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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

昭和55年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年10月31日 | 子どもの部屋
昭和55年に羽生で起こった主な出来事は以下のとおり

 3月 統合中学校の南中学校が完成
 5月 第2次大沼工業団地への進出企業が決定
 10月 県民体育大会第2部羽生大会開催

羽生市立南中学校は中岩瀬にある。
この中学校は昭和55年に誕生した。
大雨が降ると正門付近は水没するが、
総じて環境のいい学校である。

西を向くと羽生第一高校が見え、
東には羽生高校が望める。
南中は、3つ並んだ学校のちょうど真ん中と言えよう。

厳密に言えば、さらに西には純真短期大学が位置しているし、
北東には南小学校がある。
「3つ並んだ学校の真ん中」とは言えないかもしれない。

つい先日、南中学校の生徒に会った。
聞けば平成二桁生まれ。
ぼくが中学生の頃はバブルがはじけて間もなかったが、
彼らの目にいまの時代はどのように映っているのだろう。

ちなみに、昭和55年はルービックキューブが人気を博し、
富士通が日本語電子タイプライターを発売した年。
ぼくはこの年に1歳となり、
その半年後から記憶がある(ような気がする)。
突然現れたおじさんが母方の祖父だとわからず、
大泣きした覚えがあるし、そのときの写真も残っているのだが、
のちに作られた記憶なのか定かではない。

昭和54年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年10月24日 | 子どもの部屋
昭和54年に羽生で起こった主な出来事は以下のとおり。

 4月、保健センターが完成
 5月、小松地内で埋没古墳を発掘
 10月、羽生市体育館が完成
 11月、市制25周年で市民憲章などを制定

市の花が“フジ”、市の木が“モクセイ”と定まったのも昭和54年のことだった。
“市民の歌”や“新羽生音頭”が発表されたのもこの年。
25年を人間の年に当てはめると、30歳をそろそろ意識する頃だと思う。
市としてもまだ若々しいが、成熟へ向かっていく頃と言えようか。

小松の古墳は、水道管工事で偶然見つかった。
古墳全体が埋没していて、
そこに古墳があることなど忘れ去られていたのだ。
古墳が完全に埋没してしまう事例は珍しい。
その発掘調査が実施されたのが昭和54年のことで、
いまだ1基の古墳しか発見されていない。

ちなみに、私事だが、ぼくが生まれたのもこの年。
元旦が出産予定日だったが、
2週間以上も送れて誕生した。
のんびりした性格は胎児の頃からだったらしい。
昭和54年にサミットが開催される。
それにちなんで、ぼくは母の会社の同僚から「クニット」と呼ばれていた。

あとにも先にも「クニット」と呼ぶのは母の同僚だけである。
そんな母も定年退職をし、
おそらく同僚たちも会社にはいない。
同僚の子どもたちと一緒にディズニーランドへ行ったこともあったが、
もうみんな大人のだろう。
昭和54年はどんどん遠くなる。
否応なしに歳月は流れている。

昭和53年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年10月21日 | 子どもの部屋
 2月 羽生市交通安全母の会が設立される
 3月 市営住宅の宮田団地が完成
 4月 村君公民館が完成
    三田ヶ谷小学校校舎が完成
    葛西用水路堤遊歩道が完成
 11月 川俣公民館が完成

昭和53年というと、ぼくの同級生が生まれた年でもある。
この年も、公共施設の完成が目立つ。
必要とされて設置されたものであり、
以後多くの市民に利用されていくことになる。

ちなみに、この年に稲荷山古墳から出土した鉄剣から、
115文字の金錯銘が発見されている。
鉄剣はその10年前に出土したのだが、
そこに刻された銘を確認するには、赤外線を当てなければならなかったのだ。

なお、池袋では「サンシャイン60」がオープン。
当時は日本初の超高層ビルだった。
職人である母方の祖父は、このサンシャインの建築に携わったらしい。
そう幼い頃に聞いたことがある。

