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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

お店で肉を買って食べるようになったのはいつ? ―子ども学芸員―

2013年09月23日 | 子どもの部屋
朝、コンビーフを開けた。
おもしろい。
コンビーフの入れ物は、つねづね独特でおもしろいと思う。
その開け方は、母親から教わったのを覚えている。

缶詰を開けたことがない人にとっては、
コンビーフは難易度が高いかもしれない。
そもそも、いまは缶切りを使う機会がめっきり減ったのではないだろうか。
18歳のとき、缶切りを一度も使ったことがないという同級生がいたが、
いまでも疎遠なのかもしれない。

ところで、一般家庭において、
いつから肉が食べられるようになったのだろう。
そもそも、日本人は魚を食べても、
肉を口にする習慣はほとんどなかったという。
だから、朝からコンビーフを食べるなんて人は、むかしは滅多にいなかった。

そもそも、日本人が食していたのは鳥肉が多かった。
自宅でニワトリを飼っていて、卵を産まなくなると食用にしていたという。
卵は自宅で食べるのではなく、売りに出して現金収入にしていた。
だから、卵はごちそうで、
ハレの日や病気を患ったときくらいにしか口にできなかった。

ブタ肉を肉屋さんから買うようになったのは、
昭和30年に入ってからのことだ。
牛肉は昭和50年代になるまで待たなければならない。
もちろん、それまで食べる人がいなかったわけではない。
普通の一般家庭における平均的な話だ。

かつて、ぼくの実家でもブタを飼っていた。
物心のついた頃はすでにブタはいなかったが、
朽ちたブタ小屋はまだ残っていて、ちょうどいい遊び場だった。

いま思えば写真に撮って記録に残しておけばよかったと後悔している。
昔を懐かしむためのものではなく、
当時の生活を知る資料となり得たのだから。

ブタは飼っていても、ほとんど肉は食べられなかったという。
ニワトリを飼っていても、卵を食べられないのと同じだ。
ブタは「商売道具」であり、趣味で飼っているわけではなかったのだ。

幼い頃の父親は、朝に新聞配達をやり、
ブタのエサをやってから学校に行ったという。
兄弟も多かったから、労働が分担されていたのだろう。

高度経済成長に入り、物が溢れ、日本人の生活スタイルが変わり始めたとはいえ、
不思議と両親の「昔話」は景気の良さを感じさせない。
たまたまその部分の話がカットされているのか、
それが現実だったのか……。
あるいは、新旧が入り混ざる時代だったことを示しているのかもしれない。

現在、肉食は当たり前になっている。
牛丼は安価で食べられるし、
子どもたちはハンバーグやハンバーガーが大好きだ。
頻繁にあるわけではないが、朝にコンビーフを開ける日だってあるのだ。
いまや肉は日本人にとって欠かせない食材だ。

しかしその反面、肥満問題を引き起こしている。
食生活が見直されて久しい。
また、食の安全についてもしばしば議論されている。
飽食の時代だからこそ、そこにあるのが当たり前なのではなく、
食べ物のありがたさとあり方を、
改めて見つめることが大切だろう。

ちょっとのときは“チョックラギ”を着る? ―子ども学芸員―

2013年09月19日 | 子どもの部屋
羽生市立郷土資料館の平成25年度企画展Ⅰでは、
“ハレ着”としての婚礼衣装が展示されていた。
婚礼衣装が“ハレの日”に着るとしたら、
その日以外の服装はどんなものだろう。

普段着ているので“フダンギ”(普段着)と呼ぶ。
埼玉県内では、ほかにも“ツネギ”や“ツネッキ”と呼ぶ地域もあった。

では、よそゆきの格好でも普段着でもなく、
ちょっと出掛けるときの服装がある。
近所への用事など、おめかしをせずとも、
普段着ではやや気が引けるというときだ。

このとき着るものを“チョックラギ”という。
“チョットギ”や“チョイチョイギ”などとも呼び、
家の奥さんなどに「チョックラギを出してくれ」と言うのだろう。

ところで、高校生の頃、サンダルでコンビニ行けるかどうかが、
「おじさん」の境目という感覚があった。
年齢で「おじさん」か否かを分けるのではない。
年を重ねても若い人はいるし、
逆に若くても「おじさん」ぽい人はいる。

そのボーダーラインは、普段着とチョックラギの同一だった。
おしゃれに気を遣っていれば、
近所のコンビニへ行くにも“チョックラギ”を着る。
ある程度服装を整える。

しかし、服装に無頓着になると、
近所のコンビニへ行くくらいなら気を遣わない。
パジャマのような普段着でぷらっと外に出る。
その象徴がぼくらにとっては「サンダル」だったのだ。

