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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

隠れキリシタンは“悪日”に何をする?

2013年03月30日 | ふるさと歴史探訪の部屋
 阿波め演阿波め珊底主神
 是ハ御守之文字候間右を認メかたく懐中居候事
 (「御用日記留」)

「阿波め演、阿波め」は見慣れない言葉である。
実はこれ、キリスト教でいうところの「アーメン」である。
この文書は江戸後期に書かれたもの。

現在のように、簡単に「アーメン」と言える時代ではない。
それなのに、「阿波め演、阿波め」はお守りの文字であり、
これを紙に書いて懐にしまっておくようにと、書き綴っている。

書いた人物は、騎西町場の名主の「忍様御領分親類」である。
つまり、忍領に住む名主さんの親戚ということになる。
隠れてキリスト教を信仰していたのだろう。
「阿波め演阿波め」の言葉にには、
江戸期キリシタンの厚い信仰が窺い知れる。

ちなみに、この頃ハシカが流行っており、
命を落とす人が続出していた。
人々は病原菌という目に見えない相手を恐れ、
不安な日々を送っていたのだろう。

8月23日と閏8月5日は、ことのほか「悪日」だと名主さんの親戚は言う。
そのため、まじないめいたものを伝えている。
それは、黒豆8粒、白米8粒を朝5つ前までに煎じて屋内で飲み、
昼9つ時から8つ時まで、食物、湯茶、煙草を禁止。
また、その時間帯は外出も農作業もしてはいけないという内容だ。
見えない敵と戦う往時の人々の不安が偲ばれる。

※最初の写真は特に関連はないが騎西城の土塁
 埼玉県加須市

館林城の“三の丸”には何が建っている?

2012年12月05日 | ふるさと歴史探訪の部屋
群馬県の“館林市立図書館”は一つの特色がある。
それは“図書館”と“郷土資料館”が併設されていることだ。

生涯学習の拠点として読書もさることながら、
資料館で実物資料に触れる体験学習の場としている。

しかも、両市施設とも文化会館が隣接している。
館林は文化会館、羽生は産業文化ホールである。
周囲に樹木が比較的多く立っているのも、
もう一つの共通点だろうか。

館林の図書館は、最後の藩主“秋元家”と関係している。
秋元家は学問に熱心であり、
古今東西の書物を集めていた。
この蔵書を一般に活用すべく秋元文庫が設立されたのは、
大正7年のことだった。

その数1万6千冊。
書物は形として残り、後世に伝わるものである。
この書物を邪魔とする学問的関心の薄さはなかった。

昭和9年、秋元文庫は館林町に寄贈。
同29年に市制がひかれ、「館林市立図書館」となったのである。
現在の建物は、同49年11月に建設されたもの。
隣接する文化会館も同様だ。

市役所とも隣接しており、
町の中心のはずなのに閑静で落ち着いた場所である。

図書館からほんの少し足を伸ばせば、
館林城の土橋門(復元)が建っている。
さらに田山花袋記念館や向井千秋記念館も近いし、
広大な城沼もすぐそこに横たわっている。

読書や調査で疲れたら、足を伸ばしてみるといい。
文化的な香りが、熱した脳に新しい刺激を与えてくれるだろう。
そしてそれは、新しい創造に繋がるかもしれない。


館林市立図書館(群馬県館林市)


土橋門(同上)

羽生の“才塚”にはかつて何があった?

2012年11月17日 | ふるさと歴史探訪の部屋
羽生市弥勒に“才塚”という小字がある。
明治期に編まれた地誌『武蔵国郡村誌』には、
「五軒の東南に連る東西二町二十四間 南北七町四間」と記されている。

調べたところ、三田ヶ谷小学校の北側の辺りが“才塚”のようだ。
それにしても、なぜ「才塚」という地名が付いたのだろう。

『三田ヶ谷村史』によると、弥勒村には3人の豪族がいたという。
「文明の頃」とあるから、1469~1486年にあたる。
ちなみに、「羽生」の地名が初めて歴史に登場するのも文明年間である(「太田道灌状」)。

3人の豪族の一人が、才塚の辺りに広大な屋敷を構え、居住していた。
雇い人は100人を越え、農事に励み、一族はますます栄えるばかりだった。
この豪族の屋敷内に、材木を積んでいたところがあったという。