「あのビルはおじいちゃんが作ったんだよ」と、教えられたものだ。
ビル建設に携わった人の家族は、
子どもや孫にそう伝えていたかもしれない。

祖父は羽生から現場まで通っていたらしい。
まだ電車の本数もいまほど多くはなく、
ラッシュ時の混雑は凄まじかったのだとか……

東京と羽生。
電車でおよそ1時間半の距離である。
羽生には田園風景が残っていたのだろう。
羽生も建設ラッシュで景観が変わりつつあったとはいえ、
牧歌的な田園風景に祖父の心は癒されていたかもしれない。

昭和52年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年08月30日 | 子どもの部屋
昭和52年の羽生の主な出来事は以下の通り。

 2月、ムジナモの自生地「宝蔵寺沼」の底ざらいを実施
 3月、葛西用水路に架かる「あずま橋」が完成
 4月、羽生南小学校が開校
 7月、斎場、農村センターが完成

南小学校は羽生市南6丁目にある。
裏に宮田落としが流れ、周囲は住宅街となっている。
何かと賑やかな場所だが、かつては田畑が広がっていたらしい。
冬には富士山が望めたというのだから、
何もなかったのだろう。

「みなみちゃん」なるマスコットキャラクターも登場し、
その着ぐるみが募金で完成しているのは、時代を象徴しているかもしれない。
中学校にあがると、南小出身の同級生がたくさんいて、
一緒に校内へ遊びに行ったことも何度かある。
学校の近くには駄菓子屋さんがあって、
その同級生たちと買い食いをもした。

学校横の公園で遊んでいたら、
5、6台倒れているぼくらの自転車を不審に思って、
警官が職務質問をしてきたこともあった。
いま思えば人生初の職質だったと思う。
町の治安は守られている。
そこに学校があるから、地域の人たちも温かく見守っている。
一面の田園風景だった頃にはない空気に包まれているのだろう。

葛西用水路に架かる「あずま橋」は歩行者専用だ。
車は通ることができない。
場所は“旭橋”と“城橋”の間。
葛西用水路沿いの桜並木がちょうど途切れるところである。

何度この橋を渡ったかわからない。
用水路の土手で橋の両方が坂道になっているから、
ちょっと勢いをつけなければならない。
現在も多くの人たちに使われている橋だろう。

ちなみに、あずま橋の周辺も住宅街になっている。
この橋から北東の方角に羽生城が存在した。
郷土史家の冨田勝治氏は言う。
この橋の辺りが、本城と外曲輪を結ぶ連絡口だったのではないか、と。

葛西用水路の掘削は万治3年(1660)のこと。
羽生城があった時代には存在していないから、
もちろんあずま橋の「あ」の字もない。
住宅街も葛西用水路もなく、堀と曲輪で構成された羽生城があった時代は、
いまとは全く別の景観が広がっていたに違いない。

昭和51年には羽生で何があった?―子ども学芸員―

2014年08月26日 | 子どもの部屋
昭和51年の羽生の主な出来事は以下の通り。

 3月、新田土地区画整理事業完了
 4月、埼玉県立羽生第一高等学校が開校

羽生第一高校は羽生市下岩瀬にある。
近くを国道122号線が通り、
南一帯には小松工業団地が広がっているが、
開校当時は田んぼの中に突如校舎が現れたような景観だった。

入学式当時はまだ体育館ができておらず、
羽生北小学校で式が執り行われた。
当時教員を務めていたT先生によると、
その入学式は校歌にあるとおり、
まさに「求めて強き風に立ち 築く未来の朝を呼ぶ」だったと語る。

ちなみに、校歌の制定は昭和52年のこと。
作詞は羽生出身の詩人“宮澤章二”が手がけている。
T先生は多くの学校に赴任したが、
羽生第一高校の入学式が最も印象深く記憶に残っているという。

それは第一期生の生徒たちも同様かもしれない。
先輩もいない学校で初めての生徒になるというのは、
どのような気分だったのだろう。
不安もあるが、自分たちで学校を作り上げていくという感覚だろうか。
第一期生になるには、その年にちょうど開校しなければならず、
1年でもずれたら叶わないわけだから、貴重な体験と言える。