サンダルと言ってもおしゃれなものではない。
一般の「おじさん」が愛用しているもの。
安価で丈夫で使いやすい優れものだが、
高校生がそれを履いて渋谷や原宿にはいかないという代物だ。
90年代半ばに高校生だったぼくらは、
そのサンダルでコンビニへ行ったとき、「おじさん」認定を受けるのだった。

ちなみに、農家では普段着とよそゆきの中間としての“チョットギ”があったが、
商家では仕事着が普段着になっていたから、
特に外出用の服装はなかった。
近所への用事も仕事着で出掛けたのである。

家で過ごすときはどんな格好をしているだろうか。
動きやすくて気を遣わない格好をしている人が多いと思う。
いつもピシッとスーツを着こなしている人が、

ぼくも年を重ねてきて、「おじさん」と言われても全くおかしくはない。
ただ、「おじさん」サンダルでコンビニへ行ったことはまだない。
いまでは、サンダルで買い物したくらいで、
「おじさん」には認定されないという考えだ。
十代に比べてだいぶ甘くなったものだ。

服装が「おじかん」か否かを分けるとしたら、
家でもピシッとした格好をしていればいいだろう。
帰宅したら家用のスーツに着替え、時間を過ごす。
そして、寝るときはパジャマ用スーツに着替えて布団に入る。
これでバッチリだ。
パジャマ用ネクタイも締めたいところだが、
夏はクールビズのためノーネクタイで過ごしそうだ。

昭和42年には羽生では何があった? ―子ども学芸員―

2013年09月18日 | 子どもの部屋
 4月、旧町内の区域を対象に、新住居表示実施
 8月、市民交通障害保険制度が発足
 10、羽生小学校前に横断歩道橋が完成
    埼玉国体開催。羽生は重量挙げの会場になる。

上記は、昭和42年に羽生で起こった主な出来事。
10月に出来た歩道橋は現在もある。
北小学校の前に架かっている歩道橋だ。

当時、その下を通る道は国道122号線で、交通量もかなり多かったという。
そのため歩道橋が架かったわけだが、
現在の感覚では、その道が国道だったことに違和感を覚えるかもしれない。

ちなみに、この頃は「マイカー」普及率がどんどん上がり、
車保有台数が1千万台を越えたという。
新しいものの登場で、逆に姿を消すものもある。
それまで、東京を走っていた都電が、マイカー普及によって次々に廃止となる。
「鉄」にとっては寂しい限りだっただろう。

マイカー普及は新たな問題も引き起こす。
交通事故による死者が急増したのだ。
昭和42年の交通死傷者数は史上最高となった。

そんな社会的背景あっての羽生の歩道橋建設だった。
こんなデータもある。
昭和42年当時、羽生市内における普通乗用車は5台、
小型四輪車は852台だった。
貨物自動車は大型と小型を合わせて1391台。
貨物の方が多かったことがわかる。

なお、当時は三輪自動車も走っていた。
その数は124台で、翌年は95台と、年々減少していく傾向にあった。
かつてぼくの家にも廃車となった三輪自動車があったが、
そのデータの中に含まれていたかもしれない。
タクシーの台数は20台で、
昭和42年を含む5年間でさほど上下していない。

では、羽生の町中を通る国道122号線はどのくらいの交通量だったかというと、
午前7時~午後7時の間で、「8671」という数字が出ている。
これは昭和45年10月のデータであり、
車以外に歩行者や自転車も含まれている。
ほかの観測地点に比べると、乗用車の交通量が多かったようだ。

昭和42年に架けられた北小学校前の歩道橋は、
交通の移り変わりをずっと見続けていることになる。
車種は、時代を象徴していると思う。
いつかその歩道橋が、「空飛ぶ車」を見る日は来るのだろうか。

駄菓子のおまけで“物語”を共有する? ―子ども学芸員―

2013年09月17日 | 子どもの部屋
駄菓子の魅力の一つは“おまけ”だろう。
カードやシール、フィギュアやプラモデルなど、
お菓子よりおまけを目当てで買うことも少なくない。

ぼくらの世代で「おまけ」と言ったら、
ビックリマンシールは外せない。
もともとは、1977年発売の「どっきりシール」から始まるおまけシール付き菓子が、
1985年に「悪魔vs天使」シリーズのシールを発売。
これがたちまち大ヒットし、
ぼくらもその流行の渦中にいた。

駄菓子屋に行っても完売しており、
買いたくても買えなかったことも一度や二度ではない。
シールだけを取ってお菓子は捨ててしまうことが問題にもなったし、
アニメ化・ゲーム化にもなって、
その勢いは田舎の小学生でもヒシヒシと感じていた。