しかし、栄える家の家系には、不思議と「遊び人」が登場するものだ。
豪族の一族も例外ではなかった。
豪遊する者が現れ、ついには身上を潰してしまう。

一族は退去し、屋敷は傾き、やがては草木の生い茂る場所に変わり果てた。
積まれていた材木もいつしか消えてしまう。
ただ、その跡を「材塚」と呼んだという。
材木が塚のようにあったことから、その名が付いたのだろう。

この「材塚」は、いつの頃からか表記が変わる。
すなわち、「才塚」である。
かくして、「材塚」は「才塚」となり、
地名として脈々と生き続けることになったのだ。

ちなみに、『三田ヶ谷村史』は口碑をまとめたもので、
昭和2年頃に編まれている。
同書に載るこの伝説をどこまで信じていいのかわからないが、
興味深い話ではある。

なお、豪族の屋敷の裏門にあたる場所を「浦門」と言った。
『武蔵国郡村誌』や『新編武蔵風土記稿』には載っていない。
地元の人でなければ見付けることのできない地名かもしれない。

大宮公園に“コバトン”がいる?

2012年11月16日 | ふるさと歴史探訪の部屋
埼玉県のマスコットと言えば“コバトン”である。
平成16年開催予定の“国民体育大会”をアピールするため、
マスコットイメージを一般募集したところ、800通近くの応募があったという。

その中から選ばれたのがコバトンだった。
応募したのは当時の高校生。
ところが、デザインは決まったものの名前は付けられていなかった。

これも一般募集をかける。
すると、1万7千以上もの応募が殺到。
厳正な審議の結果、平成13年に「コバトン」の名前に決定した。
“シラコバト”と“バトン”をかけた名前だ。

いまや埼玉の顔としてあちこちを飛び回っている。
11月24日、25日に羽生で開催される「ゆるキャラさみっとinはにゅう」にも
登場する予定だ。
ちなみに、大宮公園内にある小さな動物園へ行けば、
シラコバトとコバトンを見ることができるだろう。


シラコバト
最初の写真はコバトン

騎西城に向かって結婚スピーチ?

2012年11月07日 | ふるさと歴史探訪の部屋
加須駅から騎西城へ向かう道がある。
道路は整備され、車で悠々自適に通行が可能だ。

整備される前は細い道で、車もさほど通らなかった。
両脇を田んぼに囲まれ、無論信号も設置されていない。
夏になれば、暗い夜道にカエルの声が鳴り響く。

そんな騎西城へ向かう道で、
結婚式のスピーチの練習をしたことがある。
友人に頼まれたスピーチで、人前で話すことなどなかったぼくは、
ちゃんと言葉が出てくるのかとても不安だった。

家で練習するのは気が引ける。
庭でのリハーサルも気恥ずかしい。
そこで、当時よく行っていた騎西城の帰り道に自転車を止めて、
田んぼのど真ん中で練習したのだ。

原稿用紙に換算して1、2枚くらいだっただろうか。
カエルの鳴り響く暗い夜道で何度も練習をした。
周囲が田んぼだから、誰にも聞かれる心配はない。
聞いているのはカエルくらいだ。
いや、カエルだって聞いてはいないだろう。
はたから見れば、夜な夜な結婚スピーチをする新種の妖怪だったかもしれない。

結婚式当日は緊張したが、やってしまえばあっと言う間だった。
DVDを見れば笑えるらしいが、とても目にする勇気はない。

そんな結婚式に彩られた道だったのだが(個人的に)、
前述の通り整備され、車が頻繁に行き交うようになった。
まるで別人のように変わった。
カエルの鳴き声が聞こえても、とてもスピーチの練習をする雰囲気ではない。
練習をするなら別の場所を探さねばならないだろう。
(利根川でも練習した)

最近、騎西城に隣接する図書館に行く機会があった。
窓際の席に座り、頬杖をつく。
窓の向こうには、騎西城の櫓が建っている。
それをぼんやり眺めていると、
結婚スピーチのことがふと脳裡にかすめた。
11月では季節はずれのカエルの鳴き声とともに……

※最初の写真は騎西城(埼玉県旧騎西町)

戦乱で荒廃した寺を再興した羽生城代は?