ちなみに、昭和51年には秋本治氏の「こち亀」の連載が開始。
また、「徹子の部屋」も放送が開始されている。
「日清焼そばU.F.O.」や「白い恋人」、
「どん兵衛きつねうどん」や「チップスター」が発売されたのもこの年だ。
いわば、広義の意味で羽生第一高校と同級生と言える。
羽一の人なら親近感がわくかもしれない。

昭和50年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年08月15日 | 子どもの部屋
 3月、城沼下水路工事完了
 4月、公共下水道事業に着手
 6月、日本精工羽生工場が操業開始
 11月、あだたら高原の「市立少年自然の家」が完成。

かつて羽生っ子が親しんでいた“あだたら高原少年自然の家”は、
昭和50年に完成されたものだった。
羽生っ子のぼくは小学生時代に林間学校で、
中学生のときにはスキー学校で利用した。

布団のたたみ方説明書のあった二段ベッドや、決して広くはない浴室、
カレーを食べた食堂など、もはや全てが懐かしい。
少年自然の家は山の中に建っていて、
肝試しは暗い林を通ってゴールまで行くというものだった。
小学生の間で囁かれる七不思議的なホラー話を聞いた気もするが、
何かを見たとか体験したなどということは結局耳にしなかった。

都合3回しか利用しなかった少年自然の家だが、思い入れは強い。
きっと、この家を利用した多くの羽生っ子も同じだろう。

長く親しまれてきた少年自然の家だったが、現在はない。
数年前、あだたら高原少年自然の家にかかる展示を羽生市立郷土資料館で開催した。
展示室内に設置されたメッセージボードには、
たくさんの感謝と熱い想いが書き記されており、
いまでも多くの羽生っ子の心の中には、少年自然の家が生きているのだろう。

余談だが、ツレがコンビニでウノを買ってきた。
10年以上ぶりにウノをやったのだが、
あだたら高原少年自然の家のことがふと思い浮かぶ。
林間学校とスキー学校で同級生たちと盛り上がったからだろう。
罰ゲームにくらったシッペの音とともに、
あだたら高原少年自然の家がかすんでいた。

昭和49年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年08月10日 | 子どもの部屋
昭和49年の羽生市内の主な出来事は以下のとおり。

 1月、国道122号線羽生バイパス全面開通
 4月、市消防庁舎完成
 11月、新市庁舎完成

昭和49年以前、国道122号線は羽生の町中を通っていた。
現在のプラザ通りを含む道路がそれだ。
あの道が国道でトラックがひっきりなしに走っていたのだから、
自ずと渋滞になっていたことは言うまでもない。
歩行者すれすれに車が通っていたという。

この年は、羽生市役所の新庁舎が完成している。
現在の場所に建つ庁舎だが、これ以前は中央2丁目にあった。
現在の中央公民館である。
羽生城下町の方にあったということだ。

昭和54年生まれのぼくは旧庁舎を見たことがない。
聞いた話によると、駐車場が少なくて混雑することもあったそうだ。
古写真を見ても、庁舎の周囲には住宅が密集している。
車も何台も置けなかっただろう。
昭和49年に新庁舎が完成し、現在に至っている。

ちなみに、新庁舎は白い建物だったが、耐震工事により茶色く変身した。
これも歴史の1ページだろう。
帰省した友人は新庁舎を見て驚いたらしい。
「チョコケーキみたいになってる!」と、その衝撃をメールで送っていた。

昭和48年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年08月04日 | 子どもの部屋
 4月、市立准看護学校が完成
 5月、第六保育所が開所
 8月、市民プールがオープン

いまの子どもたちは、「市民プール」と言ってもピンとこないと思う。
かつて羽生市内にも市民プールが存在した。
ぼくが初めて行ったのは小学生のとき。
炎天下の中で食べるカップラーメンが妙に美味しかったのを覚えている。

最後に市民プールへ行ったのは中学生のときだ。
それからしばらくして閉鎖となり、現在は「プール」の「プ」の字もない。
広場になっていて、かつてそこで泳いだことが嘘のようだ。

