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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

週刊誌が日本人に根付かせた“習慣”がある? ―子ども学芸員(81)―

2013年08月05日 | 子どもの部屋
かつて学校に通っていた十代の頃、月曜日が苦手だった。
恋している期間はともかく、
それ以外は重たい気持ちで朝を迎えていた。

しかし、あるものを手にしてから、
月曜日が少しだけ変わったことがある。
それは“週刊誌”。
週刊で発行されるマンガを読み始めたとき、
月曜日が少しだけ待ち遠しくなったのだ。
物語の続きが読める、と……。

かめはめ波、バスケ、霊丸などが出てくる世界にどっぷりはまり、
その物語展開に毎週心ときめかせていた。
学生が携帯電話など持っていなかった時代の話である。

いまでも書店やコンビニへ行けば、
ありとあらゆる週刊誌を見ることができる。
マンガもあれば情報誌、写真誌などなど目が回るほどだ。

日本における週刊誌の誕生は大正時代まで遡る。
週刊誌ブームが到来したのは昭和30年代だった。
新聞社系ではなく、出版社が相次いで週刊誌を発行し、
一気に花開いたのだ。

マンガ週刊誌『週刊少年マガジン』や
『週刊少年サンデー』が創刊したのは昭和34年。
これにより読者層がグンと広がる。
マンガ週刊誌の発行日を心待ちにする学生は、
昭和30年代に誕生したと言えようか。

実は、この週刊誌、
日本国民における「週」の生活リズムの定着に一役買うことになった。
そもそも、多神教である日本人は日曜日には教会へ行くなどと、
特に「週の習慣」を持っていなかったという。
土曜の午後と日曜日が、一般的に休日とされたのも明治9年からであり、
太平洋戦争中は、曜日に関係なく勤労が求められ、
週の習慣はなかなか根付かなかった。

しかし、勤勉な日本人にこの週の習慣をもたらしたのは、
週刊誌をはじめとするマスメディアの発達だった。
ラジオやテレビが普及すると、娯楽として放送番組を心待ちにするようになる。
楽しみにしている番組があれば、
自ずとその曜日を意識することになるだろう。

月曜日発行の週刊誌があれば、指折り数えて楽しみにする。
週は1週間で一巡りする。
いまでは当たり前のこのリズムが、
ラジオ、テレビ、週刊誌などによって広く根付いたのだ。
もちろん、マスメディアだけの力ではないが、その影響は大きかった。

いまも、テレビ番組で曜日を認識する人は多いと思う。
水曜日は「ドラゴンボール」、土曜日は「全員集合」という感覚は、
いまでも体に残っている。
幼い頃、世間は1週間単位で動いているということを初めて認識したのも、
サラリーマンだった両親が週末に家にいることと、
このテレビ番組だったかもしれない。

自宅にテレビがなく、平日休みで、定期的に読んでいる週刊誌もなければ、
週のリズムは不思議と崩れる。
その日が何曜日なのか、ふとわからなくなることが多いのだ。

好きな曜日はあるだろうか?
それはどんな理由だろう?
好きな番組や週刊誌があるから?
好きな人と会えるから?
いろいろな理由があると思う。

年齢を重ねたせいかもしれない。
十代の頃は1週間が10日くらい長く感じられたのに、
いまでは3日くらいの速さで巡っている感覚がする……

昭和33年に羽生では何があった? ―子ども学芸員(80)―

2013年08月01日 | 子どもの部屋
東京タワーが完成し、フラフープが大流行していた昭和33年、
羽生では中学校の統合が行われた。
羽生中、川俣中、岩瀬中の3中学が、羽生中学校に統合されたのだ。

羽生中学校は現在の西中学校であり、
昭和33年に統合された羽生中学校は、
生徒数1100人余りでスタートしたという。

ちなみに、この学校は「大道遺跡」という遺跡の上に建っている。
平成に入ってから発掘調査が実施され、
敷地から多くの土器が出土。
住居跡も検出され、市内最初の集落跡の調査だった。

いまの中学生にとって、昭和33年は遠い昔に感じられるだろう。
もしかすると、大道遺跡で生活をしていた縄文人より、
「昔」に思えるかもしれない。
縄文時代より、昭和33年の方がまだ時代の実感が湧くからだ。

この年に完成した東京タワーは健在だ。
それは、戦後の新しい時代を切り開く日本の象徴でもあった。
冬の空気の澄んだ日には、
羽生からでも東京タワーが見えるという。
この年、発売されたチキンラーメンを食べながら
東京タワーを望んだ人はいただろうか。