ぼくが初めて出したキラキラシールは「魔肖ネロ」だった。
雑誌「コロコロコミック」で特集が組まれ、
「最強」の聞こえ高く、
確かにそれまでのキラキラシールとは一線を画していたのを覚えている。
「スーパーゼウス」や「ブラックゼウス」はもはや手の届かないシールであり、
ある意味「伝説」の領域に近いものだった。

ぼくらがビックリマンのシールに夢中になったのは、
ゲーム感覚の強さにもよるだろう。
ストーリーがあり、それぞれのキャラに個性がある。
シールを通して、ビックリマンという仮想現実を楽しんでいたのだ。

それに、ぼくはビックリマンの菓子も好きだった。
シールだけ取って菓子を捨てるなんてあまりに勿体ない。
もし、レストラン「駄菓子」があったら、
メニューに載っていてもおかしくはないと思う。
シールについた、お菓子の香ばしい香りも好きだった。

あの頃、駄菓子屋のおばちゃんたちは、ビックリマンに対してどう思っていたのだろう。
きっと賛否両論だったに違いない。
盗難や食べ物を粗末にする光景は少なくなかったはずで、
ビックリマンをあえて置かない店もあったかもしれない。

逆に子どもたちとの親睦を深めたおばちゃんもいたかもしれず、
ビックリマンという物語を通して、
数々のストーリーが生まれていたと思う。
たかが、駄菓子のおまけシールかもしれない。
しかし、そのシールにありがとうの気持ちを持つ大人たちは、
全国にたくさんいるに違いない。

昭和41年には羽生では何があった? ―子ども学芸員―

2013年09月14日 | 子どもの部屋
昭和41年2月、羽生電報電話局が設置された。
4月には、定時制高校の校舎が完成。

世間では、グループサウンズブームが起こっており、
「シビレ」まくって、コンサートで失神する女性が続出したとか……。
6月にはビートルズが来日。
ビートルズが与えた影響は大きい。
いまでもその人気は不滅だ。

好景気に沸く日本は、人口が1億人を突破した。
三種の神器がカラーテレビ、カー、クーラーの3Cに新しく変わる。

一方で消えてなくなるものがあった。
百円札の廃止である。
いまでは硬貨で、自動販売機などで大活躍だが、
それまではお札だったのだ。
ぼくはまだこのお札を見たことがない。

ちなみに、この年の6月と9月に台風が襲来し、
羽生にも被害が出ている。
6月には782戸の家屋が浸水し、
9月は106戸という被害だった。

9月の方が被害が少ないと思いきや、
壊れた家は8,530戸にのぼり、死傷者まで出ている。
目覚ましい復興を遂げ、生活がどんどん豊かになっても、
自然の力には叶わないということだろう。

水と言えば、興味深い現象が起きている。
「おはなはん」というNHKの連続テレビ小説が、
最高視聴率54%という脅威の数字を叩き出した。

全国の子どもから大人まで、
「おはなはん」の放映時間はテレビの前に釘付けになったという。
そのため、家事をする主婦が少なく、
水道メーターが急降下したということだ。

外国では、超人気番組の終了後、アパートの住人が一斉にトイレに行くため、
水道管の圧力によって部屋の物が動くという怪奇現象が起きている。
昭和41年当時に、もし日本で水洗トイレが普及していたら、
「ポルターガイスト」の噂が全国で発生していたかもしれない。

ビートルズの来日公演がテレビで放送されると、
視聴率は56%に及んだらしい。
水道メーターの急降下以外に、
その時間に何が起きていたのだろうか……

昭和40年に羽生では何があった? ―子ども学芸員―

2013年09月10日 | 子どもの部屋
昭和40年代がスタートしたその初年、
羽生では以下のことが起こっている。

 羽生駅前通り線舗装工事完成
 市立第四保育所が完成
 ごみ焼却場が完成
 し尿処理場が完成

現在、羽生駅東口を出ると、市役所に向かう一本の道が続いているが、
これは古くからある道ではない。
新道だ。
昭和25年に計画が出て、同27年から着工した。

若い人から見れば「旧道」かもしれないが、
いずれにせよ戦後に誕生した道路である。
その舗装が終わったのが昭和40年ということは、
それ以前は砂利道であり、雨が降ればあちこちに水たまりができたのだろう。

このほか、重要な公共施設ができている。
ごみ焼却場の処理能力は1日20tで、
し尿処理場は4万5千人分の処理能力を持っていたという。

いざなぎ景気が始まった昭和40年。
好景気に舞い上がるように、人々のテンションの高かった。
「モンキーダンス」と言われる踊りが流行し、
音楽に興奮する状態を「シビレる」と表現した。