2012年06月12日 | ふるさと歴史探訪の部屋
 羽生之内藤井郷源長寺、雖為古跡、年来致大破之由候、
 然ニ此度御入国之上御縄打御座候間、熊蔵殿江直談仕申請候、
 此旨治部少輔ニ為聞候間、寺中并門前屋敷之外、沼田共ニ相違有間敷候、
 為後日一札進置候、扔如件
 (「道斎文稿」)

羽生城代“不得道可”が“源長寺”に宛てた証文である。
年月日は天正19年(1591)5月朔日。
豊臣秀吉の天下統一が成ってからまだ間もない。
別の言い方をすれば、徳川家康が関東に入府し、
新しい時代に幕を開けたばかりと言える。

「年来致大破」の文言が生々しい。
すなわち、長く続いた戦乱によって、「源長寺」は荒廃していたのである。

この証文を発行した“不得道可”は前羽生城主木戸忠朝の家臣で、
法体前は“鷺坂軍蔵”と名乗っていた。
天正18年に大久保忠隣が新しく羽生城を取り立てられてからは、新しい主君に仕えていたが、
天正2年にこの世を去った前主君・木戸忠朝への忠義は強く残っていたのだろう。
亡き忠朝を追善供養するため、源長寺を再興したのだ。

上記の証文は、治部少輔(大久保忠隣)の了解を得て、
御縄打(検地)をする熊蔵殿(伊奈忠次)に、
寺領・門前屋敷・沼田を安堵するよう直談した旨を、源長寺に伝えている。

ちなみに、大久保忠隣自身は羽生に足を運ぶことはなかった。
羽生領の運営は、忠隣に窺いを立てながら不得道可が行っていた。
この道可は、年貢の取り立てがことのほか厳しかったらしい。
正しく年貢を取り立てるために、秋に一坪だけ稲を刈り、
その平均的な実収量から租率を決めた。
また、領内をよく見回っていた。

義に厚く、完璧主義者だったのだろうか。
重箱の端を突くような、細かい性格でもあったのかもしれない。
不得道可の肖像画は残っていて、羽生市指定文化財になっている。
なるほど、確かに妥協を許さない精悍な顔つきをしている。

春は“館”できざみ煙草を吸う? -はにゅう萌え(37)ー

2012年02月21日 | ふるさと歴史探訪の部屋
“羽生館”を初めて訪れたのは1997年3月のこと。
部活のOB会の会場で、
高校を卒業したばかりのぼくらは羽生館へ足を運んだ。

ここは、文豪川端康成が宿泊した場所でもある。
小説『田舎教師』の文学散歩に訪れた川端、横光利一、片岡鉄兵は、
羽生での宿泊先を羽生館と決めた。
小説の中にも「梅沢旅館」として(元はこの名称)、
ほんの少し登場する。

昭和27年10月に“羽生被服同業会”が結成されたのも、
この“羽生館”だった。
羽生の大通りに面していて、
藍染・被服で勃興していくこの町を見つめてきたのだろう。

工場や会社が興り、そこに勤めるのは地元の人たちだけではない。
近郷から通勤する人もいれば、
東北からやって来る人もいた。
定時制高校が生まれたのも、
若くして東北から羽生に働きに来た若者たちに、
教育を受けさせるためだった。

ところで、初めて行った羽生館には、
ずっと上の先輩も来ていた。
無論、初めて見る先輩もいる。
20歳を過ぎた先輩だから、酒を飲むのは当たり前。
煙草の煙もあちこちあがっていた。

当時はまだ喫煙場所にうるさくなかった時代である。
外へわざわざ吸いに行くこともなかったし、
中で煙草に火をつけても、違和感を持たなかった。

当時は煙草一箱220~260円くらいではなかっただろうか。
年齢確認をする自動販売機も登場していない。
23時を過ぎると、自動販売機の営業は中止になっていた気がするが、
いまほど物理的な規制がかかっていなかったことは確かである。
煙草一つ見ても、「十年前」がすでに大昔に思える。

実は、羽生館の裏では、かつて“きざみたばこ”が製造されていた。
明治20年頃のことである。
羽生の古市長右衛門と齋藤徳之助、梅澤貞吉の三人が共同して、
製造を開始したのだ。
工場には5、6名の職人が出入りし、働いていた。

古市氏は『埼玉営業便覧』を見ると、
現在のプラザ通りに面す北のコンビニに商店を営んでいたようである。
「紙荒物問屋」とあり、煙草・砂糖・紙・荒物類を扱っていた。

屋号は“亀屋”。
北埼玉たばこ元売捌合名会社が設立されたとき、
古市氏は1万2千円を出資している。
ダントツの出資額である。
そのため、羽生町に本店を置き、行田と加須には支店が設置された。

