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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“寅御石”にはどんな悲話が眠る?

2014年12月17日 | ふるさと歴史探訪の部屋
“寅御石”と呼ばれた石は、
埼玉県立小児医療センターの近くにある(2014.12.17現在)。

板碑(板石塔婆)である。
しかも、高さが5mもあってかなり大きい。
それもそのはず。
埼玉県内で2番目に大きな板碑となっている(県指定有形文化財)。

板碑は塔婆の前身と言われ、信仰的要素の強いものだが、
寅御石には悲恋の話が伝わっている。

ある長者の娘に見初めた3人の若者がいた。
娘の名は「お寅」。
それはそれは美しい娘だったという。

求婚した3人の若者はいずれも眉目秀麗で、
非の打ち所がない。
両親としてみれば、誰にやってもいい。
欠点がないだけに、お寅の両親は婿選びに悩んでしまう。

男たちの催促は日増しに強くなっていく。
同時に対立も深まっていった。
そうした事態にお寅の両親は動揺を隠しきれない。
かと言って、決断できるわけでもなかった。

お寅はその様子を見て嘆き悲しんだ。
そもそも、自分さえいなければ両親がこんな苦しみを抱くことはなかったはず。
心優しいお寅は自刃して果ててしまう。

息を引き取る間際、お寅は両親にこう言い残した。
「自分の体を料理して、男たちにご馳走して下さい」

数日後、若者たちは長者の家に呼ばれた。
今日こそ返事が聞けるのかと勇み立っていたのは言うまでもない。
長者の家で彼らは馳走を受け、宴もたけなわというときに、
お寅の父親がやってくる。
「次の料理はお寅が腕をふるったものでございます。どうかお召し上がり下さい」

そして運ばれてきたのは血の滴る生肉。
それこそが、変わり果てたお寅の姿だった。
何も知らない若者たちは喜んでそれを食す。

しかし、食べ終わったすぐそのあとで、
父親から真実が告げられた。
目を丸くし、お互い顔を見合わせる若者たち。
自分たちがそれほどお寅を苦しめていたのか……

若者たちは皆涙を流し、いずれも出家するとお寅の菩提を弔ったという。
そして、彼女の供養塔を建立する。
この供養塔こそが「寅御石」であり、
いまでもお寅の命日には団子が供えられている。

この悲話の真偽のほどは定かではない。
おそらく、巫女などの宗教的遊行者が語って聞かせたものが、
現在に伝わっている可能性が高い。
あまりにも大きな板碑である。
何かそれらしい逸話や意味付けをしたくなるのが人情というものだろう。

寅御石は墓地の一角に建っている。
周囲は田畑で、少し離れたところに病院や大学が見える。
のどかな景色が広がっていて、
知らなければすぐに通り過ぎてしまうかもしれない。

悲話の真偽は定かではないが、
地域の人たちが大切に語り継いできたことは確かである。
寅御石の前で静かに手を合わせたい。
また、墓地の一角にあるため、
見学の際は迷惑をかけないよう気を付けたい。

2014年の“ふるさと歴史探訪”は羽生のどこを歩く?

2014年11月15日 | ふるさと歴史探訪の部屋
今日はふるさと講座「ふるさと歴史探訪 ~川俣地区を歩く~」の開催日。
羽生市立郷土資料館の主催である。

そのタイトルのとおり、
川俣地区の歴史と文化を訪ねるというもの。
川俣地区をぞろぞろと歩く集団がいたら、おそらく講座の参加者だろう。
参加される方、現地でお会いしましょう。

利根川沿いに広がる“松”はいくつあった? ―江戸時代の羽生―

2014年07月27日 | ふるさと歴史探訪の部屋
かつて、利根川沿いには松林が広がっていた。
田山花袋の小説『田舎教師』にも、「松原」の様子が描写されている。

上村君村(かみむらきみむら)の松は100本あった。
ところが、強風によって折れたり枯れた松が出てしまい、
天保15年(1844)当時は98本に減っていた。
弘化5年(1848)になると、代官へ奉納したり枯れてしまった松が出たため、
残り96本となった。
ほかに杉が5本、雑木が3本という内容だった。