ぼくはまだこの年に生を受けていないのだが、
「モンキーダンス」を目にすると妙に懐かしい気持ちがする。
いまでも見るに耐えられるダンスだと思う。
なお、エレキギターが飛ぶように売れ、
エレキ・ブームが到来する。

この年、加山雄三の「ボクは、しあわせだな~」が流行語となっている。
多くの人々が戦後の目覚ましい復興に沸き、
ダンスやエレキに「シビれ」、
「しあわせ」を感じていた時代だったのかもしれない。

少年少女の“世界”を構成するものとは? ―子ども学芸員(90)―

2013年09月08日 | 子どもの部屋
羽生市立郷土資料館で開催中の企画展Ⅰでは、
展示室の出入り口のところに、虫取りアミを持った少年の模型が立っている。

麦わら帽子にランニングシャツ。
左手には虫カゴ。
まさに「全力少年」(スキマスイッチ)である。

この少年は、どんな虫を捕まえに行こうとしているのだろうか。
虫取りは、子どもの遊びのスタンダードだ。
少年に限らず、虫取りの好きな少女もいるだろう。

昭和54年に生まれたぼくらは、
少年時代の遊びと言ったら「ファミコン」を真っ先に挙げるが、
虫取りや魚釣りも外すことができない。
里山や屋敷林がまだ多く残っていて、
特に夏休みのカブトムシやクワガタ取りは楽しくてならなかった。

埼玉県内における子どもが捕まえる虫の対象は、
セミ、トンボ、ホタル、鈴虫、クワガタ、カブトムシ、コガネムシ、
イナゴ、チョウが主に挙げられるようだ。
もちろん、これ以外に捕まえた虫は多いだろう。

ぼく自身は、クワガタとカブトムシがメインで、
たまにセミとイナゴを捕まえに行った。
野生のホタルはすでに見えなくなっていたし、
トンボやチョウは対象となっていなかった。
だから、虫取りアミを使った記憶がほとんどない。

カブトムシやクワガタは見ていてカッコいいというのがあるが、
ぼくらが目的としていたのは、あくまでも捕まえるという行為だったと思う。
草木の生い茂る里山に入り、樹液の出ているクヌギを一本一本見ていく。

昼間にもかかわらず、
樹液を吸っている食いしん坊のカブとクワはわりといて、
木にたかっているその姿にどれほど心をときめかせたことか……!
里山に入るあの胸の高鳴りや期待感は、
少年時代の夏の思い出である。
ぼくらの格好の遊び場だった。

ちなみに、方言でカブトムシを“サイカチ”、
クワガタを“ハサミッチョ”と呼ぶところもある。
しかし、ぼくらは普通に「カブ」と「クワ」と呼んでいたし、
それ以外に特殊な呼び方をしている大人もいなかった。

ただ、里山には不思議な名前があった。
その名も「じじばば」。
正式な名前ではない。
ぼくの友人か、もしくはその兄貴が名付けた気がするのだが、
詳しいことはわからない。

ほかにも、「二本の木」「天神さま」「元中の木」なんていうのもあった。
これは由来がはっきりしている。
二本のクヌギが生えているから「二本の木」。
天神社の杜だから「天神さま」。
元中学校跡地に立っている木だから「元中の木」だ。

「じじばば」の近くには、八幡神社が鎮座していた。
そこにはクヌギの木はなく、カブとクワを捕まえたことは一度もない。
ただ、道路を挟んだところに小さな池があって、
ザリガニ釣りは飽きるほどした。

少年だったぼくらにとって、
地元の村が一つの世界だった。
「じじばば」や「二本の木」などはその世界を構成する要素であり、
少年時代の舞台装置だった。
物心のついた頃からそこにあったし、
世界は変わらないと思っていた。

しかし、世界は変わると知ったのは、一体いつからだったろう。
「元中」に残っていたプールと体育館が壊され、
「二本の木」も姿を消した。
慣れ親しんだ駄菓子屋が閉店し、
八幡さま前の池も埋め立てられた。
そして、「じじばば」に開発の手が入り、
多くの木々が失われたのを目の当たりにしたときか……。

世界は変わる。
いまや大型ショッピングモールがそびえ立ち、
四車線に変わった国道には、絶えることなく車が走っている。
ぼくらが少年の頃に見ていた光景とはまるで違う。
ぼくらの「少年」を構成していた舞台装置のほとんどは消えてしまったのだ。