どんな職人たちが、羽生館の裏できざみたばこを作っていたのだろう。
煙草を吸っている先輩たちがそれを知っているとは思えないし、
知ったとてどうということではない。
大学のテストや会社の実務で使うことはあるまい。

OB会は毎年恒例だったらしい。
翌年の3月も同様に羽生館で開催された。
幹事は持ち回りである。
ぼくらの代のときに伝統を破り、
羽生館を使わなかったのを覚えている。

誰が言い出したのかはわからない。
なぜ羽生館ではなく、羽生駅前になったのだろう。
それから何度かOB会に出席したが、
いつも初めて参加した1998年のことを思い出した。

回を重ねるごとに、新メンバーは増えるものの、
それと同じくらい先輩の顔が見えなくなった。
1998年に出会った先輩は、翌年にはもう参加していない。
一度だけ、女の先輩に電車で声を掛けられたことがあったが、
名前も顔もうる覚えだ。
そして、ぼくはいまOB会に参加していない。

煙草の煙のごとく、ゆらゆらと漂い、
やがては消えていってしまうのかもしれない。
ぼくらの記憶やその繋がりも。

ただ、年を重ねると、ひょんなきっかけで顔を合わせることがある。
10年ぶりに会ったと思ったら、近所に引っ越していたり、
双子の一人と職場が同じだったりと、
「まさかここで繋がるとはね」と言ったことは1度や2度ではない。
聞けば、同級生の何人かはわりと近くにいたり、
業種が同じだったりと、どこかでバッタリ会う気配がある。

会わずに何年経っても、
続く縁はあるものである。


羽生館の裏(埼玉県羽生市)
最初の写真は羽生館が面しているプラザ通り(本町通り)

久喜に有名な“眼科医”がいた?

2012年02月15日 | ふるさと歴史探訪の部屋
目医者へ初めて行ったのは、保育園にも上がっていない頃だ。
3歳くらいだろうか。
祖母の自転車の後ろに乗せられて、
目医者へ行ったのをぼんやり覚えている。

なぜ目医者だったのかわからない。
記憶の中で、葛西用水路の橋と、川沿いにあるうどん屋さんが、
頭の隅に残っている。

元来、目はいい方だった。
視力検査でもいつも両目とも1.5。
知的男子に憧れてメガネをかけたかったのだが、
十代、二十代とついに無縁だった。
(だて眼鏡はこっそり持っている)

ところが、ここ最近になって右目の視力が急激に落ちた。
あつまつさえ、気になる検査結果が出る。
そこで、数十年ぶりに目医者へ行った。

目医者の要領は遠に忘れている。
内科と違って空いているだろうと思ったら大間違い。
満席である。
広い待合室を年輩の人たちが埋めている。
その中で、元校長先生とばったり会った。
白内障の手術をしたらしい。
座り話をしていると、ぼくの名前を呼ばれる。

ところで、埼玉県久喜市に有名な眼医者がいたという。
その名は“久喜周琢”と“久喜周了”。
家筋は同じで、後者が本家だという。
久喜で眼の専門の診療所を設け、人々に治療を施していた。

かなりの名医で、その名は近郷に轟いていたらしい。
江戸時代後期に津田大浄が記した『遊歴雑記』には、
次のように紹介されている。

 両家おのおの眼療を専らにし出精して仁術を施すにや 名誉の風聞あれば
 東武の人ハ勿論 近国よりも目を煩うもの日々入来り群をなせば
 両医いよいよ家を広ふし 猶又眼病の者のミ止宿する旅店ありて
 医師より指図して滞留なさしむ

津田大浄自身、治療のためではないが久喜を訪れている。
知人の小川宗助のところへ訪ねたが留守。
久喜の旅店に一泊し、周辺を散策した。

昔から眼病を患う人は多いということだろうか。
目医者と言うと、ぼくはつげ義春氏の『ねじ式』を思い出す。
あの作品の中に登場する目医者がとても印象的で、
『遊歴雑記』の上記の一文に『ねじ式』を連想してしまうのだ。

2011年の暮れから通い始め、2月で終わった。
治療というより、検査の連続である。
いつ行っても病院はいっぱいで、
それでいて長時間待たされることはなかった。

二人の眼科医と出会った。
共に女性である。
商店を見て思うように、
なぜこの人たちは眼科医になろうと決めたのだろう。
内科、循環、歯医者など選択肢はいろいろある中で、
なぜ眼科医なのか。

