goo blog サービス終了のお知らせ 

クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

ひとり焼き肉はどんな味? ―ひとり散歩―

2015年08月02日 | ふるさと歴史探訪の部屋
ひとりで焼いた“お好み焼き”は、
案外楽しかったしおいしかった。
ならば焼き肉は?
そう思って焼き肉店の暖簾をくぐった。

お好み焼きのように盛り上がるのかと思いきや、
意外にも普通だった。
特にテンションが上がらない。
ひとりで網に肉を乗せ、焼いて、食べるだけ。

23歳のとき、池袋でひとり焼き肉をしたことを思い出した。
そう、すっかり忘れていたが、初めてではなかったのだ。
それはランチ焼き肉で、何かと心労が多い職場だっただけに、
逃げるように、隠れるように入った焼き肉店だった。

テンションが上がらなかったのは、
その頃の記憶が無意識に影響を及ぼしていたからかもしれない。
そこは池袋でも何でもないのに……。

横にはカップル、後ろには中学生の娘と母親、向かいには夫婦、
さらに奥にはおじいちゃん、おばあちゃんの団体がいた。
カップルや夫婦よりも、
おじいちゃん、おばあちゃんの団体テーブルの方が賑やかだった。

何の集まりだったのだろう。
金網からあがる煙の向こうで陽気に笑っている。
たくさん肉を焼いている。
みんないい顔している。

肉を食べることもさることながら、
陽気に肉を焼くおじいちゃん、おばあちゃんを見ることは、
気持ちをほっこりさせるかもしれない。

“大杉神社”と“利根川”は避けて通れない? ―ひとり散歩―

2015年07月21日 | ふるさと歴史探訪の部屋
夜、ひとりで参拝した大杉神社。
茨城県稲敷市に鎮座している。
現在は夢むすびの神さまとして信仰されているが、
かつては水難除けの神さまとして厚い信仰が寄せられていた。

信仰していたのは水運関係者だ。
かつての利根川は現代で言うハイウェイで、
舟運交通が盛んだった。
だから、河岸があった場所には、大杉神社の石祠が祀られていることがある。

羽生市内にも大杉神社の石祠はある。
神社の境内に合祀されているが、
かつては河岸に鎮座していたのだろう。
舟運の無事を祈って祀っていたに違いない。

ちなみに、大杉神社は「アンバさま」とも呼ばれる。
お囃子や舟歌には「アンバ」の呼び名がしばしば出てくる。
羽生の河岸でも、「アンバさま」と呼ばれていたのかもしれない。

現在の大杉神社の境内は綺麗に整備されていて、
本殿に施された色彩が印象的だ。
それは、「舟運交通の神さま」のイメージと少し異なる。
まあ、夜の参拝だったから、
日中に行ったら印象も変わるだろうか。

なぜ夜だったかというと、海を見に行った帰りだったから。
それ以外に理由はない。
もちろん、舟ではなく車での帰路。
舟で利根川を使って帰れたのならば、きっと楽しいだろうな。

大杉神社は、郷土史に興味を持って初めて知った神社だった。
郷土史に触れなかったならば、
足を運ぶことはなかったかもしれない。

ぼくは利根川への関心から郷土史に興味を持った口だ。
だから、大杉神社は避けて通れない存在だろう。
利根川から導かれる縁は多い。
大杉神社の本殿の前で手を合わせ、
利根川に感謝。



生品神社で 新田義貞”は何をした? -ひとり散歩-

2015年07月16日 | ふるさと歴史探訪の部屋
生品神社は群馬県太田市(旧新田郡新田町)に鎮座している。
かの“新田義貞”はこの地に立った。

ただの参拝ではない。
何をしたか?
旗揚げである。
『太平記』には次のように記されている。

 生品明神ノ御前ニテ旗ヲ挙、綸旨ヲ披テ三度是ヲ拝シ、笠懸野ヘ打出ラル

ときに、元弘3年(1333)5月8日のことだった。
新田義貞の旗揚げに集まった武将は大館次郎宗氏ら150騎だったという。
彼らは鎌倉街道上道を通って鎌倉へ向かう。
その途中、多勢の武士たちが次々に義貞に加勢。