いまや、カブやクワを捕まえることは難しいだろう。
虫取りをしない子がいてもおかしくはない。
現在の少年少女にとって、舞台装置は「じじばば」や「天神さま」から、
「ショッピングモール」や新しくできた飲食店名に変わっているのかもしれない。

世界は変わり続けている。
現在の少年少女が大人になったとき、世界にはどんな光景が広がっているのだろうか。
そして、そのときの少年少女の舞台装置は何になっているのか……
展示室にいる虫取りアミを持った少年は、
どんな「世界」を物語っているだろうか。

昭和39年に羽生では何があった? ―子ども学芸員(89)―

2013年09月06日 | 子どもの部屋
昭和39年の主な出来事は……

 5月、市制施行10周年・文化会館落成記念祝賀式典挙行
 8月、市内の全中学校6校にプールが完成

文化会館は、かつて旭橋の近くに建っていた。
ぼくは「商工会館」のイメージが強い。
そろばんの試験会場で使われ、
記憶の中では何年経ってもピリッとした緊張感に包まれている。

商工会館になる前の「文化会館」は、結婚式場も兼ねていた。
ここで式を挙げたという人を何人も聞いたことがある。
ぼくのような試験会場のイメージはなく、
華やかな記憶を留めている人は多いに違いない。

ちなみに、文化会館には“図書館”が入っていた。
羽生市立図書館の誕生である。
現在は単独の建物で建っているが、
複合施設の一室に入っていたことになる。

ただ、公民館の図書室のようなイメージかもしれない。
蔵書数もさほど多くはなく、
当時はどれほどの利用者がいたのだろう。

そんな文化会館は商工会館となり、
耐震の問題で跡かたもなくなった。
その跡地には住宅が建ち並び、かつての景色とは異なっている。
緊張しながらそろばんの試験を受けた記憶は、
どんどん遠ざかる一方だ。

昭和39年と言えば、東京オリンピックの開催が印象強いだろう。
映画にも、オリンピックに沸く人々の様子が描かれていたし、
戦争の荒廃から発展の一途を遂げる日本の象徴でもあった。

9月16日まで開催されている羽生市立郷土資料館の企画展Ⅰにも、
東京オリンピックのポスターなどが展示されている。
ぼくはまだ姿形もなかったが、
当時を知る人は懐かしくもあり、感傷も誘うようだ。
それほど日本人の心に影響を与えたに違いない。
かくして、日本人の底力とたくましさを世界に示しながら、
昭和30年代は暮れていくのだった。

昭和38年に羽生では何があった? ―子ども学芸員(88)―

2013年08月31日 | 子どもの部屋
昭和38年の主な出来事は以下のとおり。

3月、第三保育所が完成
5月、秩父宮妃殿下が母子健康センターをご視察。「りく橋」が完成
9月、市立学校給食センターが完成。

旧羽生駅舎の風景と共に、「りく橋」を思い出す人もいるだろう。
西口に自転車を停めたときは、
りく橋を渡って東口へ行ったものだ。

これは、人身事故に心を痛めた金子専一の妻“りく”の願いがあって架けられた橋だった。
りくの亡きあと、妻の想いを叶えるべく、
夫の専一は私財を投じて設置。
以来、人々の安全を守り続けた橋だった。

なお、専一は「妻に架ける橋」という詞を書いている。
現在も駅舎内で読めるが、
当時はりく橋の途中に掛っていたとぼんやり記憶している。
「妻に架けたるこの橋は永久(とこしえ)までも遺したい」と、
専一は亡き妻と橋に対する想いを綴っている。
しかし、平成16年の駅舎の改築と共に姿を消した。

姿を消したと言えば、羽生の旭町にあった映画館「電気館」も、
昭和38年に閉館した。
映画ファンも、そうでない人も、
電気館の灯が消えることに寂しさを覚えた人は少なくなかったに違いない。

ちなみに、この年は「OL」の名前が登場した。
女性の社会進出が進み、会社勤めをする人が増えたことから、
「office lady」を略しての命名だった。
電気洗濯機や掃除機などの電化製品によって、
家事の負担が軽減したことも、女性の社会進出を促したと言われる。

しかし、全員が社会に出たわけではない。
家事を専業とする女性も多くいた。
ただ、軽減した家事の影響によって、
彼女たちは「文化」や「講座」に目を向けるようになる。

また、自分の想いを子どもに託すべく、
「教育」に熱い視線を注ぐ人も現れ始めた。
いわゆる「教育ママ」の登場だ。
そのせいだろうか。
教育関係の雑誌が相次いで刊行され、教育ブームとなっている。