一方、名(みょう)村では、安永8年(1779)当時、
利根川の堤に建っていた樹木は松と杉を合わせて376本立っていた。
かなりの数である。
なお、「二位殿権現社地」には、松が142本、杉が109本あったという。

具体的な数字が出ると、思い浮かべる風景も具体化するかもしれない。
美しい松並木が広がっていたのだろう。
しかし、何度となく行われてきた利根川引堤工事により、
松原の景観は跡形もなくなっている。

浮野の呼ぶ声を聞く? -1人さんぽ- 

2014年04月23日 | ふるさと歴史探訪の部屋
“浮野”(うきや)が呼んでいるときがある。
妙に浮野に行きたくなるのだ。
用事があるわけでもなく、
何がしたいという具体的なものがあるわけでもない。
それでも行きたくなることを、
「呼んでいる」とぼくは表現している。

高速道路の高架下を潜り抜けると、
突然景色が変わる。
かつての武蔵野のような風景がそこには広がっている。

こんもりと茂った屋敷林、
路傍の石造仏や味のある石橋。
クヌギの植えられた遊歩道や、
牧歌的に広がる田畑。
新興住宅はほとんどなく、民家は点在している。

ひと昔前まで、こんな風景がどこでも見られたのだろう。
牧歌的にして詩的。
俳人や歌人ならば、つい詠みたくなる場所ではないだろうか。

それもそのはず。
平成7年度に全国「水の郷」百選に認定され、
平成19年度には埼玉県から「緑のトラスト保全第10号地」に指定された。
浮野の風景は大切に守られているわけである。

ところで、この浮野には「女中の身投げ」という悲話が自治体史に収録されている。
この稿では話の内容には触れないが、
そんな悲話がスパイスのように効く。
お汁粉に入れる塩みたいなものだ。
浮野の魅力をグッと引き立たせるのだ。

浮野に足を運んだところで、
特にすることはない。
植物に詳しい人なら、きっと多くの発見があるのだろう。

あいにく、ぼくは植物に詳しくはないし、
「虫眼」も持っていない。
ぶらぶら歩くことくらいしかない。

でも、ぼくの場合、浮野は目的ではないのだ。
ただその場所に身を置くということ。
それだけなのだ。

天下のご意見番が羽生に住んでいた? ―江戸時代の羽生―

2014年03月27日 | ふるさと歴史探訪の部屋
江戸時代の羽生城主の座に就いたのは“大久保忠隣”である。
史料によって石高はまちまちだが、
『大久保氏系譜』には「拝領武州羽生城二万石」と記している。

忠隣の叔父に“大久保彦左衛門忠教”がいる。
「天下のご意見番」として名高く、『三河物語』を記したことでも知られる。
大久保忠隣が羽生城に足を運ぶことはなかったが、
彦左衛門は羽生に在住していた。
なぜなら、羽生領の内2千石を領していたからだ。

羽生領において、彦左衛門が二俣の杖を奉納したことは昔から知られていた。
境内に生えていた二俣の竹を伐採したところ、
突然カミナリが鳴り出して、従者は悶絶。
カミナリは数日間鳴りやまなかったため、
彦左衛門は雷電さまを恐れて伐採した竹を奉納したと、
地誌『武蔵志』も伝えている。
現在、この二俣の杖は羽生領以外の場所で保管されている。

なお、羽生城の家臣酒井忠治氏は、
彦左衛門の烏帽子子(えぼしご)となり、「彦」の字を賜ったという。
羽生城主でも城代でもなかった彦左衛門だが、
忠隣の叔父として影響力を持っていたのだろう。
羽生城が廃城する慶長19年(1614)まで在城していた。

しかし、「天下のご意見番」と後世に伝わるほど、
目立った動きはしていない。
いまのところ、二俣の竹以外に彦左衛門にまつわる逸話は伝わっていない。
後世のイメージが定着するのは、
大久保家が改易になってからのことである。
羽生城在住時代は、比較的大人しく日々を過ごしていたのかもしれない。