もちろん、先生に直接訊けるわけがない。
いいのか悪いのかわからないが、
何でも背景や舞台裏を知りたくなるのはぼくの癖だ。
目医者へ行くたびにそんな疑問がふと起こり、消えていく。

『遊歴雑記』に登場する久喜の眼科医のことは、
ぼくの目医者通いが終わってから書こうと思っていた。
すぐに書けると踏んでいたが、
早くも2月になってしまった。
何事もなく書けたことを良しとしよう。

なぜ片想いな“ネコ”が信仰されるのか? ―養蚕信仰と文書館―

2012年01月15日 | ふるさと歴史探訪の部屋
ネコを飼ったことは1度もない。
だから、ネコを飼うことはある種の憧れだったりする。

ネコには逃げられる性質だ。
いつも片想いである。
前の職場ではネコが多くて、
のんびり歩いている姿を見ていると、
ついほのぼのした気持ちになったものである。

ところで、養蚕に携わる人々にとって、ネコはありがたい生き物だった。
蚕をネズミから守ってくれるからである。

養蚕信仰では、ネコを神聖化し、
“猫石”なるものを配布する神社もあった。
この猫石を蚕のそばに置くと、ネズミを除けるとされたのである。

ネコの絵が描かれた札を配るところもある。
猫石と同様にネズミ除けに霊験を発揮するもの。
ネコは、海上の人々や山中の狩人などに忌まれ、
時として化猫として恐れられる一面があるが、
それもまた神聖視の裏返しなのだろう。

埼玉県内では、同じようにネコの霊験にあやかって生まれたキャラクターがいる。
文書館のマスコットキャラ“もんじろう”である。
文書館は言うまでもなく、古文書から行政文書まで、
多くの文書資料を収集し、保管している公共施設。
埼玉県の文書館は、浦和の県庁のすぐ隣に位置している。

文書にとって、囓ったり、おしっこをかけたりするネズミは、
大きな敵である。
歴史や地域、そこに生きた人々などを語る大切な文書をネズミから守るべく、
ネコの“もんじろう”が誕生した。

着ぐるみは作られていないが、
ひこにゃんと同様にネコ科に属するキャラである。
文書と筆を持ち、首には鈴。
もんじろうの霊験もあって、文書は大切に守られているようだ。

ネコと一緒に暮らす生活は、どんないいことがあるのだろう。
ちなみに、ぼくはネコアレルギーらしい。
ネコに触るとくしゃみが止まらなくなる。
どこまでも片想いなのである。


埼玉県立文書館(埼玉県さいたま市)
最初の写真は“もんじろう”

何の木を植えたらよいか。将軍徳川秀忠の答えは? ―1里塚―

2012年01月14日 | ふるさと歴史探訪の部屋
行田図書館の近くに“一里塚”が残っている。
これは、慶長9年(1604)に徳川家康が、
嫡男秀忠に命じて街道に築かせたもの。

日本橋を拠点として、1里ごとに塚を築き、
その上に樹木を植えたのである。
行田の一里塚の上に立っているのは榎だ。

現在は会社内にあり、見学するには許可が必要となる。
ただ、道路からその雄姿を目にすることはできる。

一里塚は旅人にとって距離の目安となり、
伝馬賃銭の支払い基準にもなった。
陸上交通にとって、重要な役割を担っていたのである。

この一里塚の造成を担当したのは、“大久保長安”という重臣だった。
宿駅制度を整備し、鉱山開発にもあたった者であり、徳川幕府を支えた。
さて、一里塚を築いたはいいものの、
そこに何の木を植えたらいいかわからない。
そこで長安は将軍秀忠に相談した。

すると秀忠は、「良い木を植えよ」と答える。
ところが、長安は「えのきを植えよ」と聞き間違いをする。
そこで一里塚には榎が立つようになったという話が残っている。

現存する行田の一里塚は、日光裏街道に属するものである。
埼玉県の史跡に指定されている。



最初の写真は一里塚(埼玉県行田市)

羽生から見える“浅間山”は何を伝える?