なぜ鎌倉か?
むろん、鎌倉幕府を倒すためである。
そのときの生品神社は、
時代が大きく変わろうとするうねりに揺れていたに違いない。

現在の境内は、そんな武士たちの熱気を感じることはない。
静寂に包まれている。
境内は国指定の史跡。
そこに建つ石碑などを見ると、
多くの人たちに関心を持たれてきたことがわかる。

なお、神社駐車場の傍らには新田義貞の銅像が建っている。
この銅像は新しく、以前のものは盗難にあったという。
すごいものを盗むものである。
また、境内には義貞伝説と伝える塚跡などが残っていて、
『太平記』の世界に想いを馳せることができるだろう。

静寂に包まれているとはいえ、参詣者がいないわけではない。
ぼくが足を運んだときは、年配の人と同じ年くらいの人とすれ違った。
みんな男子。
女子はいない。
果たして「歴女」の心をくすぐる神社だろうか。

いまから数十年前に「太平記」という大河ドラマが放送されたが、
当時は生品神社を含むこの辺りは盛り上がっただろう。
いまで言う「歴女」も多く足を運んだに違いない。









最終電車の怪異より怖いのは? ―ひとり散歩―

2015年07月10日 | ふるさと歴史探訪の部屋
利根川に架かる鉄橋を走る東武伊勢崎線の電車を、
何度見たかわからない。
利根川へ足を運ぶたびに、
電車は音を立てて走り去っていく。

河原で遊んでいた中学生のときも、
土手上から川を眺めた高校生のときも、
電車はいつも変わらず走っていた。

実は、この電車の最終には怪異が起こるという。
『羽生昔がたり』によると、下り最終電車の一番後ろの車両に、
血まみれの女の人が現れるらしい。
鉄橋を渡り始めたときに現れて、
川を越えると消えるとのこと。

真偽は不明。
タヌキのしわざではないかと記しているが、
「酔っ払いのでまかせだよ」と言う人もいる。
いまのところ、ぼくは幽霊の目撃談を聞いたことはない。

今年も夏がやってくる。
怪談の季節である。
稲川淳二の怪談CDを聴いている。
幽霊の存在には懐疑的だが、怪談は大好きだ。
はまると通勤路でも、史跡でも、書店でも、夜寝るときも聴いている。

ある宵の時刻、
利根川に架かる鉄橋を見上げた。
最終電車にはまだ時間がある。
幽霊は出そうもない。

しかし、その時刻は逢魔の刻。
昔から警戒すべき時刻と言われている。
この世ならぬ者と出会いやすい。

辺りはだんだん薄暗くなっていく。
草葉の陰から何かが蠢く気配。
振り返っても誰もいない。

鉄橋を電車が通り過ぎていく。
その音はけたたましい。
車内に乗っていてもよく聞こえる。

それゆえ、最終電車で酔っ払って寝過ごしたとき、
その音で目を覚ます。
利根川の鉄橋で起きる人は少なくないだろう。

寝過ごした経験はぼくもある。
「しまった」と思ってももう遅い。
電車は容赦なく川を越えていく。
次の駅まで乗車客を運んでいる。
駅で降りたところで、上りの電車はとっくになくなっているのだ。

冷水を浴びせられたような感覚。
車内で頭を抱える。
どうしよう。
幽霊どころではない。
現実的な問題は最終電車の怪異よりも怖い。

窓の外は暗くて何も見えない。
酔った頭で帰る手段のことを考えている。
車内に響く鉄橋を渡る音。
そのとき幽霊が出たとしても、ぼくは気付かなかったに違いない。


校舎が見える小径を歩けば? ―ひとり散歩―

2015年07月08日 | ふるさと歴史探訪の部屋
羽生第一高校周辺の小径を歩くと、
小さな堀が目に留まる。
現在は五階建ての校舎がそびえ立っているが、
かつては田畑が広がっていたのだろう。

湿地もあったに違いない。
湿地の名残をいまもわずかに見ることができる。

ぼくは川や用水路、小さな堀を見るのが好きだ。
特にコンクリートで護岸されていない堀にはテンションがあがる。
堀を覗けば、タニシやザリガニの姿を見かける。
探せばメダカもいるだろうか。