江戸時代はじめの羽生城主は誰だったか? ―江戸時代の羽生―

2014年03月14日 | ふるさと歴史探訪の部屋
江戸時代初期に羽生城は存在していた。
羽生に城があったと言うと違和感を覚えるかもしれないが、
「城沼」「城橋」「古城天満宮」の名称から、
城があったことがうかがえるだろう。

戦国時代の羽生城主は広田・木戸氏だった。
しかし、後北条氏の圧力により天正2年(1574)に自落を余儀なくされる。
その後、忍城主成田氏の支城としてあったが、
天正18年(1590)に成田氏も没落。
豊臣秀吉は天下統一を果たした。

同年8月に関東に入府した徳川家康は、
主立った城に家臣たちを配置された。
羽生城を与えられたのは“大久保忠隣”という人物である。
幼少の頃から徳川家に仕える重臣だった。

ちなみに、NHKの大河ドラマ「葵~徳川三代~」には、
故・石田太郎氏が大久保忠隣役を務めていた。
この人が羽生城主だったのかと、興味深く観ていたのを覚えている。
いまでも大久保忠隣というと、石田太郎氏の姿が思い浮かぶ。

忠隣が羽生城主を与えられたことを記す史料は多くある。
例えば、『大久保氏系譜』には「拝領武州羽生城二万石」とあり、
『寛政重修諸家譜』には「武蔵国羽生城をたまひ二万石を領す」とある。
『武徳編年集成』には「武蔵羽生一万石 大久保治部大輔忠隣」とあり、
『石川正西聞見集』は、「昔きさいの近所にはねふ(羽生)と申所にて
大久保相州二万石拝領被成候」と記されている。

お気付きだろうか。
忠隣が羽生城を拝領したことは共通しているが、
石高にばらつきがある。
『大久保氏系譜』と『寛政重修諸家譜』は「二万石」とあるのに対し、
『武徳編年集成』と『石川正西聞見集』は「一万石」としているのである。

羽生領とは、現在の羽生市域と、旧加須市域・旧大利根町域の一部を含めた領域を言う。
実質的には羽生領一万石くらいであったのかもしれない。

ちなみに、大久保忠隣は羽生城主とはいえ、
常に城にいるわけではなかった。
というより、一度も羽生には足を運ばなかったらしい。
『石川正西聞見集』によると、もっぱら江戸に詰めており、
羽生城に来たことはなかった。

現在、城の遺構は何一つない。
全てが破却され、神社の境内に羽生城址碑がポツンと建っているだけだ。
地元民でも、羽生に城があったことを知らないのは珍しくない。
ただ、羽生城主として大久保忠隣がその座に就き、
城を中心に政治支配が行われていたことは確かである。

羽生城が廃城となったのは、慶長19年(1614)のことだった。
忠隣の突然の改易により廃城を余儀なくされたのだ。
「城」と言っても天守閣はなく、絢爛豪華なものではなかったから、
廃れるのはあっという間だっただろう。
江戸時代、城跡には「樹木」という小字が付けられている。

もし幕末まで羽生城が機能し、
羽生藩が存在していたらどうなっていただろう。
あるいは多少の遺構が残っていたならば、
「羽生に城があったの?」という声は、
いまよりも少なかったかもしれない。

お坊さんの祈祷で川が締まる? ―江戸時代の羽生―

2014年03月06日 | ふるさと歴史探訪の部屋
会の川を締め切ったのは文禄3年(1594)のことだ。
現在の羽生市で二俣に分かれていた一方の川(会の川)を締め切ったのだ。
これを利根川東遷の第一期工事とし、
関東に入府した徳川家康の命令と膾炙されてきたが、
現在は疑問視されている。

羽生のどこで利根川が分かれていたのだろう。
それは、現在の道の駅付近と考えられている(羽生市上新郷)。
道の駅の敷地内には、締切跡碑が建っていて、
何気なく目にした人は多いかもしれない。

しかし、道の駅ができる前は土手の下にポツンと建っていて、
かなり目立たないものだった。
これを初めて目にしたことが郷土史に興味を覚えるきっかけだったのだが、
スーパー堤防ができたり、道の駅が建ったりと、
これほど変化するとは思いもしなかったことだ。