昭和32年の羽生では何があった? ―子ども学芸員(79)―

2013年07月29日 | 子どもの部屋
昭和32年は、羽生市内各小学校で動きが起こっている。

 3月、井泉小学校と新郷第二小学校の校舎が完成。
 8月、羽生小学校(現北小学校)のプールが完成。
 9月、新郷第二小学校の講堂が完成。

また、利根川でも大きな動きがあった。
4月に利根川の堤防を広げる工事が始まったのだ。

村君から新郷までの間の土手を広げる工事で、
それまで広がっていた利根川の景色は一変することになる。
移設された家も多くあり、
この工事は昭和40年まで続いた。

ちなみに、世の中ではアメリカンアイテムが流行しており、
コカコーラやロカビリーなどが世間を賑わせていた。
なお、100円硬貨と5000円札が発行され、
「戦後ではない日本」の新しい時代を喜ぶかのように、
“ホッピング”でピョンピョンはねる子どもたちの姿が多く見られた年だった。

※羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
現在、企画展Ⅰ「昭和30年代~50年代 記憶でたどるちょっとむかしのくらし」を開催中

昭和31年に羽生では何があった? ―子ども学芸員(78)―

2013年07月27日 | 子どもの部屋
「三種の神器」が急速に普及する昭和30年代初期、
「家庭電化」などという言葉も生まれた。

「三種の神器」とは何か?
白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機の三種である。
特に、電気洗濯機の登場は家事に革命をもたらすものであり、
「主婦」を家事から解放する役割を担った。

では、羽生では何が起こっていたのだろうか?
主な出来事は次の通りである。

3月、葛西用水路沿いに桜を植樹。
8月、大天白に市営運動場(テニスコート、弓道場)が完成。
10月、初の産業祭を開催。

羽生っ子にとって、なじみのある葛西用水路沿いの桜は、
昭和31年3月12日に植えられたものだ。
それ以前にも桜はあったのだが、戦中から戦後にかけて伐られてしまい、
昭和31年に改めて植え直したものだった。

大天白公園に、かつて市営運動場があったことがわかる。
いまはない。
昭和54年に生まれたぼくは、この市営運動場を見たことがない。
むかしから、ここは市民の憩いの場所だったのだろう。
現在は公園に整備され、春になると藤の花に彩られている。

10月には初の産業祭が開催されている。
昭和40年代羽生市産業祭の写真を見ると、
仮装行列が行われたり、駅前で踊り(盆踊り?)を踊ったりしていたようだ。

写真の仮装行列には、「羽生城主 大久保相模守」が映っている。
天正18年(1590)から慶長19年(1614)まで
羽生城主だった“大久保忠隣”に扮していたとはなかなか熱い。
戦国期の城主“広田直繁”や“木戸忠朝”はいなかったのだろうか。

上記した「三種の神器」の登場は、
その後の生活スタイルに大きな影響を与えていく。
その波はすぐに羽生にも届いただろう。
ただ、家電製品は高額だったため、
各家庭に行き渡るにはまだ数年の時間を要さなければならなかった。

普段と違う日は“ハレの日”? ―子ども学芸員(77)―

2013年07月22日 | 子どもの部屋
羽生市立郷土資料館で9月16日まで開催されている企画展Ⅰは、
大型ケースに“婚礼衣装”が展示されている。
普段のなんでもない日常があれば、
“ハレの日”(晴れの日)というものがあった。
結婚、出産、祭りなど、人生の儀式や年中行事など特別な日のことをハレの日という。

ハレの日は華やかな服を着て、ごちそうを食べる。
かしこまった日に着るものを「ハレ着(晴れ着)」というのはこのためだ。
現在各地で開催されている夏祭りもハレの日である。
普段は仕事をし、生産に努めるが、
ハレの日はみんなでお祝いをし、消費をする。

夏祭りへ行くと、普段とは全く別の光景が広がっている。
道路は歩行者天国になり、
神輿や山車が町を練り歩き、多くの人で賑わう。
かつては、普段口にできなかった白米や酒も、この日は飲食できたのである。

しかし、現在は飽食の時代であり、
ハレの日と日常生活が明確に区分されなくなりつつある。
普段からごちそうを食べ、あでやかな服を着て出掛ける。
それだけ社会が豊かになったと言えるかもしれない。

ただ、結婚だけは、いまでも日常生活と明確に区分されるものだと思う。
普段からドレスや色打ちかけを着て過ごす人はあまりいない。
披露宴で食べる食事も、
日常食とは異なるものだろう。
「非日常」の世界がそこには広がっている。

だから、結婚式の準備には骨が折れるに違いない。
会場選びから始まり、衣装や食事、花、ウェルカムボード、ウェディングケーキ、
音楽、写真、引出物など、決めることがあまりに多い。
たった1日の「非日常」を演出するために、
新郎新婦は頭を悩ませ、かつ楽しむのだ。

そこに集まる人たちも「晴れ着」を身に纏い、
普段と雰囲気も違う。
初めて結婚式に参列したときは、
知っている顔がやや遠くに感じられたものだ。
新鮮であったのと同時に、
人生儀礼を通過して変わっていくことの寂しさもあったのを覚えている。