高校の裏を流れる堀は、
夏になると水をたっぷり含んでいる。
これは、先の大戦中に早稲田大学の学生が掘ったものだ。

歴史としてはさほど古いわけではない。
ビジュアル的に特殊なわけでもない。
多くの生徒は意識せず通り過ぎていると思う。
ただ、視点を変えれば、妙に存在感を放ってくる。

ときどき、高校に行きたくなる。
図書室に足を運びたくなる。
なんとはなしに廊下を歩きたくなる。
同級生と言葉を交わしたくなる。

感傷とは違う。
懐かしいわけでもない。
でも、一番何かを残してきてしまったのは、
高校時代のような気がする。

変わらないことは難しい。
ずっとそこにあるようなものでも、
時代の波には抗えない。
いつかきっとその波が景観を変えていっても、
小さな堀と水田の景色は、
少しでも長く残っていてほしいと願わずにはいられない。









“鹿島神宮”は異界に建つ神社? ―ひとり散歩―

2015年07月04日 | ふるさと歴史探訪の部屋
ひとり参拝した鹿島神宮。
夕方近くで参詣者はさほど多くはなく、
木々に覆われた境内は森閑としていた。

高校生の夏、鹿島からやってきた転校生と出会って以来、
鹿島神宮は一度訪ねてみたい神社だった。
ひとりで足を運んだのに特に理由はない。
思うことがあったわけでもない。

常陸国一の宮の鹿島神宮。
十代の頃、思い描いていた利根川の果てのそばに鎮座している。

その頃のぼくは、利根川が流れ着く海を見たことがなく、
そこは“異界”に近い感覚で胸の中にあった。
転校生はその異界からやってきた人で、
海を知っていることが、何となく特別な存在感を持っていたのを覚えている。

羽生に「鹿島」の名の付く神社はない。
鹿島信仰はここまでは伸びなかったらしい。
川を境にして、信仰圏は比較的はっきりと区切ることができる。
香取神社はあっても鹿島神宮はない。
それは、海までの遠さに似ていた。

鹿島神宮の本殿の前で手を合わせる。
ぼくは何人目の参拝者なのだろう。
かの坂上田村麿も、この地でこうして手を合わせたのだろうか。

ぼくは転校生ではなかった。
一度も転校を経験せずに「学生時代」を過ごした。
転校してきたその人が見た北埼玉の景色は、
一体どのように映ったのか知る由もない。

転校生と鹿島神宮。
転校生はぼくの知らない世界を持っていて、
ほかの同級生ともどこか違っていた。
それは、いま思えば、
鹿島信仰圏の世界の到来だったのかもしれない。
いつもと違って感じた風は、
潮風に似ていたのではなかったか。

鹿島神宮には、さほど長くは滞在しなかった。
日は暮れて、境内はどんどん暗くなっていく。
この神社の歴史の奥行きを知るには、
1回だけの参拝では少なすぎる。
境内のシカにさよならを言って、その場を後にした。



川から恐いカッパがいなくなった? ―ひとり散歩―

2015年07月02日 | ふるさと歴史探訪の部屋
いまはとんと見かけなくなったカッパの看板。
川に近寄ってはいけない、遊んではいけない、中に入ってはいけない、
そんな注意を喚起する看板だった。

カッパから水面から顔を出している。
結構な悪人顔だ。
あるいは妖怪ぽい。

赤松宗旦の『利根川図志』にはカッパの絵が載っているが、
それを参考にしたのかもしれない。
小さい子の中には、泣き出す子もいるだろう。

ぼくが幼い頃、カッパの看板を見沼代用水路でよく見かけた。
葛西用水路はどうだっただろう。

いつの間にか看板は消え、カッパを見かけることはなくなった。
ときたま見かけるが、もはや「懐かしい」。
最近の看板は、かわいらしいカッパが溺れているイラストが描かれている。
カッパが溺れる姿などレアだろう。

あの恐い方のカッパには名前が付いていたのだろうか。
ダニエルとかジョンとか、
名前があるのか聞いてみたい。
芥川龍之介の小説のように、カッパの世界に行ったときにでも……

