クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

上杉定正の最期は事故だった?

2015年03月14日 | 戦国時代の部屋
 十月二日両陣すすミ高見、與顕定荒川をへたて対陣す、同三日範亭・宗瑞両陣打立、
 川を渡らんとする處に、範亭落馬して頓死軍敗
 (「石川忠総留書」より)

長享2年(1488)に高見原で上杉顕定と激突した上杉定正(範亭)は、
明応3年(1494)に再び荒川を隔てて対陣する。
このとき、定正は伊勢宗瑞(北条早雲)と行動を共にしており、
長享2年の頃とは状況が変わっていた。

乱世を生きてきた男である。
定正は、己の死に場所は戦場と予測していただろうか。
戦死か自害か。
少なくとも、事故死とは考えてなかったかもしれない。

「石川忠総留書」によると、定正は荒川を越えようとしたところ、
馬から落ち、それによって死んでしまったという。
周囲も驚いたに違いない。
何か陰謀めいたものも感じなくはないが、
定正の頓死によって軍を引き上げざるを得なかった。

上杉定正が渡ろうとした荒川の場所は定かではないが、
赤浜の渡しという鎌倉街道の上道の一部がある。
冬にその地へ足を運んでみると、
川の水は大したことはなく、難なく渡れそうな雰囲気がある。

ただ、ここにはゴツゴツした岩がある。
「川越岩」と呼ばれる岩は巨大で、「獅子岩」との別名もあるという。
定正は赤浜付近を渡り、そこで落馬したとしよう。
地面の岩に頭をぶつけ、
その打ちどころが悪くて息を引き取ったのではないか。
もし砂浜だったならば、怪我をしても死ぬことはなかったかもしれない。

赤浜の渡しは古くから多くの人が行き交っていた。
荒川の水はいまよりも多く、荒々しかったのだろう。
川越岩はずっと長くその景観を見続けてきたに違いない。

現在は橋が架かり、渡るのに何の苦もない。
鎌倉街道上道を通った昔の旅人が現在の橋を見たら、
果たしてどう感じるだろうか。
逆に気味悪がって、直接川を渡ろうとするかもしれない。



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