結婚式・披露宴の非日常的演出は当分続くに違いない。
結婚はハレの日であり、
おめでたいこととはっきり認識するためでもあるのだろう。
郷土資料館に展示されている婚礼衣装もあでやかな着物であり、
対角線に設置された「お勝手」とは雰囲気が明らかに異なる。

ハレの日と日常生活。
結婚式はともかく両者の区分はだんだん薄れていて、
現在はその狭間にあるのかもしれない。

駄菓子屋には“魔物”と“冒険”が待っていた? ―子ども学芸員(76)―

2013年07月19日 | 子どもの部屋
企画展Ⅰ「昭和30年代~50年代 記憶でたどるちょっとむかしのくらし」に入ると、
最初に出迎えてくれるのは“なつかしいお菓子”である。
いわゆる“駄菓子”(だがし)というやつで、
色とりどりの子どもの「おやつ」が展示されている。

いまでは大型ショッピングモール内に見かける駄菓子屋さんだが、
かつては町のあちこちにお店が点在していた。
ぼくが生まれ育った地域にも、「駄菓子屋」と呼べる店は少なくとも2軒あって、
大きな枠ならばもっと増える。
幼心にそこは夢の国も同然だった。

駄菓子屋さんは、子どもにとって一つの社会だったと思う。
こずかいを使って自分の好きなものを買う。
あるいは、おまけを目当てにしたり、
カード系のコレクション収集に汗を流したりと、
「経済」を実際に体感する場所だった。

また、駄菓子屋へ行けば同級生や先輩がいる。
コレクションを交換したり、菓子を買って近所の神社の境内で一緒に食べたりと、
「社交」の場でもあったのだ。

「駄菓子屋」の名称は、明治時代の終わり頃に定着したという。
現在のスーパーの前身にあたるもので、
取り扱う商品はお菓子だけではなかった。
洗剤や日用品などの雑貨もあり、
ぼくがよく行っていた店には惣菜も売っていた。

駄菓子屋で特に印象深いのはゲーム類だ。
店先に並ぶのはガチャガチャ。
10円~100円のものまで、
幅広いガチャガチャが少年少女の心をくすぐっていた。

また、見逃せないのはゲーム機である。
駄菓子屋は異空間へ連れて行ってくれる場所だった。
店の奥にはゲームセンターさながらのゲーム機が置いてあり、
ぼくらの時代は「魔界村」に熱中した。

「魔界村」は難易度の高いゲームとして知られている。
ぼくなど1面をクリアするのがやっとだったが、
中にはやりこんでいる先輩がいて、
その華麗な魔界さばきをほれぼれしながら見ていたものである。

ファミコンのソフトで発売されるまでは、
近所に「魔界村」があるのは駄菓子屋だけだった。
だから、「魔界」入りするには、駄菓子屋に行かなければならなかった。
いわば、店は異空間の入り口であり、
50円を入れればゾンビや魔物のいる世界へ引き込まれる。

ぼくらは魔物にさらわれたお姫さまを助けに槍を持ち、
アーサーを操ってゾンビを倒しまくった。
すぐに出てくるレッドアリーマーに、
何度もやられはしたが……

そんな「魔界村」のほかに、
「マイティボンジャック」や「スーパーチャイニーズ」など、
数々の「冒険」がぼくらを待っていた。
駄菓子屋は、店内を彩る商品もさりながら、
そんな異世界へ連れて行ってくれる場所であり、
子どもにとって心ときめく非日常的な世界だったのを覚えている。

しかし、そんな駄菓子屋も時代と共に消えていった。
ぼくがよく行っていた店も1軒は閉店し、
もう1軒は別の商売を始めている。
ほかに近所にあったいろいろな店も姿を消した。

しかし、駄菓子屋で遊んだ子どもにとって、
店の風景はいまでも心の中にあるだろう。
店はなくても、あのときめきは生きている。
タイムトラベルで「駄菓子屋コース」があるとしたら、
きっと人気コースになるに違いない。

昭和30年に羽生では何があった? ―子ども学芸員(75)―

2013年07月17日 | 子どもの部屋
昭和30年は年明けからお祭りだった。
昭和29年に市制が施行され「羽生市」が誕生したのだ。

そのお祝いが、昭和30年1月14日~16日まで行われた。
各種演芸会などのイベントがあれば、市内一周駅伝競走や物産展が開かれたらしい。
その式典の様子を写した羽生駅前の写真を見ると、
確かにテンションが高い。
駅前には多くの人が集まり、「祝 市制施行庁舎竣工」の看板も建っている。

そう、新市庁舎がこのときに落成したのだ。
現在の市庁舎ではない。
いまの中央公民館のところに建っていた庁舎だ。

なお、“市章”も昭和30年に制定された。
4月には、初の市議会議員一般選挙っが実施されている。
まさしく、「羽生市」にとって新しい時代の幕開けだった。

ちなみに、羽生駅前の写真を見ると、和装と洋装の両方が見られる。
道路もアスファルトに舗装されておらず、
水たまりが残っている。
まだ新旧が混在していると言えよう。
しかし、これから始まる新しい“何か”に満ちている。