川俣関所を通って“川俣宿”に行く? ―ひとり散歩―

2015年06月24日 | ふるさと歴史探訪の部屋
川俣宿は、かつて群馬県明和町にあった。
埼玉県羽生市上新郷の対岸に位置する。
昭和橋を渡ったすぐのところに宿通りがある。

往古は橋などなく、船で渡っていた。
富士山が綺麗に見えたことから、“富士見の渡し”とも呼ばれていたという。

対岸には川俣関所があった。
忍藩の番士が通行人を取り締まっていた関所で、
ここを通って利根川を渡ったところに川俣宿があったわけだ。
羽生市にも「川俣」の地名があるが、
あくまでも対岸の群馬県の話。

日航脇往還に位置していたから、
この宿通りも本陣があり、餅屋、鍛冶屋、うどん屋などが軒を連ねていた。
当時は通行人で賑わっていたのだろう。

現在も宿通りはあるが、ごく普通の民家が建ち並び、
何の情報もなければそこが宿通りとは気付かないと思う。
これは対岸の新郷宿も同様だ。

近年、この川俣宿について紹介する説明版が設けられた。
絵図も付いているから、散策するときは参考になるだろう。

ここは川俣事件衝突の地でもある。
近現代史を専攻する人にとっても血が騒ぐ場所である。

ぼくらが十代のとき、昭和橋には歩道が設けられておらず、
自転車で群馬県へ行くには決死の覚悟だった。
それでも若さゆえか、何度も昭和橋を渡った。

館林で遊んだ帰り道、これから昭和橋を渡るのかと、
やや気が重く、緊張感を伴い始めるのがちょうど川俣宿だった。
江戸時代、上野から武蔵に渡るときの旅人も、
もしかするとこれと似た感情を持っていたかもしれない。
なぜなら、対岸には関所があったから……







多々良沼で“鶉小城”を見る? ―ひとり散歩―

2015年06月18日 | ふるさと歴史探訪の部屋
鶉小城(鶉古城)は群馬県館林市にある。
広大な多々良沼に囲まれ、土塁が現存している。

往古の多々良沼は現在より大きかったようだ。
だとすると、この城を落とすのは困難だっただろう。
小規模とはいえ、館林城の新築城を勧めたキツネも、
鶉小城が頭をよぎったかもしれない。

現在は公園として整備されている。
土塁はもう一連あったらしいが、現在は消滅している。
沼の方へ歩いていけば弁財天を祀る社が建っていて、
カップルで行くと神さまが嫉妬するだろうか。

鳥を撮影するカメラマンも多く見かける。
耳をすませば、連続して切られるシャッター音が聞こえてくる。

それにしても、公園内にはたくさんのネコがいる。
人を見ても警戒しない。
中には寄ってくる人懐っこいネコもいる。
世渡り上手なネコだ。

城址探訪というより、
憩いの場として足を運ぶ人は多いかもしれない。
雨降る平日の昼間などは、
きっと静けさに包まれているのだろう。

昔から変わらずそこにある沼に見えるが、
その環境は大きく変化している。
平成に実施された浚渫が激変をもたらしたという。
かつて盛んに行われた追い込み漁もいまは見ることができない。

時代が移れば景観も変わる。
環境も変化する。
人の暮らしも変化し、その価値観も変わっていく。
そんな時代の移り変わりを、
鶉小城の土塁はどう見ているだろうか。


土塁

皆野町の“とんかつ”と“ネコ”に会う? ―ひとり散歩―

2015年06月13日 | ふるさと歴史探訪の部屋
秩父線に乗って、ひとり埼玉県皆野町へ行った。
皆野駅を降りたのは初めてのことで、
田舎然としたローカル感がたまらない。

町役場へ向かう途中、1匹のネコと出会う。
ゴロンと寝転がっていて、
近付くぼくに多少の警戒をしても、
立ち去る気配はない。
町の平和を象徴している気がした。

皆野町へ行ったのは、会議のためだった。
ちょうどポピーが満開の頃だったが、
残念ながらそこまで足を運ぶことはできない。

昼休み、路上で偶然知り合いに会った。
そのまま2人並んで駅前の店に入る。
焼き魚定食を注文しようとしたが、
店内はカツを揚げる香ばしい香りがしていたし、
相手がとんかつ定食を注文したから、同じものを頼んだ。