締切工事は難工事で、行者が自ら人柱になったという伝説がある。
しかし、実際のところは西福寺のお坊さんが工事成功のために祈祷を捧げ、
その功があったから、屋敷を与えたという文書が、
『新編武蔵風土記稿』に掲載されている。

この西福寺というお寺は現存しない。
明治期の廃仏毀釈で廃寺となった。
『新編武蔵風土記稿』によると、天台宗のお寺で西行寺の末寺だったという。

創建について、「簑沢一城落城記」の裏書に興味深いことが記されている。
会の川締切工事がはかどっていないとき、
埼玉(さきたま)村の西行寺のお坊さんがやってきて、祈祷を捧げた。
この功により、西行寺のお坊さんは「一宇」を与えられた。
これが西福寺だという。

当時、上新郷は忍領だった。
西行寺は、さきたま古墳郡内の丸墓山古墳のところにあったお寺で、
現在は何もない。
『新編武蔵風土記稿』は開山を「重海」としているから、
西行寺からやってきた「重海」さんが祈祷をし、西福寺を建立したのだろうか。

文禄3年当時、利根川は江戸に向かって流れていた。
会の川締切工事を第一期工事とするかは別として、
長い歳月をかけて現在の千葉県銚子へ流路を変えていく。

会の川を締め切るとき、誰もそんなことは思ってなかったかもしれない。
利根川東遷(瀬替え)は壮大なプロジェクトのように見えるが、
それぞれの時代の要望と必要性に応じての工事だったとも捉えられる。
例えばもし、お坊さんの祈祷が会の川締切工事だけでなく、
利根川東遷全体を見通すものだとしたら、かなりの霊験と言える。

ちなみに、戦国時代に羽生城救援に向かった上杉謙信は、
雪解け水に増水した利根川に阻まれて渡ることができなかった。
このとき、会の川もたっぷりと水を含んでいたのだろうか。
いまは町を流れる小さな川でしかないが、
多くの歴史が眠っている。

羽生に“鬼平”がやってきた? ―江戸時代の羽生―

2014年02月28日 | ふるさと歴史探訪の部屋
羽生パーキングエリアに登場したのは、「鬼平江戸処」。
お店の建物や看板、トイレなど江戸時代に再現されていて、
来る人の目を楽しませている。
「鬼平犯科帳」のファンならたまらない空間かもしれない。

飲食店のメニューも「鬼平」を意識している。
メニューだけでなく、あちこちにこだわっているディテールがあるそうだ。

江戸時代、羽生は交通の要衝地として賑わった地域だった。
利根川に面しており、いくつもの“河岸”があり、
通行を取り締まる“川俣関所”も存在した(江戸時代当時は忍領)。

“日光脇往還”が通り、羽生の町場では“六歳市”が立った。
江戸初期には“羽生城”が存在し、“大久保忠隣”が城主だったが、
慶長19年(1614)に廃城となってしまう。
叔父の“大久保彦左衛門”が羽生に暮らしていたことはあまり知られていない。

日本三大農業用水に数えられる“葛西用水路”が開削されるのも江戸時代。
羽生城の自然要害だった城沼が徐々に埋め立てられ、
新田に変わっていったのもこの時代だった。
現在の羽生の原型を作ったと言えるだろう。

そしていま、羽生P.Aにできた「鬼平江戸処」。
舟運から陸上交通に変わった現代だが、
交通の要衝地に鬼平が現れたのは興味深い。
各メディアに取り上げられ、話題になっている。

ちなみに、ぼくが初めて足を運んだのは、
フランスから帰国した日の晩のこと。
見慣れたパリの石造りの町並とのギャップが面白かったのを覚えている。


鬼平江戸処(埼玉県羽生市)











“インゲ”の転訛は何になる?