ファミコンは一つの時代を象徴する? ―子ども学芸員(74)―

2013年07月15日 | 子どもの部屋
7月14日から郷土資料館から始まった企画展Ⅰ。
題して「昭和30年代~50年代 記憶でたどるちょっとむかしのくらし」で、
その年代を物語る資料が展示されている。

“ちょっと”むかしというだけあって、
そこに展示されたものを見て懐かしく感じる人は多いと思う。
展示資料の中に「ファミコン」がある。
ファミリーコンピュータの略で、昭和58年に発売された。

ぼくにとって、「むかしの遊び」と言ったらファミコンである。
数々のゲームソフトと共に異世界へ冒険したものだ。

ところで、ぼくは「鍵っ子」だった。
両親は共働きであり、祖母は早くに亡くなった。
留守を守るぼくの遊び相手はファミコンだった。
「スーパーマリオ」から始まり、「ゲゲゲの鬼太郎」や「ドラゴンボール」など、
放課後の多くの時間をファミコンと過ごした。

ファミコンがもたらしたものは、一人でも長時間遊べるということだ。
それは、自分の好きなときに、
あるいは都合のいいときに遊べるということも意味している。

小学生の頃は、習いごとやら少年野球やらが詰まっていて、
思いのほか「多忙」だったと思う。
だから、習いごとのある日は友だちと遊べない。

そうなると、帰宅後に遊ぶのはファミコンだった。
一日何時間という規則は設けられていたが、
それさえ守れば自由に遊べる。
ファミコンは、時代のニーズにはまって爆発的にヒットした「おもちゃ」と言えよう。

一人でなくても大勢でも遊べるというのも大きな利点だ。
友だちの家で、自分の持ってないソフトをやりこんだり、
お互いにソフトの貸し借りもした。
対戦用ゲームでは白熱したものである。
外で遊ぶというより、屋内でファミコンをしていた時間の方が俄然多い。

ファミコンはすでに生産中止となったが、
ゲーム業界は活発だ。
ファミコン時代には考えられない映像技術とストーリーがあって、
その進歩は目覚ましい。
まるで一つの映画を観ているようだ。
ぼくはあえてゲーム機を持たないようにしているのだが、
もし手元にあったらやりこんでしまうこと間違いない。

ファミコンも登場から30年が経ち、
「資料」という部類に入ってきた。
それは一つの時代を象徴するものであり、
同時どれほどの「鍵っ子」たちの相手になっていただろう。
「遊び」の世界に革命をもたらし、
多くの仮想現実を生み出したファミコンは、
いまや一つの「物語」となって今後も語り継がれていくに違いない。

久喜の“公文書館”でかっこよくなる? ―子ども学芸員(73)―

2013年05月31日 | 子どもの部屋
久喜市公文書館は、埼玉県立久喜図書館の横にある。
平成5年に開館した施設だが、
「公文書館」と聞いてピンとこない人もいるかもしれない。
図書館に行っても、公文書館には足を運んだことがないという人もいるだろう。

ここは、「歴史資料として重要な市の公文書その他の記録を保存」する施設だ。
やや専門的なところだし、学術的な要素も強い。
こういう施設を使い倒せたらかっこいいと、個人的は思っている。

役所が作成する文書(ぶんしょ)類は、
数百年もすれば「古文書」(こもんじょ)となるわけで、
歴史を語る上で欠くことのできない「史料」となるかもしれない。
歴史家が使用する「古文書」も、
もともとは役人や権力者が発行した文書も多く含まれている。

「保存」という観点を持たないと、
なかなか文書を「史料」としては見ないものだ。
それが、のちに「歴史」を語る重要な史料になる可能性など、
思い付きもしない。

そんな“視点”を公文書館や文書館は教えてくれる。
そして実感する。
紙資料のよさとその温もりを。

文字の電子化が著しい世の中だが、
個人的には紙で読むのが好きだ。
本も紙で読みたいし、インクの色や紙の質、匂いなど楽しみたい。
公文書館や文書館は紙資料の重要性と共に、
そのぬくもりを教えてくれるのだ。

紙は生きているのだろう。
呼吸をしているに違いない。
紙はかさばるし、量が多くなればとんでもなく重いのだが、
それはまた愛嬌というものだ。

久喜市公文書館の開館は、月曜から金曜の午前9~午後5時まで。
土・日・祝日は休館になっている。
「公文書館利用案内」に、「他の自治体に先駆けて開館いたしました」とあるように、
市立公文書館はさほど多くはない。
さすが、かつて“幸魂教舎”や“遷善館”を持ち、
教育に力を入れていた町と言えようか。

