クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

編集者と行く羽生城めぐりは?(46) ―第二次国府台合戦―

2011年09月23日 | 羽生城跡・城下町巡り
小泉城主“冨岡重朝”に宛てた上杉輝虎(謙信)の書状により、
太田資正は羽生へ移ったのかと思いきや、
資正はそれどころではなかった(「冨岡家文書」)

松山城を攻略した北条氏康が、
次に狙いを定めたのは岩付城だった。
反北条の姿勢をとる上総の里見氏に出陣を要請。
さらには、江戸城の“太田資康”を味方に引き入れることに成功した。

太田軍と里見義弘の軍勢が合流したのは、
下総国府台である。
こうした動きに対し、
北条氏康・氏政父子も国府台に向けて出陣。
かくして、両軍は国府台で激しくぶつかり合ったのである。

この戦いは、1000~3000人余りの死者を出す激戦となった。
北条方では冨永直勝や遠山綱景、
一時羽生城代となった中条出羽守も戦死している。
里見軍は強い。
また智将で知られる太田資正も加わっている。
冨岡や遠山の軍勢を打ち破り、その勝利に気をよくした。

勝って兜の緒をしめよ、との言葉がある。
勝利とはいえ、氏康・氏政を討ったわけではない。
義弘も資正も油断するつもりはなかったのだろう。

しかし、兵たちの疲れを癒そうとした。
兵たちは鎧を脱ぎ、馬に水草を与え、酒を飲んだ。
小雨が降り、正月が明けたばかりのせいもあって、
心のどこかが緩んでいたのだろう。

そんな里見軍に、北条軍が襲いかかる。
かつて、河越城を包囲した上杉・足利の大軍を、
わずかな手勢で追い払った北条氏康である。
敵の隙を突いて攻めかかるのを得意としていた。

北条軍の急襲に、里見義弘は慌ててこれを迎え討つ。
その合戦の様子について、
『国府台合戦物語』は次のように伝える。

 両方屢々入り乱れ、「爰を最後」と戦ひけり、鉄砲矢叫びの声天地を響かし、
 或は首を取られつ、血煙を出し、半時は勝負見えざりけり

東国合戦史の中でも、とりわけ激しい合戦となった。
ついに里見軍は瓦解。
太田資正は馬から飛び降りて5、60人切り伏せたが、
敗走を余儀なくされた。

 よし弘く頼む弓矢の威は尽きて
  からきうき目に太田みのはて

そんな落書が書かれたという。
里見義弘も敗走。
討ち取られることはなかったが、
手痛い一敗となった。

かくして北条の勝利となる。
しかし、北条も手放しでは喜べない。
富岡・遠山両将を失った上、1000人余りの戦死者を出している。
しかも、上杉輝虎が関東に出陣中だ。

もし、この里見・太田軍に上杉軍が加わっていれば、
合戦の結果は変わっていたかもしれない。
成り行き次第では、
その後の歴史も、いまに伝わるものとは違っていたのではないか。
「たら」「れば」の話だが、
それほど大きな合戦であったことは間違いない。
この合戦を機に、太田資正の身に転機が訪れるのだった。

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