2014年01月07日 | ふるさと歴史探訪の部屋
上会下と書いて「かみえげ」と読む。
なかなか読みにくい地名だと思う。
旧川里町(現鴻巣市)にある地名で、
『武蔵国郡村誌』によると、岡田惣右衛門が荒地を開墾したのが始まりだという。

岡田惣右衛門さんが開墾する前は荒地だったのだろう。
かつては寂しい風景が広がっていたのかもしれない。

戦国時代の享徳の乱のとき、会下が合戦場になったこともあった。
近くの騎西城は古河公方勢力の前線基地であり、
五十子を拠点とする幕府軍の上杉方と干戈を交えた。
合戦の詳細は不明だが、会下の荒野の上で両軍は衝突したのだろう。
そんな物々しさは現在の風景からは感じられない。

ところで、会下とはどんな意味なのだろうか。
エゲは寺名からきているというが、
韮塚一三郎は、「インゲ」の転訛であり、
「和尚」にちなんだ地名ではないかとする。
要するに、詳細は不明ということだ。

上会下に所在するのは雲祥寺。
騎西城主小田顕家の墓と伝えられる宝篋印塔が建っている。
会下が「寺名」や「和尚」を意味するものであれば、
同寺も関係しているだろうか。
ほかにも説がありそうだが、
いろいろなことに想いを馳せながらのんびり散策するのが、
個人的には好きである。

川里図書館はデザインが目に付く?

2013年12月04日 | ふるさと歴史探訪の部屋
旧川里町の図書館は、建物が特徴的な作りをしている。
保険センターやコミュニティセンターなどの施設が同じ敷地内にあって、
南には中学校、西にはグランドゴルフ場がある。

それ以外は広大な田んぼ風景である。
まるで、孤島の上に建っているような錯覚を受けてしまう。
ゆっくりと落ち着いた時間が流れていて、
静かな空間が好きな人には相性がいいかもしれない。

ぼくが初めてこの図書館に足を運んだのは20代半ばのとき。
自転車を走らせて、たまたま行き当たったのがこの図書館だった。
外観が特徴的だから、「なんだここ?」と思ったのを覚えている。

川里まで自転車を走らせたのは史跡巡りか何かだったと思うが、
明確には覚えていない。
図書館にたどり着いた時間は夕方で、西日が射していた。
ちょうど閉塞感に苛まされていた時期で、
当時の図書館の光景を思い返すと、少しだけ胸が苦しくなる思いがする。

だからと言って、この図書館が嫌いになったわけではない。
印象深いだけ。
過去の記憶が建物のデザインのように切り取られて、
心の中にあるのだ。

そんな川里図書館を含む一体を、「亜空間」と呼ぶ人がいた。
「あ、なんとなくわかる」という感じだろうか。
何かの撮影にも使われたことがあるそうだ。
この空間には、いくつものドラマがあるのかもしれない。


川里図書館(埼玉県鴻巣市)



熊谷に浮かれているロータリーがある?

2013年11月27日 | ふるさと歴史探訪の部屋
熊谷の駅前というか、ショッピングモール前というか、
ロータリーがクリスマスのイルミネーションで彩られている。
熊谷の駅周辺もだいぶ変わったもので、
かつてそこがどんな景色だったかうまく思い出せない。

最近は、自転車でとんと熊谷まで足を運ばなくなった。
秋になると、必ずと言っていいほど羽生から自転車を走らせたものだが、
めっきり年を取った気分だ。

高校生の頃、熊谷から毎日自転車で通学していたクラスメイトがいた。
片道軽く30分は越えていたと思う。
1日だけならまだしも、毎日となると結構なものだ。

彼は空手部だった。
体力強化のために自転車通学だったらしい。
さほど話をする仲ではなかったから、
雨の日も自転車だったのか聞きそびれてしまった。
果たして3年間走り通したのか、いまだからこそ聞いてみたい気がする。

熊谷には好きな先生も住んでいた。
さすがに車通勤だったが、短時間ではなかったと思う。
住所を知っていたから、一度自宅まで自転車で行く計画もあったのだが、
(押し掛けではなく遊びに行く計画)
それを実行に移さなかったのは、
よかったのか悪かったのかわからない。

熊谷駅周辺には県立図書館がある。
資料館がある。
熊谷直実の銅像がある。
直実の館跡=熊谷県の県庁跡もある。
中山道が通り、荒川も流れている。
初めて「映画館」に入ったのも熊谷だった。
足を運ぶとそれぞれの時代の記憶が騒ぐ。