この町で生まれ育った子どもたちが、
いずれ学芸員やアーキビストとして活躍するに違いない。
「学生時代は公文書館の所蔵資料を毎日読んでいた」という強者もいるだろうか。
無器用なぼくは、そんな公文書館を使い倒すかっこよさは持ち合わせていない。


久喜市公文書館(埼玉県久喜市)

利根川に帰ってきた1万5889匹の生き物とは? ―子ども学芸員(72)―

2013年01月13日 | 子どもの部屋
平成24年12月29日付の「埼玉新聞」によると、
利根川を遡上する鮭の数が2年連続で増加しているという。
平成24年の遡上数はなんと1万5889匹!
同氏は東日本大震災の影響も指摘しているが、
利根川が鮭にとって帰ってきやすい環境に戻りつつあるのかもしれない。

北埼玉は利根川なくして語れない。
太古の昔より利根川が流れていたわけではないが、
古くから人々の暮らしと密接に関わってきたことは確かである。

ぼくは幼い頃から利根川が好きだ。
アルバムを開くと、利根川の土手で両親と映っている写真が多い。
幼い頃に利根川で遊んだ記憶があるし、
中学生になった頃から、週末ごとに友だちと川へ遊びに出掛けていた。

「見慣れた」と言っても過言ではない利根川は、
新しい知識を得るたびにその姿を変えてきた。

最初の衝撃は、“会の川の締切”である。
かつて利根川は羽生領で二俣に分かれていて、
文禄3年(1594)にその一つである会の川を締めきったという。
それが利根川の瀬替えと呼ばれる第1期工事で、
歴史的意義の深いものだと知った衝撃はいまでもよく覚えている。

見慣れた川を初めて「歴史」の視点で見たとき、
その向こうに広がる豊壌の世界が飛び込んできたのだ。
それが郷土史との初めての出会いだったし、
利根川のみならず、住み慣れた町は革命が起こったみたいに変わった。

地元の地名は利根川と密接に絡んでいたり、
何気なく存在する坂道が、
実は川が運んできた土砂でできた内陸砂丘だったりと、
そんな新発見に目から落ちるのはウロコ。

上杉謙信が羽生城救援にやってきたのに、
雪解け水で増水した利根川に阻まれたり、
川の氾濫で埋まった古墳や、
沿岸にいくつも存在した河岸の存在など、
初めて知る郷土史の世界は楽しくて、深かった。

ぼくは元々歴史畑の人間ではない。
よく訊かれるのだが、幼い頃から歴史は嫌いではないという程度で、
得意科目だったわけではなかったということだ。

よくもなければ悪くもない。
義務でも強制でもなく、純粋な好奇心で郷土史の世界にはまりこんだのだ。
いわゆる定跡の感は薄い。
ぼくにしか捉えることのできない世界や解釈ができるのならば、
それは寧ろ最も望むところだと思っている。

利根川は、幼い頃から何も変わっていないように見える。
でも、郷土史を好きになってから、どんどんその姿を変えている。
いまもその変形は止まらない。

そうした世界と出会えたことと、導いてくれた人に感謝したい。
そして、川のごとくぼくを包み、指標を与えてくれた人に恩返しをしたいと思うのは、
利根川に帰ってくる鮭に似た心情だろうか……。


利根大堰に設けられた大堰自然の観察室(埼玉県行田市)
運が良ければ、遡上する鮭をはじめ野生の魚を見ることができる。


利根大堰(同上)


利根川を渡る東武伊勢崎線(同県羽生市)

年末年始は“埋もれた城”めぐり? ―子ども学芸員(71)―

2012年12月26日 | 子どもの部屋
子どもの頃から城が好きだったわけではない。
授業で教わる歴史の中で、戦国時代は比較的好きだったが、
城にはさほどの興味を覚えなかった。

「城」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
多くは、立派な石垣の上にそびえ立つ天守閣のイメージかもしれない。
美しく気高く、軍事施設というより美術工芸品。
指定文化財であり、観光名所。

ぼくもそんなイメージを持っていた。
正直、興味は覚えなかった。
それは権威の象徴であり、ときに見下している感があり、
別世界に思えたからかもしれない。

城に興味を持ち始めたのは、郷土史の世界を垣間見たときからだ。
「城」と言っても、観光名所から無名のものまで無数にあり、
中には埋もれた城があると知ったとき、途端に心の琴線に触れた。
別世界だったものが、急に身近に感じたのだ。

地元にも多くの城が存在することを知った。
そのときの衝動はいまでもよく覚えている。
何もないと思っていた場所に、突如城が出現したのだ。

知識は世界を変える。
価値観をも揺るがす。
知識による革命は実に刺激的であり、
生き方をも変えてしまった気がする。

とはいえ、城は天守閣のそびえ立つ建物ではなかった。
堀と曲輪で構成された砦のようなものだった。
絢爛豪華さはない。
すこぶる地味である。
地元の人でさえほとんど知られていないという無名ぶりだ。