大人になった羽生っ子で、市民プール跡を通り過ぎると、
郷愁に駆られる人も少なくないと思う。
そこで遊んだ記憶が甦ってくるだろう。
長く会っていない人の顔も思い浮かんでくるかもしれない。
いまはただの広場でしかない市民プール跡だが、
たくさんの思い出が眠っている。

昭和47年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年07月29日 | 子どもの部屋
昭和47年に羽生で起こった主な出来事は以下の通り。

 3月、第二浄水場が完成。市営住宅旭町団地完成
 6月、羽生中央公園がオープン
 11月、東北縦貫自動車道 岩槻~宇都宮間が開通

ぼくの感覚では、
羽生中央公園が昭和40年代後半のオープンというのは意外な気がする。
50年代に入ってからのオープンの感覚でいたからだ。

小学生の頃は、陸上競技会や少年野球で中央公園へ行ったのを覚えている。
中学生になると卓球場が主な活動場所で、
高校生では試合のときだけ足を運んだ。
かつて、公園の目の前にバッティングセンターとゲームセンターがあって、
同級生がホームランをぶっ放していた。

ちなみに、昭和47年は上野動物公園でパンダが初公開となった年。
奈良県明日香村の高松塚古墳で壁画が発見され、
埼玉県では県立浦和図書館の1日図書館車が走り始めていた。
なお、埼玉医科大学が開校し、
旧北川辺町と旧大利根町を結ぶ埼玉大橋が開通している。

羽生の夏祭り前にカブトムシは取れない? ―子ども学芸員―

2014年07月18日 | 子どもの部屋
長い間、羽生の夏祭り前にカブトムシやクワガタは取れないと思っていた。
小学生の頃、里山に入って虫取りをするのが夏の恒例の遊びだったが、
その開始時期は決まって夏祭りが終わったあとだった。

というのも、里山に行っても一匹も見付けられなかったからだ。
夏祭りへ行くと、カブトムシを売っている露天商があって、
「あ、ほかのところにはもういるんだ」と思っていたものだ。

ところが、35歳の今夏、羽生市内にあるクヌギを見に行くと、
なんとカブトムシがいるではないか!
クワガタもいる!
カナブンもいるし、名前も知らない蝶も飛んでる!

思わず興奮したことは言うまでもない。
長年の持論が崩壊した瞬間でもあった。
ぼくが少年だった頃と環境が変わったのか、
それとも元から夏祭り前から活動していたのかは定かではないが、
今年もカブトムシやクワガタと出会えたことは嬉しい。

捕まえることなく、そのままそっとクヌギから離れる。
樹木がどんどん伐採され、
虫たちにとっては住みにくい環境なのかもしれない。
だから、カブトムシを見付けても、取ることに抵抗感を覚えるようになった。
容赦なく捕まえていた少年時代の自分が羨ましい。

ところで、ぼくらが少年だった頃、
劇場版の「ドラえもん」は環境問題をテーマとするものが多かった。
そのせいか、里山や屋敷林の消滅に心を痛めていたものだ。
だから、いまの子どもたちも虫取りを楽しみながら、
自然環境について考えるきっかけになってほしいと思う。

発展することが悪いということではない。
かと言って、自然を無視した開発は必ずしっぺ返しがやってくる。
自然とどう付き合っていけばいいのか、
考えながら行動に移していくのが大切なのだろう。

すぐに結論を出せる問題ではない。
考え続けなければならない。
果たして、未来の環境はカブトムシたちにとって住みやすくなっているだろうか?
つぶらな瞳をしているカブトムシやクワガタたちは、
いまを生きるぼくらに何を訴えかけてくるだろうか?