ロータリーは、クリスマスが過ぎるまでイルミネーションに彩られているのだろう。
「浮かれハウス」ならぬ「浮かれロータリー」と呼べるかもしれない。

享徳の乱で“上杉教房”が自刃したと伝えるのは? ―御壇塚―

2013年09月01日 | ふるさと歴史探訪の部屋
「享徳の乱」と聞いて、何人の人がピンと来るだろう。
歴史好きはともかく、そうでない人には聞き慣れないかもしれない。

確かに、高校の日本史Bの教科書には載っている。
ただ、ぼくの持っている教科書には、本文に出てこない。
註釈でさらりと触れられているだけだ。
当然、その単語はゴチックにはなっていない。

こういう箇所こそテストに出題されそうである。
しかし、ぼくが現役だった頃、「享徳の乱」を授業で見聞きした記憶が全くない。
テストに出た記憶すらなく、
郷土史に興味を覚えて「享徳の乱」を目にしたとき、
初めて出会った感覚だった。

そのせいだろうか。
享徳の乱で討ち死にした“上杉教房”と伝えられる場所も、ひっそりとしている。
教房(のりふさ)は幼い頃から京にいて、将軍に仕えた男だった。
「教」の字が付くのも、将軍教政から与えられたとされる。

もし、関東で享徳の乱が起こらなかったならば、
教房は京において生涯を終えていたかもしれない。
あるいは、京において公務に従事する日々を送っていたのではないだろうか。

しかし、関東において“足利成氏”が“上杉憲忠”を討ち、
享徳の乱が勃発する。
幕府は上杉氏に成氏討伐の命を下し、追討の綸旨を出した。
成氏は古河に拠点を移し、幕府軍と対決することになる。

かくして東で起こった戦乱に、上杉教房は巻き込まれる。
時代の流れと言っていい。
上杉房定に従って関東に下向。
足利成氏討伐の一端を担った。

教房はどんな気持ちで関東に下向したのだろう。
しぶしぶ進軍したのか、それとも成氏討伐に意気揚々としていたのか……。
あるいは恐怖を感じていたことも想像できる。
見知らぬ東国での合戦である。
不安を感じて当然だ。

幕府方は五十子に陣を設け、成氏の本拠古河城に向けて出撃する。
足利軍も黙ってはいない。
兵を招集し、古河を目指す幕府軍と真っ向から衝突した。
太田荘の「合下」で両軍は干戈を交えると、
利根川を越えて上野国佐貫荘羽継原でぶつかり合う。
さらに、海老瀬でも合戦が繰り広げられるという激しさだった。

これらの戦いによって、幕府軍は多くの死傷者を出してしまう。
足利成氏を追い詰めることはできず、
敗退を余儀なくされた。
このとき戦死した者の中に上杉教房がいた。
正確には「戦死」ではなく、御壇塚にて自刃したという。

戦場に出たときから死の覚悟はできていたかもしれない。
しかし、まさかの敗死だったのではないだろうか。
最後にその瞳に映っていたのは、
京に残してきた最愛の人だったか……。

「御壇塚」は、現在の埼玉県加須市にある。
かつての北川辺町柳生で、ひっそりと碑が建っている。
昭和45年建設の石碑が往時を伝えているが、
注意深く見なければ通り過ぎてしまうだろう。
ましてや、歴史好きでなければ立ち止まりそうもない。

「上杉教房」の名は、高校の教科書には載っていない。
高校生のときに使っていた『日本史B用語集』(山川出版社)にも、
その名は見当たらない。
御壇塚付近に住む人たちには、その名は浸透しているのだろうか。
関東を揺るがせた享徳の乱で散った上杉教房だったが、
埋もれていく時の中で、
御壇塚に建つ石碑がその歴史を伝えている。


御壇塚(埼玉県加須市)

国道の“砂丘”から景色を眺めると……

2013年07月05日 | ふるさと歴史探訪の部屋
むさしの村は国道125号線に面している。
「村」を出て西へ行くと、小高い丘の上を走ることになる。

その丘の上にラーメン屋さんがあったが、
現在はうどん屋さんが建っている。
この道から南に向けば、景色を一望できるだろう。

この道は“河畔砂丘”の上を通っているから景色が高くなる。
利根川の本流だった“会の川”が近くを流れ、
川が運んだ土砂を強風が巻きあげてできた砂丘だ。
かつては川沿いにこの河畔砂丘が連なっていた。
切り崩された場所は多いが、その名残はいまでも見ることができる。

