クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

ふるさとの“神社”を巡りませんか?(18)―氷川神社と太宰治Ⅶ―

2008年01月18日 | 神社とお寺の部屋
作家太宰治は昭和23年6月13日に入水してその生涯を終えるまで、
4回も自殺を図っています。
いわゆる自殺未遂事件です。

1回目は昭和4年に大量のカルモチンを飲み、
自殺を試みましたが失敗。
2回目は昭和5年。
カフェの女給“田部シメ子”と鎌倉七里ヶ浜で薬物心中を図るものの、
太宰は生還します。
シメ子は絶命しました。

3回目は昭和10年。
単身で鎌倉へ行き、鎌倉山で縊死を図って失敗。
4回目は昭和12年。
内縁の妻“小山初代”と水上温泉でカルモチン心中を図りましたが、
これも未遂に終わっています。

よって太宰は5回目にしてようやく自殺を遂げたということになります。
しかし、猪瀬直樹氏は著書『ピカレスク』の中で、
太宰の自殺未遂事件は偽装と説いています。
現実に煮詰まったとき、
自殺を演じることで打開を試みるというもの。

 自殺は口癖であったし、実際に真似事を繰り返した。
 つねに真似事であったから死の一歩手前で生還するのである。
 その過程で、日常と非日常のあわいを生きる快楽、自虐の快楽を知った。
 パビナール中毒にかかったが、ほんとうの中毒はそんな薬ではなく
 死をもてあそぶ快楽と苦痛であった。
 (『ピカレスク』より)

死を遂げる昭和23年の入水は、
本当に死ぬ意志があって決行したのでしょうか? 猪瀬直樹氏は
「太宰は生きようとしていた。死は、まだ道具だと思っている」
と同書の中で述べています。

 田部あつみ(シメ子)が死に、自分だけが生き残った。
 そういう選択も考えただろう。
 あのときは自殺幇助罪は免れ不起訴処分で終わった。
 同じ方法をかなり本気で考えていたかもしれない。
 (同書より)

太宰と山崎富栄とでは、死に対する切迫感は異なっていました。
もつれる女性関係に苦しむ太宰と、
親も兄弟も棄てて世間を狭く歩く富栄。
太宰は富栄と別れたがっていましたが、
富栄は「離れますものか」と別れる意志はありません。
彼女は太宰の仄めかす「死」を具体的に考え、
またそれを切実に望んでいました。

「死のうか?」と切り出す太宰。
それが本心とは限らず、
偽装自殺が現実を打開するための道具なら、
心中を装うことで自分だけが生き残る手段を考えていたかもしれません。
2人は遺書をしたため部屋を出ます。
そして、玉川上水に向かうのでした。


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