2012年01月13日 | ふるさと歴史探訪の部屋
冬の澄んだ晴れの日には、
西の方角に浅間山が見える。
夕暮れ時、羽生の大型ショッピングモールから望むこともできるだろう。

「浅間山」と聞いて何を連想するだろう。
ぼくはやはり“噴火”である。

天明期に大爆発を起こし、
「天明の大飢饉」を引き起こしたことはよく知られている。
「天明の浅間焼け」とも言われ、『松村家日記』では、
北埼玉にも小石や灰が降り注ぎ、
まるで雪が降ったみたいに灰化粧をしていたという。

山の麓の村々は、火砕流に襲われ埋没。
また、土石の影響で鉄砲水が発生し、
流死した人々も多く出てしまう。
利根川は赤く染まり、人や材木、馬、魚が流されていたという。

農作物も壊滅的な被害を受け、食糧不足を引き起こす。
それが飢饉に繋がり、
二次災害とも言うべき多くの死者を出してしまうのである。

ちなみに、壊滅的な被害を受けた鎌原集落で、
昭和54年から2年間かけて発掘調査が行われた。
流失されなかった観音堂の石段は15段あったのだが、
実は35段あったことが判明。
そして、その途中に白骨化した2体の女性遺体が発見される。

観音堂へ逃げ延びるとき、あとわずかのところで火砕流に巻き込まれ、
そのまま息を引き取った女性と考えられている。
噴火のすさまじさ、被災した人間の無念さを現代に伝える発掘となった。

浅間山の噴火は、無論天明期だけではない。
『日本書紀』にもそれらしき記述があり、
天仁元年(1108)には大規模な噴火を起こしている。
そのほか、古墳時代や縄文時代にも噴火しており、
その灰と軽石はいまも地中に眠っている。

羽生市内でも地面に転がる軽石を見ることがある。
利根川か会の川の営みによって運ばれた石かと思ったが、
浅間山の噴火で飛んできた石のようである。
高崎や伊勢崎方面にも軽石が降ってきたという。

『田舎教師』(田山花袋著)にも、
浅間山の噴火の様子がほんのわずかに描写されている。
田山花袋の目に映ったのは、荒々しい姿ではなく、
煙のたなびく山としての浅間山である。

過去の災害は、現代の我々に何を伝え、訴えようとしているだろうか。
いまは穏やかな山に見えても、
荒々しく人や民家を飲み込んだ過去の姿を持っている。
ぼくはあまり目にすることのない山なのだが、
何の油断なしに夕焼け色に染まる浅間山を目にするとき、
息を飲む思いがするのである。

正月に“門松”を立てないところがあるのはなぜか?

2012年01月02日 | ふるさと歴史探訪の部屋
正月になると目にするのは、家や店の前に立つ“門松”。
昔は門松のための松を山から刈ってきたが、
いまは買うことが圧倒的多数だろう。

松を飾るのは、玄関先ではない。
庭や便所、風呂や井戸にも供えられた。
つまり、松は歳神の依代であり、神聖なものなのである。

ところが、中には門松を立てない家がある。
無論、面倒だからではない。
信仰として松を立てないのだ。

いまはどうか知らないが、
埼玉県旧妻沼町の人たちは、門松を立てないとされていた。
妻沼と言えば、聖天さま。
ある日のこと、聖天さまは松の葉で目を突かれたとか、
松葉燻しにあったとかで、すっかり松が嫌いになってしまった。

そこで、妻沼郷の人々は門松を立てるどころか、
松の木も植えないとしていた。
門松の代わりに榊を立て、衣服の模様も松を避ける。
「妻沼聖天様松まき嫌い みんなかたぎで辛抱する」
などという民謡も生まれた。
名前に「松」がつけば改名していたというから、かなりの徹底ぶりである。

ほかにも、北本市石戸では、
忍城の姫君の嫁入りのとき、
門松と共に立てた竹が武器になる恐れがあるため、
何も立てない習わしだという。

そのほか、集落ではなく個人宅で、
先祖が松平家によって滅ぼされたからとか、
松の代わりにモミの木の枝を使ったら運が向いてきたなどとの理由から、
門松を立てない家が、草加や秩父などにある。

あくまでも言い伝えで真偽は定かではないが、
そのような話が伝わり、門松を立てないという風習があるのは興味深い。
それは家や集落の信仰そのものと言えるだろう。


妻沼の聖天さま(埼玉県旧妻沼町)
本殿の改修工事が終わり、きらびやかで技の光る彫刻が見られる。
国指定文化財




碁を打つ神たち。図録で見たとき1番印象に残ったものだった


彫刻の1部。この獅子が可愛いと萌え心をくすぐるという




本殿改修中(2007年撮影)






貴惣門(国指定文化財)


斎藤実盛銅像


おまけ

旧騎西町の神社にかつて“名湯”があった?