「な~んだ」と、興味を失えばそこまでである。
でも、地味で無名だからこそ惹かれた。
宝の原石を感じたのは、直感でありぼくの性分でもあるだろう。

城巡りが始まったのはそのときからだ。
市史をはじめ、県教育委員会が調査した報告書を片手に自転車でめぐった。

これが思いのほか難しかった。
相手は無名であるがゆえに、ヒントが少ない。
本に城跡の写真は載っているものの、
いかんせん古く、田畑の写真が多いから読みとれる情報も少ない。

なおかつ、現地に案内板が建っているわけではない。
地元の城跡は発掘調査がされておらず、伝承の域を出ないものがほとんどである。
ゆえに、案内板が建つはずがなく、
本当にそこが「城」であったのかも疑わしい。

それでもかき立てられたのは、好奇心の何物でもないだろう。
自転車で片道一時間近くかかるところでも、
ハイテンションでペダルを漕いだ。
あのワクワク感はときめきに似ている。

写真と見比べ、時には道行く人に尋ね、
城跡を探し回った。
当時はデジタルカメラを持ち歩いておらず、
携帯電話に付いている異様に画素数の少ないカメラで撮影した。

城跡に着いても、そこが本当に現場なのかわからない。
自転車を下りて、周辺を歩き回った。
時にはパトカーに遭遇し、職務質問を受けたこともある。
城を探していると正直に話したら、逆に不審がられた。

突然の雷雨に襲われたこともある。
それでも城巡りが嫌になることは一度もなかった。

いまでこそ、名城と呼ばれる場所を含めて遠くの城へ行くようになったが、
自転車で地元の城跡を探し回ったときが一番楽しかった気がする。
年末年始にも自転車を走らせ、利根川の土手でひと休みしたとき、
開いた『羽生城』(冨田勝治著)の新世界感は忘れられない。
おそらくずっと忘れない。

すぐ身近なところでも城はある。
それは埋もれたものであり、多くの謎を秘めている。
興味がわかなければそれでいい。
ただ、そういうものが存在することだけは知っていてほしい。

逆に興味を覚えたら、その世界を垣間見てはどうだろうか。
何か新しい発見や、自分の価値観を揺るがすものが眠っている可能性がある。
実際に城跡に訪ねてみると、もっと身近に感じるだろう。
もっと知りたいと思うかもしれない。
もっと別の城を見たいという衝動に駆られるかもしれない。

冬休み、年末年始。
どう過ごそうがその人の自由である。
でも、せっかくだから、ときめくものに突っ走っていたい。
ぼくのように自転車を走らせてもいいし、
それとも親に連れていってもらってもいい。
新しい年と共に、そこには何かが始まる予感を秘めている。

ただし、城跡は民家や田畑になっているところが多いから、
訪れる際はきちんとマナーを守ろう。
もちろん、人さまに迷惑をかけてはいけない。
それに、交通にはくれぐれも気を付けよう。
迷惑はかけない、無理はしない、安全に城をめぐる。
そのとき、自分自身にしか見付けられない城と出会えるだろう。

利根川に架かる“昭和橋”はいつ誕生した? ―子ども学芸員(70)―

2012年11月28日 | 子どもの部屋
埼玉と群馬をつなぐ“昭和橋”が初めて架かったのは、昭和4年のことだった。
話が持ち上がったのは大正12年だったが、
その年に起こった関東大震災により頓挫してしまう。

しかし、再び話は進み、昭和3年に着工。
竣工したのは同4年10月であり、同年11月10日に開通式が行われた。
当時は木造の橋だった。
長さは574.5m、幅は4.5mだったという。

埼玉と群馬が陸続きになったから、
人の足で気軽に川を越えることができる。
そのため、新しく生まれた恋もあったかもしれない。
群馬の女の人に会いに、
埼玉の男子が一生懸命昭和橋を渡ったという話を古老から聞いたことがある。

そんな恋する男女の架け橋にもなった昭和橋だったが、
昭和10年9月に襲った嵐により、橋脚7脚が流失してしまうという被害を受けた。
木橋のため、どんな濁流にもものともしないわけにはいかなかった。

鉄橋に生まれ変わったのは、昭和37年5月のことである。
着工したのは同33年だったから、4年もの歳月がかかったことになる。
木橋のときとは要領が違う。
新しく完成した昭和橋は、焦土と化した敗戦国から
高度経済成長へと向かう日本の転換期を象徴していたかもしれない。

その後、平成18年に昭和橋は架け替えられた。
橋を象徴するアーチはなくなり、代わりに歩道が取り付けられた。
いずれ4車線道路になるらしく、現在も工事中だ。
昭和4年当時の橋とは比べものにならないくらいの強さだろう。

ただ、初代昭和橋が完成した当時、利根大堰は存在していなかった。
川幅もいまよりも広く、
水量も多かったのではないだろうか。
現在の昭和橋から利根川を眺めると、だいぶやつれているように見える。