ちなみに、“串作”(くしつくり)という地名がある。
「クシ」は、砂丘などが長く連なった高まりを意味する言葉であり、
串作は長く伸びた砂丘に由来することになる。

現在は国道が通り、その周辺には民家や工業団地が建っているが、
かつては林が鬱蒼と茂っていたことは想像に難くない。
子どもたちの遊び場でもあり、
また大人たちの「相談場所」でもあったのかもしれない。

なお、現在は田んぼが広がっているが、『武蔵田園簿』によると、
江戸時代初期は畑の比率の方が多かった。
これは地質が砂であるのと、
地形の高まりで水を引きにくかったために、畑が多かったことが考えられる。
河畔砂丘の上から見える景色は、
現在とは違っていたはずだ。

そんなことに想いを馳せながら、
国道125号線を通ると景色が変わるかもしれない。
少なくとも、ぼくは串作を通るこの国道が好きになった。
もし河畔砂丘の上でなければ、
綺麗に切り崩されたか、良好に残されたかのどちらだっただろう。

なお、むさしの村を含む“志多見”では、
発達した河畔砂丘が多く見られ「志多見砂丘」と呼ばれている。
内陸の砂丘は珍しいものだ。
砂丘を守るため、埼玉県の自然環境保全地域に指定されている。


国道125号線からの眺め(埼玉県加須市)

雨に濡れる“下新田”で何を想う?

2013年06月18日 | ふるさと歴史探訪の部屋
雨に濡れる羽生の景色が好きだ。
とても静かで風情がある。

特に平日の雨に心惹かれる。
静かな気持ちで、ぼんやり雨を眺めていたい。
ちょっとした静養。
心の充電。

雨が好きだと言うと、あまり共感を得られない。
世の中には晴れ好きが多いらしい。
行田に住む雨好きの人も、
なかなか共感を得られないから公言しないのだとか……

写真は羽生市下新田の風景である。
『新編武蔵風土記稿』によると、元々は上新郷村の内だったが、
元禄9年に“阿部豊後守”による検地によって、
下新田村として独立したという。

すなわち、新田開発が着々と行われ、一村となったのだ。
『新編武蔵風土記稿』の編纂当時は、家数は60軒だった。
雨に濡れる日もあれば、雪化粧をする日もあったのだろう。

時はゆっくり流れて、いまの町並みを形成していく。
雨の日は、そんなときの流れと歴史の重みを感じさせてくれる。
だから雨が好きだし、自分自身を見つめ直す時間でもあると思う。
空から降り落ちる雨に、あなたは何を感じ、
いつの時に想いを馳せるだろうか?


埼玉県羽生市

荻野吟子の生家の“長屋門”はどこにある?

2013年05月05日 | ふるさと歴史探訪の部屋
群馬県千代田町赤岩の光恩寺に、
日本初の女医“荻野吟子”の生家の長屋門が建っている。
荻野吟子は現在の埼玉県熊谷市生まれだ。
旧妻沼町と言った方がピンと来る人も多いかもしれない。

荻野家の生家跡は長屋門が復元され、
吟子の記念館になっている。
実際の長屋門が光恩寺にいつ移築されたのかは定かではないが、
明治23年以前にはあったという。

なぜ埼玉にあった長屋門が利根川を飛び越えて群馬にあるのだろう。
他県とはいえ、川を挟んでほぼ隣り合っている。
筏か何かに組んで川を渡したのだろうか。

荻野吟子はこの長屋門を日ごと目にして暮らしていたのだろう。
女医になり、忙しい日々を送るようになってからふるさとを思い出すとき、
この長屋門が浮かんだかもしれない。

荻野吟子は大正2年6月に死去。
その生涯は小説や劇などで描かれ、
いまも人々の心を打つ。
ふるさとを偲ぶように長屋門は埼玉に向かって建ち、
その前には荻野吟子像が来る人々を出迎えている。


長屋門(群馬県千代田町)


荻野吟子像


利根川