小泉城主“冨岡重朝”に宛てた上杉輝虎(謙信)の書状により、
太田資正は羽生へ移ったのかと思いきや、
資正はそれどころではなかった(「冨岡家文書」)
松山城を攻略した北条氏康が、
次に狙いを定めたのは岩付城だった。
反北条の姿勢をとる上総の里見氏に出陣を要請。
さらには、江戸城の“太田資康”を味方に引き入れることに成功した。
太田軍と里見義弘の軍勢が合流したのは、
下総国府台である。
こうした動きに対し、
北条氏康・氏政父子も国府台に向けて出陣。
かくして、両軍は国府台で激しくぶつかり合ったのである。
この戦いは、1000~3000人余りの死者を出す激戦となった。
北条方では冨永直勝や遠山綱景、
一時羽生城代となった中条出羽守も戦死している。
里見軍は強い。
また智将で知られる太田資正も加わっている。
冨岡や遠山の軍勢を打ち破り、その勝利に気をよくした。
勝って兜の緒をしめよ、との言葉がある。
勝利とはいえ、氏康・氏政を討ったわけではない。
義弘も資正も油断するつもりはなかったのだろう。
しかし、兵たちの疲れを癒そうとした。
兵たちは鎧を脱ぎ、馬に水草を与え、酒を飲んだ。
小雨が降り、正月が明けたばかりのせいもあって、
心のどこかが緩んでいたのだろう。
そんな里見軍に、北条軍が襲いかかる。
かつて、河越城を包囲した上杉・足利の大軍を、
わずかな手勢で追い払った北条氏康である。
敵の隙を突いて攻めかかるのを得意としていた。
北条軍の急襲に、里見義弘は慌ててこれを迎え討つ。
その合戦の様子について、
『国府台合戦物語』は次のように伝える。
両方屢々入り乱れ、「爰を最後」と戦ひけり、鉄砲矢叫びの声天地を響かし、
或は首を取られつ、血煙を出し、半時は勝負見えざりけり
東国合戦史の中でも、とりわけ激しい合戦となった。
ついに里見軍は瓦解。
太田資正は馬から飛び降りて5、60人切り伏せたが、
敗走を余儀なくされた。
よし弘く頼む弓矢の威は尽きて
からきうき目に太田みのはて
そんな落書が書かれたという。
里見義弘も敗走。
討ち取られることはなかったが、
手痛い一敗となった。
かくして北条の勝利となる。
しかし、北条も手放しでは喜べない。
富岡・遠山両将を失った上、1000人余りの戦死者を出している。
しかも、上杉輝虎が関東に出陣中だ。
もし、この里見・太田軍に上杉軍が加わっていれば、
合戦の結果は変わっていたかもしれない。
成り行き次第では、
その後の歴史も、いまに伝わるものとは違っていたのではないか。
「たら」「れば」の話だが、
それほど大きな合戦であったことは間違いない。
この合戦を機に、太田資正の身に転機が訪れるのだった。
太田資正は羽生へ移ったのかと思いきや、
資正はそれどころではなかった(「冨岡家文書」)
松山城を攻略した北条氏康が、
次に狙いを定めたのは岩付城だった。
反北条の姿勢をとる上総の里見氏に出陣を要請。
さらには、江戸城の“太田資康”を味方に引き入れることに成功した。
太田軍と里見義弘の軍勢が合流したのは、
下総国府台である。
こうした動きに対し、
北条氏康・氏政父子も国府台に向けて出陣。
かくして、両軍は国府台で激しくぶつかり合ったのである。
この戦いは、1000~3000人余りの死者を出す激戦となった。
北条方では冨永直勝や遠山綱景、
一時羽生城代となった中条出羽守も戦死している。
里見軍は強い。
また智将で知られる太田資正も加わっている。
冨岡や遠山の軍勢を打ち破り、その勝利に気をよくした。
勝って兜の緒をしめよ、との言葉がある。
勝利とはいえ、氏康・氏政を討ったわけではない。
義弘も資正も油断するつもりはなかったのだろう。
しかし、兵たちの疲れを癒そうとした。
兵たちは鎧を脱ぎ、馬に水草を与え、酒を飲んだ。
小雨が降り、正月が明けたばかりのせいもあって、
心のどこかが緩んでいたのだろう。
そんな里見軍に、北条軍が襲いかかる。
かつて、河越城を包囲した上杉・足利の大軍を、
わずかな手勢で追い払った北条氏康である。
敵の隙を突いて攻めかかるのを得意としていた。
北条軍の急襲に、里見義弘は慌ててこれを迎え討つ。
その合戦の様子について、
『国府台合戦物語』は次のように伝える。
両方屢々入り乱れ、「爰を最後」と戦ひけり、鉄砲矢叫びの声天地を響かし、
或は首を取られつ、血煙を出し、半時は勝負見えざりけり
東国合戦史の中でも、とりわけ激しい合戦となった。
ついに里見軍は瓦解。
太田資正は馬から飛び降りて5、60人切り伏せたが、
敗走を余儀なくされた。
よし弘く頼む弓矢の威は尽きて
からきうき目に太田みのはて
そんな落書が書かれたという。
里見義弘も敗走。
討ち取られることはなかったが、
手痛い一敗となった。
かくして北条の勝利となる。
しかし、北条も手放しでは喜べない。
富岡・遠山両将を失った上、1000人余りの戦死者を出している。
しかも、上杉輝虎が関東に出陣中だ。
もし、この里見・太田軍に上杉軍が加わっていれば、
合戦の結果は変わっていたかもしれない。
成り行き次第では、
その後の歴史も、いまに伝わるものとは違っていたのではないか。
「たら」「れば」の話だが、
それほど大きな合戦であったことは間違いない。
この合戦を機に、太田資正の身に転機が訪れるのだった。
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