昭和37年に羽生では何があった? ―子ども学芸員(87)―

2013年08月24日 | 子どもの部屋
昭和37年に、新昭和橋が完成している。
昭和33年に着工して以来、4年の歳月をかけて完成した橋だった。

それ以前にも橋は架かっていたものの、
昭和22年のキャスリーン台風の影響によって一部損壊。
無理はない。
当時の昭和橋は木橋だったのだ。
昭和4年に完成した初代昭和橋は、
埼玉と群馬を陸続きにさせた風情ある橋だったが、
荒れ狂う利根川の牙にしばしば襲われ、損壊と修復を繰り返していた。

しかも、利根大堰がまだ存在していない時代のこと。
川はたっぷり水を含み、悠々と流れていた。
カエルが小便しただけで大水が出ると言われた川である。
利根川を渡る頑丈な橋は難工事であったと共に、人々の願いでもあったのだ。

そんな人々の期待を一身に背負った新昭和橋が昭和37年に完成。
産業面から見ても、2代目昭和橋の完成は意義深いものだった。

ちなみに、昭和橋の完成をはじめとして、
日本全国で大規模工事が着々と進み、
それを応援するかのごとく「リポビタンD」がこの年に発売される。
ボーリングやマイカーブームが到来し、
東京都の人口が1000万人を越えた。

また、当時のサラリーマンは「気楽な商売」として、
植木等演じる「無責任男」がブームを呼ぶ。
ゴジラがキングコングと戦ったのもこの年だった(「キングコングvsゴジラ」)。
ぼくはこのゴジラを見たことがあるのだが、
動きが活発で、ややもするとひょうきんな印象を受けたのを覚えている。

「無責任男」とまでは言わないが、
軽快で調子よかったかもしれない。
果たして、「無責任男」が現在の時代に送り込まれたら、
「気楽な稼業」と言えるだろうか?

“ちゃぶ台”はひっくり返すものではない? ―子ども学芸員(86)―

2013年08月20日 | 子どもの部屋
「ちゃぶ台」と言うと、
「巨人の星」に登場する星一徹を連想する人は多いかもしれない。
怒ってちゃぶ台をひっくり返すのは、彼の十八番(おはこ)である。

ちゃぶ台の上にご飯が乗っていれば、とんでもないことだ。
食べ物を粗末にするただのオヤジでしかない。
息子に野球を教える前に、
食事のありがたさを学ぶべきだろう。

だいたい、ひっくり返したあとは誰が片付けるのだろうか。
とても一徹本人とは思えない。
片付ける身にもなれば、とてもひっくり返せたものではない。

いや、星一徹のことを書きたくてこの稿を起こしたのではない。
彼がよくひっくり返す“ちゃぶ台”はいつからあるのか、ということだ。

実を言うと、ぼくは実家でちゃぶ台を使ったことがない。
見たこともない。
かつては使っていたのだろうが、
昭和50年代後半にはすでに見かけなくなっていたのだ。

ちゃぶ台の生産は、昭和30年代をピークにしたという。
現在、羽生市立郷土資料館で開催されている企画展Ⅰでも、
再現された「茶の間」と「お勝手」にちゃぶ台が置かれている。
大人用と子ども用があり、
丸い形をして4本の足が付いている。
この上にご飯を乗せ、家族がちゃぶ台を囲んで食事をしていた。

では、ちゃぶ台の登場前は何を使っていたのだろう。
それは“箱膳”と呼ばれるものだ。
一人分の食器が納められた箱で、
食事をするときはフタを裏返して、その上にお茶碗や小皿などを置く。
お膳と収納を兼ねていて、一般的にはこれを使っていた。

食べたら食べっぱなしではなく、きちんと箱にしまう。
箱膳は日本人の几帳面さを象徴しているかもしれない。

ただ、現在のように食べ終わったら必ず洗うということはしなかった。
最後に茶碗にお茶やお湯を入れて飲んだため、
それで食べかすを洗ったことになった。
晩に1度洗えばいい方だったという。
家事業としては楽でいいが、あまり衛生的とは言えない。

ぼくは、実家で箱膳も見たことがなかった。
物心ついたときはダイニングテーブルで、
茶碗やお椀は戸棚にしまわれていた。

もし、星一徹が箱膳をひっくり返すとする。
いまいち迫力がない。
自分の分の食事を失い痛い目にあうのは彼本人である。

ちゃぶ台がひっくり返す迫力は、
一つにあの上にいろいろなものが乗っている点があるだろう。
一度のひっくり返しで、全ての食事が台無しになってしまう。
それに、箱膳よりも大きい。

