繰り返していた男で、
彼の苦悩ぶりが窺える。

謙信も、城を攻めても城主もろとも見殺しにはしない。
激しい戦闘になる前に、城方から降伏が申し出されたのだろう。
しかし、無償で降伏を受け入れるわけではない。
謙信は、「虎房丸」をはじめとする人質約30余人を引き取るのである。
そして、人質を引き連れて帰国の途に就くのだった。

ちなみに、後北条氏へ従属した北条高広は、
「他国衆」に編成され、領地を貰い受けている。
彼はなぜ謙信から離反したのだろう。
無論、謙信に愛想が尽きたというような単純な理由でないに違いない。
その内面に押し入るのは、文学の領域だろうか。


厩橋城址(群馬県前橋市)



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2 コメント

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箕輪城 (Treasure)
2013-09-26 18:45:04
三連休に行ってきました。あれほどの縄張りの城が落城したとは、想像できません。やはり、寝返りが続いたんでしょうか。

池波正太郎の剣の天地を読むと、箕輪城落城あたりまで描かれています。確か、小幡勘兵衛も武田方に内通していたような。うろ覚えです。
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Treasureさんへ (クニ)
2013-09-28 09:36:26
武田信玄の軍勢に執拗に攻められている内に、
箕輪城内で少しずつ内部崩壊が始まっていた可能性はありますよね。
箕輪城は宵時に行ったのですが、
今度は改めて日の高い内に行きたいです。
そういえば、同級生が箕輪城へ行ったらしく、いたく感動してました。
いまも昔も心を揺さぶる城かもしれませんね。
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