食事作法にも“ジンクス”がある? ―子ども学芸員―

2014年07月10日 | 子どもの部屋
2013年の夏、羽生市立郷土資料館では、
企画展Ⅰ「昭和30年代~50年代 記憶でたどるちょっとむかしのくらし」を開催した。
「茶の間」や「お勝手」が再現され、
見る人によっては懐かしかっただろう。

ちゃぶ台が置かれており、
かつてはここに食事を乗せて囲んで食べていた。
家の主人や年長者が上座に座り、
台所に近い末座にはお嫁さんが位置づけられた。
飲み会でも、あれこれとり仕切る幹事も末座である。

時代が変わっても、食事の作法は不変だろう。
食事のときほど、行儀のよさが出ると思う。

むかしから、箸から箸へ物を渡してはいけないとされる。
幼い頃、妹とこれをやろうとして、母親に注意されたのを覚えている。
口を開けて食べてはいけない、
くちゃくちゃ音を立ててはいけない、
迷い箸はいけない、
犬食いはいけないなどと、いろいろと教えられたものだ。

一般的に、食事にまつわるジンクスもある。
茶碗を箸で叩き、チンチン音を鳴らすと、
「乞食になる」「死人が出る」と言われている。

ジンクスの真偽はともかく、ぼくはこの行為が嫌いだ。
マンガなどでこの行為を見ることがあるが、
絵とはいえあまりいい気持ちがしない。
ちなみに、茶碗を箸で鳴らしている人をリアルに見たことはない。
かつては流行っていたのだろうか。

箸の持ち方にもジンクスがある。
上の方を持つと遠いところへ嫁に行く。
中ほどはちょうどいいところで、
下の方だとご近所へ嫁ぐと言われていた。
また、食事中に何度も席替えをすると、お嫁に行けないのだとか……。

食べ終わったあとにすぐに横になると、牛になるとも言われた。
これは『火垂るの墓』で「節子」も言っていたから、
母親がよく口にしていたのだろう。

食事は行儀良くいただきたいものだ。
「作法」となると、奥深くていろいろと決まり事があるが、
極端に美しくなくてもいいと思う。
少なくとも相手を不快にさせない食事をしたい。

昭和46年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年06月22日 | 子どもの部屋
 4月、埼玉県立不動岡女子高校(誠和福祉高等学校)が開校
 8月、大沼工業団地の造成完了
 9月、市総合振興計画基本構想が議会で可決

この年、飲食業界に大きな事件が起こった。
7月、いまではすっかりおなじみのマクドナルドが日本に上陸したのである。
銀座の百貨店に第1号店がオープン。
歩きながら食べたり、外に設置されたテーブル席で飲食するなど、
それまでと違う食スタイルに、
ショックを受けた日本人は大きかっただろう。

ミスタードーナッツ1号店も昭和46年にオープン。
インスタント食品「カップヌードル」も、この年の登場だった。
生活スタイルが多様化し、多忙な人が増える中、
気軽に簡単に食べられるこれらの食品が受けたのだろう。

かつて羽生には、駅前にマクドナルドがあった。
ぼくが「マック」を知ったのは、その駅前の店だったと思う。
十代と重なったため、利用率も高かったのを覚えている。
そこでバイトをする同級生もいたし、
その子から買った月見バーガーがおいしかったのも、
いまとなっては懐かしい記憶である。

昭和46年、ファッション誌「non-no」が創刊された。
この雑誌で紹介されるカジュアルのジーンズやアーミールックなどが、
社会に広く浸透する。
ジーンズをはいて町へ出かけ、
歩きながらハンバーガーを食べたり、
プラスチックのフォークで「カップヌードル」をすする。

「いまどきの若者は……」と言う当時の高齢者は多かったかもしれない。
いつの時代も若者と高齢者の価値観は相違するが、
その差は広がるばかりだっただろう。
日本人のスタイルがどんどん変わっていった時代だった。

昭和45年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年05月25日 | 子どもの部屋
 5月、埼玉県羽生勤労婦人ホームが完成。市立養護老人ホーム「清和園」が完成
 6月、市観光協会が発足
 10月、国勢調査で羽生市の人口は4万5001人となる

日本万国博覧会が開幕したのは、昭和45年3月14日のことだ。
大阪で開幕されたこの万博には、6400万人以上もの人が殺到したという。
岡本太郎作の「太陽の塔」は、この万博を象徴するものだ。
まだこの年に生まれてなかったぼくらも、
太陽の塔を見ると万博のお祭り騒ぎを体感できる気がする。