とんかつを食べるのは何年ぶりだろう。
医者に止められているわけではないが、
油ものは意識的に控えている。
それなのに難なく注文したのは、皆野町の解放感ゆえかもしれない。

ところで、「学芸員」と言って専門が多様なように、
その入口もまたさまざまである。
教職を取ったあと、大学に入り直して学芸員資格を取得した人もいる。
古きよき時代は、その技術が買われて売り手市場だったという。

10代、もしくは20代前半の選択が、
人生そのものを決めるわけではない。
軌道修正もあるし、全く想像もしていなかった展開もある。

中には、一度レールから外れたら取り返しがつかないと考える人や、
そのような倫理を持つ組織もあるが、
人間の奥行きは、一時の結果だけで判断できるものではないだろう。
十代終わりの結果にいつまでもしがみつき、
何も成し遂げられずとも、
やはり過去の栄冠を基準に評価するのだろうか。

運ばれてきたとんかつはサクサクで白米とよく合った。
皆野町でとんかつを食べるということ、
路上で知人に会って言葉を交わすということ。
いずれも一期一会。
路上での再会に感謝したい。

皆野町を出たのは夕方5時近かった。
再び秩父線に乗る。
ふと窓の外を見ると、午前中に会ったネコが視界に入った気がした。
さよならを言いに来てくれたのだろうか。
たぶんぼくの見間違いだろうが、
ネコとの一期一会に感謝。







長瀞でお蔵出しの資料が展示されている? -ひとり散歩-

2015年06月09日 | ふるさと歴史探訪の部屋
埼玉県立自然の博物館は長瀞にある。
山に囲まれ、近くには荒川が流れていて、
心安らぐ場所だ。
心の洗濯もできるかもしれない。

平成27年6月28日(日)まで、「お蔵出し新収集品展」が開催されている。
平成18年から収蔵したものが展示されている。
普段お蔵の中で保存されている資料が見られるわけだ。

博物館の主な業務として、
資料の収集、保存、調査研究、普及と教育が挙げられる。
お蔵から展示された資料を通して、
学芸員の仕事の一旦が垣間見られると思う。

毎週日曜日の午後1時30分から、
学芸員による展示解説もあるという(30分程度)。
自然に興味のある方はもとより、
常設展を含めて子どもを連れていっても、
親子で楽しめるだろう。

笛吹峠は“古戦場”の跡地?

2015年06月05日 | ふるさと歴史探訪の部屋
笛吹峠は古戦場跡でもある。
正平7年(1352)閏2月に、
新田義宗・宗良親王と足利尊氏が激突。
新田らは敗北し、越後へ落ち延びたという。

「笛吹峠」の名称も、敗退の陣営の中、
月明かりに照らされた宗良親王が笛を吹いたことによるらしい。
いささかポエジーが漂う。

ここは鎌倉街道上道でもある。
峠は標高100mにも満たないが、
かつて武士たちはこの道を駆け巡ったのだろう。

現在はアスファルトに舗装されていて、
車で楽に通ることができる。
その道沿いに、鎌倉街道上道の遺構とおぼしきものが一部残っている。
昭和50年代に埼玉県教育委員会が調査したときには遺構を確認しているが、
現在はどれくらい残っているのだろう。

遺構とおぼしきところは藪に覆われている。
見学する際は藪をかき分けなければならない。
ズボン、スニーカーが望ましい。
もっと言えば、冬の方が比較的見やすいかもしれない。

ちなみに、笛吹峠は心霊スポットでも知られているようだ。
色々いわくがあるらしいが、
古戦場ということも噂を発生しやすくしているのかもしれない。
藪の中を分け入り、鎌倉街道を探すぼくの姿は、
幽霊に間違えられるだろうか……。