2011年12月29日 | ふるさと歴史探訪の部屋
初詣に、旧騎西町の“玉敷神社”へ行く人もいると思う。
『延喜式神名長』にも記された古社で、
かつては久伊豆神社とも呼ばれた。

かつては正能に鎮座していたのだが、
上杉謙信の騎西城攻めなどの影響により、
現在地に遷座している。
国道122号線からも鎮守の杜が見える閑静な神社である。

実は、かつてこの神社はいまで言うパワースポット的な存在だった。
境内に温泉があり、
その神湯に浸かると皮膚病を主にして、
さまざまな病気に効くと言われていたのである。

津田大浄は『遊歴雑記』の中で、
この「騎西大明神の神湯」について記している。
同書によると、
ある難病人が御手洗の水を温めて沐浴すれば病気が治るとのお告げを聞き、
その通りにしたら本当に回復したという。

そこで、社内に風呂屋を造成し、“神湯”(じんとう)と名付けた。
噂を聞きつけた人たちで、神湯は毎日賑わう。
このお告げがある前に、御手洗(みたらし)がアサダの木の下にあって、
病気に効くと言われていた。

神湯に入るとき、いくつかの決まりがあった。
すなわち、風呂の縁に腰をかけてはならず、
湯の中で唾を吐いてはならない。
また、小唄を歌ってもいけなかった。

普通の温泉ではなく、ありがたい神湯である。
神妙に入らねばならなかったのだろう。
ちなみに、湯に入るときは初穂を三方の上に置いた。
津田大浄は言う。

 近頃一入聞伝へもろもろの異病に霊験有とて
 騎西町の旅店に逗留して湯治する人少なからず
 斯れハ武蔵の国に名誉の温泉なきには非

つまり、騎西に霊験あらたかな神湯があるように、
武蔵国に名湯がないわけではないと語気を強めている。
泊まりで湯治に来る人がいるくらいなのだから、
往時の騎西は温泉町のような風情があったのかもしれない。

残念ながら、神湯は現代に残っていない。
廃され、湯治に来る人はいなくなった。
いま玉敷神社へ行っても、
そこが神湯で賑わった場所とは思わないだろう。

羽生から、玉敷神社まで歩いて参拝する人がいるという。
自転車で片道約45分かかる距離である。
それを徒歩で行くのだから、だいぶ時間がかかるだろう。
着く頃には体が温まっているに違いない。
それはまるで温泉に浸かったかのような火照り具合で……

筑波山には“恋の歌”が眠っている? ―歌垣―

2011年12月27日 | ふるさと歴史探訪の部屋
郷土羽生では、冬になると東の田の向こうに“筑波山”が見える。
美しい山である。
その方角に高い山はなく、
嫌でも筑波山が目に付く。

幼なじみの絵描きと、女友だちの歌詠みの三人で、
筑波山へ行ったことがある。
歌詠みはぼくらより一つ年下で、
当時23歳くらい。

ロープウェイに乗って山頂へ登ると、
ぼくらを待っていたのは辺り一面の濃霧。
何も見えない。
どこを見ても真っ白。
まるでぼくらの前途のようだとクスクス笑った。

ところで、筑波山と言えば“歌垣”である。
歌垣とは、遠い時代に春と秋に男女が集まり、
飲食や歌を詠って求愛をして、性の解放をした行事である。
東国ではカガイとも呼び、
筑波山もそんな歌垣が催される一つの場所だった。

いまで言う合コン、お見合いみたいなものだろうか。
男女が出会い、時には一人の女性を巡って男同士が歌を詠って争った。
そして、女の同意のもと、
二人は契りを結ぶのである。

歌で争うなど何とも風流ではないか。
昔から歌のうまい男はもてるということなのかもしれない。

ちなみに、歌垣は乱交ではない。
『日本女性の歴史』(総合女性史研究会編)は、
「神が支配する特定の空間と日時になされる、
共同の豊壌を願う儀式にともなう性の解放である」と述べている。

思い浮かぶのは、『忘れられた日本人』(宮本常一)である。
対馬の項に記されている“歌合戦”。
すなわち、村にやってきた女性の巡拝者の宿泊先へ男たちが足を運び、
歌合戦をするという。

それは、「節のよさ文句のうまさ」を競うもの。
ときには、女性の体を賭けて合戦をすることもあった。
同書に登場する「鈴木老人」は、この歌垣に負けたことがなく、
数々の美しい女性と契りを結んだという。
宮本は同書で次のように言う。