もし、一徹が全ての箱膳をひっくり返そうとしたら、
はしから一つ一つ手を付けなければならない。
その間、箱膳を持って逃げることも可能だ。
一徹としては大打撃である。

ちゃぶ台は、家族との共有意識を芽生えさせるものだった。
同じ釜の飯を食べるように、
同じ食器を使う間柄として結束するのだ。
星一徹がちゃぶ台をひっくり返すということは、
そうした共有感や結束を破壊することを意味している。

「サザエさん」を見よ。
ちゃぶ台をひっくり返すことなく、和やかに食事をしているではないか。
磯野家におけるちゃぶ台は、
家族の絆の強さを象徴している。

昭和36年に羽生では何があった? ―子ども学芸員(85)―

2013年08月17日 | 子どもの部屋
昭和36年当時、羽生市内で起きた主な出来事は以下のとおり。

 1月、初の市政懇話会を開催
 6月、集中豪雨によって市街地に出水
 12月、羽生~村君間にバス路線開通

6月の梅雨前線の発達による大雨は、
埼玉県内でも床上・床下浸水は6827戸に達した。
いまも大雨が降ると水がたまる場所は少なくない。
利根川と会の川沿いは、川が運んできた土砂の影響で土地が高くなっているが、
中心部は低地の傾向がある。

しかし、中心部でも高低差があり、
乱流した利根川の影響と言われている。
見た目にはその高低差はほとんどわからず、
ちょっとした雨でも何の影響もない。
ただ、大雨が降ると、すぐに水のたまる場所が出てくるのだ。

古老の話によると、一年中ジメジメした湿地帯の広がる場所があったという。
小さな沼があり、釣りができたのだとか……。
しかし、時代と共にアスファルトに覆われ、
羽生城の遺構とも言える湿地帯・沼も姿を消した。

羽生城の遺構は幕末に陣屋を構築する際に消滅したのだが、
自然要害はまだ残っていたのだろう。
ぼくが城に興味を持った頃、
地面を覆うアスファルトにため息が出たことは一度や二度ではない。
一方で、アスファルトは戦後この国が辿ってきた「発展」の象徴に見えた。

ちなみに、昭和36年11月に、長崎屋ショッピングセンターが川越に進出。
これを皮切りに、スーパーマーケットの進出が相次いだ。
「セルフサービス式」を特徴とするスーパーは、
昭和30年代に主立った企業も次々にこの方式を導入した。
昭和47年には、ダイエーが売上高トップにのし上がる。

羽生にも、年代ははっきりしないが、
初めてのスーパー「とりせん」が進出した。
当時を知る人は、「車の渋滞ができるほどの賑わいだった」と言う。

卵かけご飯はかなりの“ごちそう”だった? ―子ども学芸員(84)―

2013年08月14日 | 子どもの部屋
幼い頃、「卵焼きはごちそうだった」と、母親から聞いたことがある。
運動会のときくらいしか食べられなかったらしい。

田舎でニワトリを飼っていれば、
毎日卵が食べられるというそんな単純なものではない。
卵は貴重な現金収入としてお金に換え、
あるいは贈り物としたため、なかなか食べることができなかったという。

かつては、ハレの日(晴れの日)のごちそうがあった。
正月やお祭りなどの“年中行事”や、
結婚や帯祝いなど“人生儀礼”の日などに食べるごちそうで、
普段口にできないものが多かった。

いまでは意外に思うだろうが、“白米”はごちそうの一つだった。
現在のように白米が一般的に食べられるようになったのは昭和30年代からで、
それ以前は“大麦”が主食だったのだ。
米に麦を混ぜて炊く麦飯が主流で、
稗(ひえ)や粟(あわ)を合わせる地域もあった。

羽生市内では、田んぼよりも畑地の方が多い地域があり、
そこでは麦を混ぜて食べていたのだろう。
または、すいとんやうどんにして空腹を満たした。
小川にもうなぎがたくさんいたというくらいだから、
川魚は貴重なタンパク源だったに違いない。

ぼくが幼い頃に放送していた「日本昔ばなし」では、
「おらぁ、白いまんまが食いてぇだぁ」というセリフをよく聞いた気がする。
江戸時代とおぼしき登場人物たちが、
できることなら白いご飯が食べたいというニュアンスだ。

それは、滅多に白米が食べられなかったことを意味している。
すでに述べたが、何も混ざっていない白米を食べられるようになったのは、
高度経済成長期を迎える昭和30年代からで、
ずっと昔から「飽食」だったわけではない。

そんな白いご飯に、卵を落として食べる料理はなんてぜいたくなのだろう。
いまではシンプルで、粗食と思われるかもしれない。
あまりに簡単すぎて、
卵かけご飯をしばらく食べてないという人も少なくないと思う。