四車線の昭和橋が完成するのはいつなのだろう。
その橋から眺める利根川は、どんなふうに目に映るだろうか。
昭和橋は歴史の節目を迎えている。

※最初の写真は昭和橋(埼玉県羽生市から撮影)

企画展「郷土羽生」を見て感じたことは? ―子ども学芸員(69)―

2012年11月15日 | 子どもの部屋
企画展Ⅰ「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」が10月28日に終了した。
羽生の歴史の流れがわかる内容であり、
いい展示だったと思う。
屋敷裏遺跡の出土遺物が展示されたことも大きな見所だった。

羽生から“土器”が出土するなど思ってもいなかった人もいたという。
また、城や本陣、通見社の存在を初めて知る人もいた。
地元に住んでいても、地域の歴史は意外にも知られていない。

ぼく自身、羽生に城があることを初めて知ったのは、
平成3年に郷土資料館で開催されていた「羽生城展」が初めてだった。
それまで、人から聞くことは一度もなかったのだ。
本陣や通見社もまたしかり。
その歴史の豊富さに驚いたのを覚えている。

「羽生なんか何もない」と、そう思っていた時期がある。
でも、それは大きな間違いだった。
さほど愛着があったわけではなかったが、
歴史を知って羽生が好きになった。
この町に対する誇りが生まれた。

誰もが歴史好きというわけではない。
歴史など暗記ものの学問だと鼻で笑い、受験勉強の呪縛が解けない人もいる。
ぼくが郷土史を好きになった頃、
「そんなの勉強してどうなるの?」と身近な人によく言われたものである。
受験や資格、就職に直結するわけではなく、
勉強が受け身でしかなかったその人には、
郷土史はリターンのないものだと思ったのだろう。

無関心な人は、いくつになっても興味がわかない。
それは悪いことではない。
全てのものに関心があるわけではなく、誰しも好き嫌いがあるからだ。

ただ、無関心であっても、情報として知っていることは大切だ。
歴史に興味がなくても、地元に古墳や城があったということだけでも知っていれば、
それが郷土に対する情報となる。
その情報をいつか誰かと共有することもあるだろうし、
郷土への誇りとして芽吹くかもしれない。
少なくとも、「地元には何もない」とは言わなくなるだろう。

博学連携の重要性が説かれ、
博物館・資料館と学校との繋がりは今後も大切になっていく。
小学生たちの展示見学や、出前授業による地域の歴史解説など、
よく見たり聞いたりする。
教科書に載っている情報だけはなく、
実は身近にもいろいろな歴史があることを知ることは、
学問に対する姿勢にも繋がっていくだろう。

企画展は終了したが、そこで歴史が途切れたわけではない。
現代にいるぼくらは、新たな歴史を刻む瞬間を生きている。
ぼくらの背後にはどんな時間が流れ、
いまを生きる時代はどの位置にいるのか?

歴史の流れはいまも続いている。
昔から続く伝統や文化はある。
それを知り、また受け継ぐ中で新しいものが創造されていく。
創造するのはいまを生きるぼくらにほかならない。

先の見えない時代からこそ、
郷土の歴史は未来考えるヒントを与えてくれる。
壁を打破し、新しい文化を創造する情報も含んでいる。
郷土に対する誇りが、国そのものを元気にする活力になるはずだ。

郷土の歴史を見たら、日本や世界の歴史にも目を向けてみよう。
地域のみが独自の道を歩んでいるわけではなく、
大きな流れと連動している。

点ではなく、面で捉えることが大切だ。
郷土のみ目を向けていればそれでいいとわけではない。
その世界は思いのほか広くて深い。
生涯をかけても、「終わり」と思えることはないのだろう。

企画展や拙ブログは、その世界の入り口までしか案内することしかできない。
そこから先に進むのはキミ次第である。
もし興味を持って先へ進んだのなら、
どんな形になってもいつかまた会えることを楽しみにしている。

羽生のムジナもんは全国に羽ばたいている? ―子ども学芸員(68)―

2012年11月13日 | 子どもの部屋
羽生に“ムジナもん”が誕生したのは平成15年のことだ。
平成13年に発足した羽生市若手職員たちの「グッズ研究会」によって誕生し、
同15年の広報誌に初めて登場することとなった。

元々は、羽生市ならではのグッズを作るのが目的だった。
羽生に残る文化や歴史、産業などあらゆるキーワードを洗い出し、
何度も試行錯誤を重ねた結果ムジナもんの誕生につながった。

ムジナもんは、伝説の妖怪「むじな」と、
羽生に自生する食虫植物ムジナモを組み合わせたものである。
頭に乗っている葉っぱは“モロヘイヤ”。
シッポは“ムジナモ”になっている。