ところで、明治時代に日本での万博開催を主張した“清水卯三郎”がいる。
羽生出身の商人だが、パリの万博で近代文明を目の当たりにした卯三郎は、
日本が外国に並ぶためには国民が多くの文化に触れなくてはいけないとし、
万博開幕の建白書を政府に提出したのだった。
しかし、この願いが叶うことはなく、ボツとなった。
卯三郎は明治43年に他界したが、昭和45年の万博を目の当たりにしたら、
どんな気持ちになっただろう…。

昭和44年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2013年10月15日 | 子どもの部屋
 2月、フィリピンのバギオ市と姉妹都市調印
 4月、新入学児童にヘルメットがプレゼントされる
 11月、東北縦貫自動車道の起工式挙行。市制15周年記念式典を行う

産業の発達は、「交通戦争」という新たな問題を引き起こした。
経済発展とは裏腹に、交通死亡事故は増加の一途をたどっていた。
そんな激増する交通事故に対処するため、
羽生市と交通安全協会が新入学児童684人にヘルメットを配布する。
埼玉県内初めての試みだったという。

羽生市とバギオ市が姉妹都市となったのは、昭和44年2月のこと。
海を越えての交流が始まった。
同じ年の10月には3人の留学生が羽生を訪れ、交流を深めている。

そんな中、人類は地球の外へ飛び出す。
アメリカの宇宙船アポロ11号が月面着陸をしたのは、昭和44年7月のことだった。
その真偽をめぐる説が多数浮上しているが、
人類が初めて月に立った年として記憶されている。

ちなみに、この年に「男はつらいよ」シリーズが始まる。
経済成長が著しい中、人々の生活スタイルも変わっていったが、
寅さんのような生き方に憧れる人も多かったのだろう。
ほかにヒットしたものとしては「ボンカレー」、「黒ネコのタンゴ」などがある。

昭和43年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2013年09月29日 | 子どもの部屋
 3月、埼玉用水路完成。第5保育所が完成
 8月、岩瀬小と村君小にプールが完成
 9月、消防本部が救急業務を開始

利根川と並行するように流れる埼玉用水路の完成により、
葛西用水路は利根川から直接取水することはなくなった。
その旧取り入れ口は“親水公園”として整備され、
取水口が復元されている。
ちなみに、同じ年の4月12日には利根大堰の通水式が挙行された。

この年、日本では大学紛争が激化していた。
ぼくらの上の世代で、この時代のことを熱く語る人がいる。
十代の終わりに、かなり激しく学生運動を行った人に会ったことがあるが、
その時代はまるで海の向こう側の話のように聞こえたのを覚えている。
あの人たちは、ちょうどこの時代を熱く過ごしていたのだろう。

ちなみに、川端康成がノーベル文学賞を受賞したのはこの年の10月のことだった。
日本人としては初めてのノーベル文学賞受賞だった。
埼玉県内でも文学・文芸に関係する出来事が起こっている。
この年の11月1日に、県内初の文芸誌「文芸埼玉」が創刊されたのだ。
現在も刊行され、表現の場として多くの文芸作品を送り続けている。

有名な三億円強奪事件が起こったのは、昭和43年12月のことだ。
この年の大河ドラマは「竜馬がゆく」。
「ゲゲゲの鬼太郎」のテレビアニメが放映開始されたのも昭和43年だった。

ところで、羽生市内の駅の中に「南羽生駅」がある。
周囲は新興住宅が建ち並び、利用している人も多いだろう。
しかし、はじめから「南羽生駅」という名前ではなかった。
実は、営業開始当初は「須影駅」だったのだ。

須影駅から南羽生駅に改称されたのは、昭和43年9月1日のことだった。
いまでも、「須影駅」の呼び名の方に親しみを持っている人はいるかもしれない。
この駅周辺はだいぶ様変わりしたという。
一度はあまりに利用客数がいないため、廃駅となったこともあるのだ。
その当時に比べ、周囲に並ぶ新興住宅は発展の象徴でもあるだろう。
現在は、大型ショッピングモールへ行く最寄りの駅として使っている人もいて、
羽生の玄関の一つとして静かな賑わいを見せている。