でも、昔の人にとってはごちそうこの上なかったのだ。
ハレの日でもあまり口にできなかったかもしれない。
逆に言えば、いまの時代はいかに毎日が「ごちそう」なのかがわかる。
昔の人が現在を見たとき、一番羨ましく思うのはそのことかもしれない。

ちなみに、ぼくはご飯の上に卵を割って、かき混ぜる派だ。
以前はかき混ぜてからご飯にかけていたが、
いつの間にか前者になっている。
噂に聞くと、卵かけご飯専用のしょうゆはかなりおいしいらしい。

シンプルな料理だから贅沢なものがある。
飽食の時代だからこそ、大切に味わっていただこう。

昭和35年に羽生では何があった? ―子ども学芸員(83)―

2013年08月10日 | 子どもの部屋
「もはや戦後ではない」日本で、
羽生市も着々と新しい時代を歩んでいた。

 1月、市営住宅第1期工事完成(小須賀)
 3月、東武鉄道の利根川新橋工事が完成
 10月、消防署を設置
 12月、羽生市上水道が完成

羽生地区で水道の一部が供用を開始しているが、
一気に水道水が普及したわけではなかった。
いまでは当たり前のように水道水を使っている。
アパートへ引っ越すときも、水道の手続きをしなければならない。

しかし、水道水が普及する前は、一般的に井戸水を使っていた。
羽生市内では、地面に竹筒をさすだけで、
筒の中から水があふれ出たという。
自然にこんこんと湧き出る「吹井」という井戸もあった。
(田山花袋の小説『田舎教師』にも登場する)

井戸水は、夏は冷たく冬は温かかったらしい。
だから、真冬の吹井では湯気が立っていたという話を聞いたことがある。
吹井はさほど珍しいものではなく、市内のあちこちにあったという。

そんな井戸水を、太平洋戦争前後から手押し式ポンプでくみ上げる方法が広まった。
幼い頃、母方の実家にはこの手押し式ポンプがまだ残っていたのを記憶している。
水は出なかったが、ガチャンガチャンと押して遊んだものだ。
その音から「ガッチャンポンプ」などとも呼ばれていたという。

そして、戦後になって水道水がだんだん広まっていくのだが、
「水を買う時代になったか」と嘆く人もいた。
そう、井戸水はいくら使っても無料だが、
水道水は料金が発生するのだ。
この変わり目は大きかっただろう。

しかし、蛇口をひねれば水が出る水道水は、家事の負担を軽減した。
また、衛生面でも改善したと言える。
井戸水は鉄分が多く、慣れていないとおなかを壊すという。
子どもの頃、井戸水を飲んではいけないと言われたものだ。
独特の匂いがしたのも覚えている。
井戸水に親しんだ人には、いまとなっては懐かしい匂いだろう。

現在は、水道水のみならず、ミネラルウォーターとか天然水とか、
さらにお金をかけて水を買う時代だ。
井戸水を使っていた人にとっては信じられないかもしれない。
それだけ健康について神経質になっていると言えるのだろうが、
発展による環境の変化も大きいだろう。

ちなみに、ぼくの実家にも井戸はあったはずだが、
物心ついた頃にはすでに水道水を使っていた。
だから、生家の井戸水はまだ一度も見たことがない。
井戸を埋めるとき、井戸神さまが息のできるようにと、
筒をさすのが一般的だ。
うちの井戸跡にも筒がささっている。
まだ一度も見たことがない井戸神さまが、
その下で息をしているのだろうか……?

昭和34年に羽生では何があった? ―子ども学芸員(82)―

2013年08月06日 | 子どもの部屋
昭和29年に「羽生市」が誕生した。
当時の人口は3万6564人。
埼玉県下16番目に出来た「市」だった。

昭和34年4月、千代田村を編入する。
千代田村は三田ヶ谷と村君が合併してできた村だった。
この千代田村を編入したことにより、
羽生市は人口4万4092人の市となる。
行政的に一つの大きな出来事だったと言える。

同じ年の3月には、市営し尿処理場が完成。
8月には母子健康センターが完成した。

母子健康センターは全国に先駆けてできたもので、
母子の健康を守り、死産や幼児の死亡を抑止することを目的としていた。
助産と指導の2部門に分かれていて、
前者では3つのベッドがあったという。

ちなみに、昭和34年は皇太子のご成婚に、
日本中がお祝いムードに包まれていた年だった。
なお、昭和39年に開催される夏期オリンピック開催地が東京に決定。
岩戸景気も始まり、「もはや戦後ではない」日本は世界に向けて躍進し始めていた。