ムジナもんに合わせて、“いがまんちゃん”も登場。
これは埼玉北東部に古くからある“いがまんじゅう”に由来している。
そのほか、“フナどん”や“いたっち”、“ザリガニ博士”や“イナゴージャス”、
“しらさぎ婦人”など、ムジナもんの仲間たちが誕生する。

ちなみに、ムジナもんの初期の原画を見ると、
いま我々が目にするものとは大きく違っていた。
もっと妖怪ぽくて、「かわいさ」とは別のイメージがあったようだ。

口のあるムジナもんも候補として挙がったが、
現在のムジナもんに落ち着いた。
口のあるもう一つのムジナもんは、熱気球にプリントされているので、
イベントで見ることができるだろう。

このムジナもんの誕生を皮切りにして、
キャラクターにちなんだグッズが次々に登場する。
携帯ストラップやポストカード、
ボールペンやシール、バッジ、ミニぬいぐるみ、歯ブラシなど、
かわいいグッズたちが我々の前に姿を現した。
いまでも新グッズが考案され、発表が続いている。

そんな小さな羽生のキャラクターたちは、
いつしか多くの人に愛される存在になっていった。
平成19年には、市民の寄付金によって、
ムジナもんといがまんちゃんの“着ぐるみ”が完成したのである。

翌年にはムジナもん体操が完成し、運動会やイベントで使われるようになった。
最近では“ツイッター”を開始し、
ムジナもんたちの呟きを聞くことができる。
ムジナもんの“四コマ漫画”も幅広い年齢層から投稿され、
広報誌や埼玉新聞に掲載中だ。

そして、何といっても大きなイベントは“ゆるキャラさみっとinはにゅう”だろう。
平成22年に第1回が開催され、
大きな話題を呼んだことはまだ記憶に新しい。
平成23年の第2回では、185キャラが集まり、
会場は135,000人もの人出でにぎわっている。

今年開催される第3回ゆるキャラさみっとinはにゅうは、
260以上ものキャラが集まる予定だ(11月24、25日)。
ゆるキャラは、子どもからお年寄りまで楽しむことができる。
ゆるキャラに萌えている若者も多い。
これは一つの文化であり、歴史の一ページに残ることだろう。

ゆるキャラの存在に、失笑する人もいる。
しかし、ムジナもんやいがまんちゃんたちが、
羽生の名前を日本全国に広めていることは確かだ。
第1回のさみっとより、羽生市の名はより広まっただろう。

八百万(やおよろず)の神がいるように、
日本はキャラクターが好きな民族だ。
キャラクターを愛する気持ちは世代を越えて変わらないに違いない。
もし新しく羽生市史を編纂するとしたら、
ムジナもんの誕生やゆるキャラさみっとの開催は、歴史の一ページに加わるはずだ。

「羽生」の地名の由来は、
ハニワの原料となる赤土が多くあることに由来している。
これからの羽生は、ムジナもんたちの活躍や“生”まれる新しい文化によって、
日本のみならず世界に“羽”ばたいていくだろう。

戦後、羽生はどんな発展の道をたどった? ―子ども学芸員(67)―

2012年11月10日 | 子どもの部屋
「羽生市」になったのは、昭和29年のことだ。
それまでは岩瀬村や三田ヶ村と、村単位の行政だったが、
1町6村が合併して“市”となった。
埼玉県下では16番目の市制施行だった。

昭和29年当時の人口は3万6564人。
世帯数は6604戸だった。
翌年には、羽生市の市章が制定される。

昭和34年には千代田村を編入し、
羽生市の人口は4万4092人となっている。
全国に先駆けて“母子健康センター”が設立されたのは翌年のことだった。

日本全体が高度経済成長期を迎え、戦後から目覚ましい復興を遂げる時期である。
青縞の縫製技術は被服につながり、
羽生は“衣料の町”として発展していくことになる。
羽生の町中を歩くと、どこからともなくミシンの音が聞こえたという。
衣料バブルで町は賑わい、お得意さまを接待する店も多くあった。

高度経済成長期とともに、公共施設も次々に建てられていった。
昭和34年、市営し尿処理場が完成し、
同38年には、市立学校給食センターが完成。
いまの子どもたちは知らないかもしれないが、
羽生駅をまたぐ橋「りく橋」が設置されたのも昭和38年のことだった。

昭和40年には、ごみ焼却場が完成。
同47年には中央公園がオープンし、同49年に国道122号羽生バイパスが開通した。
なお、市役所庁舎は現在の中央公民館にあったのだが、
昭和49年に新しく建てられ、現在に至っている。

昭和52年に三田ヶ谷の農村センターが完成し、
同56年には羽生水郷公園がオープン。
その隣にある水族館のオープンは同58年のことである。

昭和61年に図書館・郷土資料館がオープン。
平成5年に新消防庁舎が完成している。
市民プラザがオープンしたのは平成11年であり、
羽生のキャラクター“ムジナもん”が誕生したのは平成15年のことだった。