ひとり利根川あそびで“屋台”に行く? -ひとり散歩―

2015年06月01日 | ふるさと歴史探訪の部屋
心にポッカリ穴があいたとき、
ふと行きたくなるのがいつも利根川だった。
地元の北を流れていて、自転車でふらりと出掛けた。

誰かと一緒のときも多かったけど、
ひとりで行く利根川の方が、数としては多いかもしれない。
ひとり利根川。
ひとり利根川あそび。

「川に行って何をするの?」
話せば、決まってそう問われた。

何をしているのだろう。
自分でも首を傾げた。

土手上から川を眺めることもあれば、
河原まで下りることもある。
何度か川に入ったこともあったっけ。

泳ぐわけでもない。
釣りをするわけでもない。
はたから見たら、何もしていないように見えると思う。

でも、利根川と会話していると言ったら、笑われるだろうか。
それともわかってくれるだろうか。

利根大堰へ行って、「つまらない」と思ったことは一度もない。
堰き止められた大河は、いつも溢れんばかりに水を湛えている。

その川の真ん中で電話をしたことがある。
電話の相手は、まさかぼくが
平日の昼下がりにそんなところからかけてくるなんて思わなかっただろう。
いまでもきっと知らない。

土手上から見る大堰も好きだし、
川のすぐ近くまで寄ってもいい。
見沼代用水路の旧取水口跡を見てもいいし、
公園を散歩してもいい。

その昔、土手上に小さな屋台があって、
トウモロコシや焼きイカを販売していたのを覚えている。
食べたことはあるかもしれないが、
残念ながら記憶にない。
利根大堰で懐かしい風景はたくさんあるけれど、
土手上の屋台が妙なアクセントで記憶を彩っている。









戦国武将からの手紙が埼玉の文書館で見られる? -ひとり散歩―

2015年05月23日 | ふるさと歴史探訪の部屋
ひとりで行く博物館や文書館が好きだ。
もちろん誰かと一緒でも構わないのだけど、
ひとりきりで見る“資料”は距離感が違う。

近い。
迫ってくる。
語りかけてくる。
その声にじっくりと耳を傾けられる。

埼玉県立文書館では、6月7日(日)まで、
「中世文書の世界Ⅲ―館有文書あらかると―」が開催されている。
豊臣秀吉や上杉景勝などの文書が見られる。
文書館だけに、古文書の展示が中心だが、個人的には好きだ。
書いた人のぬくもりを感じられる。

ちなみに、埼玉県令“楫取素彦”(かとりもとひこ)の通達や手紙も展示されている。
楫取素彦と言えば、平成27年の大河ドラマ「花燃ゆ」に登場している人物だ。
楫取は明治7年に第2代熊谷県令に就任しており、
埼玉とゆかりが深い。
大河ドラマを見ている人は、特に親近感がわくかもしれない。

文書館は一般の人には聞き慣れない施設かもしれない。
ぼく自身、郷土史に興味を持つまで縁遠い存在だった。
文書館は一体どんな施設なのか?
何が収蔵されているのか?
探検するつもりで足を運んでみると、
思わぬ発見があるはずだ。

10年前と比べる“皿尾城跡”は? -ひとり散歩-

2015年05月17日 | ふるさと歴史探訪の部屋
皿尾城跡を初めて訪れたのは、
いまから10年以上前になると思う。

10年。
ひと頃は、10年経てば「昔」と言われた。
いまはどうか?
10年はもはや「大昔」だろう。

時代の流れは加速し、社会は変化し続けている。
10年前、ぼくはアンテナが伸びる形態電話を使っていたし、
ブログというツールをまだ知らなかった。

時代の波が押し寄せてくる。
それは城跡も無関係ではない。
変化している。
「変化」というより、消滅かもしれない。

城の堀跡と比定された溝は大幅に埋め立てられ、
変わりにコンクリートの水路ができた。
城跡に建つ民家も新しくなり、景観も変化している。
激変とまではいかずとも、ときの流れを感じずにはいられない。

時代が変われば、人も変化しているのだろう。
価値観や見る視点、考え方や感じ方。
ぼく自身もまた……

かつて溝に下りて、写真を撮ったことがある。
いまも城跡ではしゃぐ気持ちはあるが、
ノリノリとは少し違うかもしれない。