 明治の終わり頃まで、とにかく、対馬の北端には歌垣が現実に残っていた。
 巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、
 夜のふけるのを忘れて歌いあい、また踊りあったのである。

ルイス・フロイスが、日本女性は処女性を少しも重んじず、
それを欠いても名誉を失わず、結婚できたと『日本史』に記しているが、
往時の価値観を窺わせる。

処女性を重んじるのは最近のことだ。
近代以前の性はひどく解放的だった。
貞操観念を持つのは武家社会であり、
一般の農村における性は、現代の価値観とはまるで違うものだったのである。
ゆえに、現代風な「女らしさ」で喚起されるイメージは、
近代以降に作られた女性像と言えよう。

往古、筑波山ではたくさんの男女が出会い、
数々の歌が詠まれたに違いない。
それは、春と秋の豊作への祈りと感謝と共に、
命を次代へと繋ぐ願いでもあったのかもしれない。

そのような観点で筑波山を見たとき、
生の力強さのようなものを感じる。
俗な言い方をすれば、パワースポットである。

ちなみに、筑波山へ行ったぼくらの関係は、
不思議な縁でつながった友だち同士。
歌詠みをめぐって争うこともなかったし、
大晦日を三人コタツに入って過ごしたこともあった。

しかし、三の数字は完璧のようでいて、
男女になると途端にもろくなる。
自然に形は崩れ、自然に会わなくなった。

ロープウェイに乗って山を下りるとき、
会社のシステムで写真を撮られた。
わざわざ買うこともないだろうと通り過ぎたのだが、
いま思えば一枚貰っておけばよかったかもしれない。

そのとき、ぼくは歌詠みに「何か詠めた?」と訊いた。
彼女は少し考えて、「内緒」と答える。

そのとき、彼女の中でどんな歌が生まれたのだろう。
それを知る術はもうない。
冬になると遠くに見える筑波山。
そこには名も無き人々の恋と、
人知れず消えた歌々が眠っている。

館林市役所の下にはどんな足跡が残っている?

2011年12月21日 | ふるさと歴史探訪の部屋
「庁舎」と名の付くものは多くあるが、
館林市役所庁舎はかっこいい。
レンガ造りのシックな建物で、
周囲に樹木も多く、文化的な香りが漂っている。

市役所庁舎は、昔で言う“城”である。
その地域の中心的建物で、
いまも城跡に建つ役所は多い。
群馬県館林市もしかりで、
将軍“徳川綱吉”を輩出した名城の跡地に建っている。

館林城は中世から近代まで存続した城である。
赤井氏によって築城されたこの城は、
羽生城主“広田直繁”に移封されたこともあったが、
天正年間は“長尾顕長”の居城となる。

近世を迎え、“榊原康政”が10万石で入封。
以後多くの変遷が展開された。
榊原康勝、同忠次、松平乗寿、同乗久、徳川綱吉、同徳松丸、
松平清武、同武雅、太田資晴、松平武元、同武寛、同斉厚、
井上正春、秋元志朝、同礼朝という面々。
この間、幕府の直轄地になったこともあり、
代官の支配を受けたのである。

館林城は、明治7年3月6日の大火によってほとんど灰燼に帰してしまう。
土塁の一部や城沼が現存し、
土橋門が復元されている。

現在は群馬県だが、明治4年の廃藩置県によって、
ほんの一瞬ではあったが、“館林県”が誕生した。
埼玉でいう、熊谷県、浦和県のようなものである。
現在の感覚だと異和感があるだろう。

この館林県は148町村を管轄。
しかし、誕生からわずか4ヶ月後に、“栃木県”に加えられた。
明治4年11月のことである。
つまり、明治9年に群馬県に編入されるまで、
この町は栃木県だったのだ。

昭和29年4月1日に、“館林市”が誕生。
さまざまな変遷があり、その度ごとに新しく生まれ変わっている。
特に、維新直後の役人たちは、
事務作業に忙殺されていたかもしれない。

現在の庁舎は、このような歴史の上に建っている。
そのかっこよさは、歴史の重みが醸し出すオーラでもあるのかもしれない。
現在も「城」として機能しているし、
近くに横たわる城沼や鶴生田川は外堀のようなもの。
往古に比べて時代の流れは早いが、
この地はこれからどんな時を重ねていくのだろう。


※最初の写真は館林市役所(群馬県館林市)