太田資正が実の息子によって岩付城から追放された永禄7年以来、
後北条氏の動きはさらに活発化します。
一国を得るに等しいと言われた関宿城への攻撃を開始。
北関東に勢力を伸ばすには、関宿城の掌握は必須です。
したがって、上杉方の姿勢を示す関宿城主簗田氏は負けるわけにはいきません。
絶妙な防戦によって城を死守。
第1次関宿攻城戦はひとまず簗田氏に軍配が上がりました。
このとき羽生城内にいたであろう広田直繁も、
その戦況は気になっていたはずです。
関宿城が落ちれば、関東における上杉勢力は大きな打撃です。
後北条氏の勢力が、一気に武蔵国へ押し寄せてくることは必定で、
それは脅威であったでしょう。
関宿城を落とせなかったとはいえ、
北条勢は士気を失ったわけではありません。
武蔵国へ進軍し、上杉方の諸城に圧力をかけるのです。
その動向に注意を向けていたのは、何も城主(国衆)だけではありません。
寺院の住職もまた敵勢の進攻は脅威でした。
自衛のため、敵勢にお金を渡し、
乱妨狼藉を禁止する高札を購入することが一般的だった時代です。
上野国の世良田山長楽寺の住持義哲もまた無関心ではいられなかったらしく、
日記に敵勢の動きを書き記しています。
この「長楽寺永禄日記」によると、
北条勢は荒川を越えて進軍。
肥塚に陣を進め、やがて成田氏が守る忍城へ向かいます。
しかし、このとき北条勢は本格的な城攻めは考えていなかったでしょう。
圧力をかけることで、後北条氏への従属を促していたと思われます。
どのような圧力だったか?
進軍もさることながら、
鉄砲を撃ったり、土地に火を放ったりすることがその一つだったようです。
北条勢は、成田や北河原の地域を焼いたと「長楽寺永禄日記」に記されています。
北条勢は妻沼聖天山付近に陣を張ったあと、
羽生方面に向けて進軍。
羽生城内には一気に緊張が走ったのではないでしょうか。
北条勢の来襲。
大型台風の襲来のようかもしれません。
国衆ではなく、戦国大名の軍勢です。
領内が慌ただしくなったことは想像に難くありません。
広田直繁はどのような指揮を執ったでしょう。
金山城主のように自ら出陣し、河辺へ向かう場面もあったでしょうか。
民衆を城に避難させると同時に、兵を参集させる……。
記録類はいまのところ残っていませんが、
城主として指揮を執る姿が見られたはずです。
北条勢は羽生に向かっても、城攻めは行わなかったようです。
忍城ほどの規模を持たない羽生城です。
もし忍城が北条方につけば、
自ずと羽生城もなびくと思っていたかもしれません。
しかし、のちに忍城が後北条氏についてもなびくことのなかった羽生城。
それどころか、周囲の城が後北条氏に従属し、孤立無援になっても、
羽生城は終始一貫して上杉方の姿勢を貫くのです。
そんな羽生城の生一本な態度を、
永禄8年当時に後北条氏は想像していたでしょうか。
「もしも」の話になってしまいますが、
永禄8年に羽生城を陥落させていれば、
後北条氏の武蔵国平定はもう少し早くに成っていたかもしれません。
上杉謙信との対決にも、微妙な変化があったでしょう。
しかし、このときの羽生城は北武蔵に位置する小さな城の一つであり、
忍城の影に隠れた存在にすぎなかったのです。
後北条氏の動きはさらに活発化します。
一国を得るに等しいと言われた関宿城への攻撃を開始。
北関東に勢力を伸ばすには、関宿城の掌握は必須です。
したがって、上杉方の姿勢を示す関宿城主簗田氏は負けるわけにはいきません。
絶妙な防戦によって城を死守。
第1次関宿攻城戦はひとまず簗田氏に軍配が上がりました。
このとき羽生城内にいたであろう広田直繁も、
その戦況は気になっていたはずです。
関宿城が落ちれば、関東における上杉勢力は大きな打撃です。
後北条氏の勢力が、一気に武蔵国へ押し寄せてくることは必定で、
それは脅威であったでしょう。
関宿城を落とせなかったとはいえ、
北条勢は士気を失ったわけではありません。
武蔵国へ進軍し、上杉方の諸城に圧力をかけるのです。
その動向に注意を向けていたのは、何も城主(国衆)だけではありません。
寺院の住職もまた敵勢の進攻は脅威でした。
自衛のため、敵勢にお金を渡し、
乱妨狼藉を禁止する高札を購入することが一般的だった時代です。
上野国の世良田山長楽寺の住持義哲もまた無関心ではいられなかったらしく、
日記に敵勢の動きを書き記しています。
この「長楽寺永禄日記」によると、
北条勢は荒川を越えて進軍。
肥塚に陣を進め、やがて成田氏が守る忍城へ向かいます。
しかし、このとき北条勢は本格的な城攻めは考えていなかったでしょう。
圧力をかけることで、後北条氏への従属を促していたと思われます。
どのような圧力だったか?
進軍もさることながら、
鉄砲を撃ったり、土地に火を放ったりすることがその一つだったようです。
北条勢は、成田や北河原の地域を焼いたと「長楽寺永禄日記」に記されています。
北条勢は妻沼聖天山付近に陣を張ったあと、
羽生方面に向けて進軍。
羽生城内には一気に緊張が走ったのではないでしょうか。
北条勢の来襲。
大型台風の襲来のようかもしれません。
国衆ではなく、戦国大名の軍勢です。
領内が慌ただしくなったことは想像に難くありません。
広田直繁はどのような指揮を執ったでしょう。
金山城主のように自ら出陣し、河辺へ向かう場面もあったでしょうか。
民衆を城に避難させると同時に、兵を参集させる……。
記録類はいまのところ残っていませんが、
城主として指揮を執る姿が見られたはずです。
北条勢は羽生に向かっても、城攻めは行わなかったようです。
忍城ほどの規模を持たない羽生城です。
もし忍城が北条方につけば、
自ずと羽生城もなびくと思っていたかもしれません。
しかし、のちに忍城が後北条氏についてもなびくことのなかった羽生城。
それどころか、周囲の城が後北条氏に従属し、孤立無援になっても、
羽生城は終始一貫して上杉方の姿勢を貫くのです。
そんな羽生城の生一本な態度を、
永禄8年当時に後北条氏は想像していたでしょうか。
「もしも」の話になってしまいますが、
永禄8年に羽生城を陥落させていれば、
後北条氏の武蔵国平定はもう少し早くに成っていたかもしれません。
上杉謙信との対決にも、微妙な変化があったでしょう。
しかし、このときの羽生城は北武蔵に位置する小さな城の一つであり、
忍城の影に隠れた存在にすぎなかったのです。
岩松寺の達磨絵は羽生市史の口絵にあり、最初見たときのインパクトをいまも覚えています。
先代のご住職には、郷土研究会の会長だったのでよくお世話になりました。
もう懐かしいですね。
個人的に、郷土史研究と夏の相性はいいと思っています。
充実した郷土史研究の夏をお過ごしください。
資料も何も無いのでとても参考になります。
個人的には今、江戸時代の事、特に松平信綱の事や江戸幕府奥絵師狩野探幽を学んでます、それは岩松寺に関わる事です。
自分の中ではどんな先祖だったか大体出来上がってきましたけど、又疑問も出来ました。
狩野探幽筆とされる達磨絵の真贋が謎の鍵かな?