くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景191 山王祭の神幸祭を見てきました。

2014年06月14日 09時30分50秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 前回のブログで申し上げたように、今年・平成26年の日枝神社(ひえじんじゃ)の山王祭(さんのうまつり)が神幸祭(じんこうさい)の行列の撮影に行ってきました。
 今回の撮影場所は、前回、思うように撮影できなかった皇居周辺で撮影する事にしました。
 東京駅に到着した所、下の写真の写真のように東の空は晴天で、午前中は天気予報通り、晴れでした。

 東京駅の丸の内出口を出て、西に進みます。この通りは、真ん中が歩道になっていて、神幸祭の行列が皇居から東京駅に向かって進む場所で、撮影場所を考えながら、逆方向に向かっています。行列の沿道には、他の撮影者の方々も沢山おりました。到着が少し遅れたので、焦り気味です。
 下の写真のように西の空には、大量の積乱雲が広がっていて、午後に雨が降るとの予報通りの空になっています。
 「できれば、雨は降らないで欲しい」と思っていたら、・・・・・・
 交差点の方から祭りの囃子(はやし)の音楽が聞こえてきました・・・・・・・・・・・

 写真の奥に見える江戸城(えどじょう、皇居)の富士見櫓(ふじみろ)の方を見ると、先導のパトカーと先導車が交差点を曲がってきます・・・・・!! 撮影場所も決まらないまま、撮影開始です!

 江戸時代から天下祭・江戸三大祭りとして続く有名な山王祭りの神幸祭行列はとても長いです。
 神社の行列の列次は、大きく第一梯団(ていだん、集団)から第四梯団までの四つの集団に分かれます。
 前回(平成24年)の神幸祭の第一集団と第二集団の写真を、すでに前回と前々回のブログに載せてしまいましたので、今回のブログは、前回と今回の神幸祭行列の異なる点について話します。
 (当然、参加者は前回とは別の方が多いですが、この点はスルーします。)

(1)先導車に続き、行列の先頭に先導神職と御防講(おふせぎこう)がいます。後ろは江戸城の富士見櫓です。
 前回、撮影できなかった神幸祭の行列と江戸城の櫓を組み合わせて撮影するのが、今回の目的です。

 同じく先頭にいる副宰領(ふくさいりょう)は、行列の中で見えませんでした。第2集団の方で話ます。

 前回同様に竹棹(たけざお)持、諫鼓鳥(かんこどり)、太鼓(たいこ)、神幸祭旗と続きます。

(2)前回・平成24年にありました東日本大震災(平成23年3月11日)に対する震災復興の幟(のぼり)は一度限りの使用となります。下の写真(絵画調)は前回撮影したものです。今回・平成26年はありません。


 続いて、祭典副委員長(馬上)と口取(くちとり)、金棒(かなぼう)、高張(たかはり)、御幣(ごへい)、鼻高面(はなだかめん)と朱傘(しゅがさ)と前回同様に続きます。

 この写真は、後ろの富士見櫓の下にある江戸城の石垣が良く見えるので、絵画調ではなく、写真のままです。

 さらに、賛者(さんじゃ)、大真榊(おおまさかき)、錦旗(きんき)、大幟(おおのぼり)と続きますが・・・・・・


(3)禰宜(ねぎ、馬上)と口取(くちとり、白服)、賽物係(さいもつがかり、緑服)

 ここで、禰宜さんの服の色が赤色ではなく、紺色(こんいろ)です。
 前回、第一集団にいた赤服の禰宜さん(権宮司?)は、第二集団(今回は権宮司です)にいたようです。さらに、前回、第二集団にいた赤服の禰宜さんは第三集団にいたようです。

 第一集団の最後は、獅子頭(ししがしら、雌雄一対)で同じです。


 続いて第二集団です。信号待ちの間に、撮影場所を移動させます。
(4)まず、集団の先頭にいる副宰領(ふくさいりょう)の服装が前回に比べて、ゴージャス(派手)になりました。

 いかにも、江戸時代の代官(だいかん)という雰囲気(ふんいき)です。前回の写真と比べてみてましょう。
 前回の副宰領は、下の写真のオレンジ色の服の方です。

 第二集団の権禰宜(ごんねぎ)、御神馬と口取(くちとり)、御弓(ゆみ)、御胡籙(ころく、やなぐい)が続きますが、写真無しです。

(5)御鉾(ほこ)、御楯(たて)、御太刀(たち)、権宮司(ごんぐうじ、馬上)と口取(白服)

 権宮司(赤服)の方は、前回は第一集団にいた方です(多分)。後ろに見える櫓は、江戸城の桜田巽二重櫓です。

(6)権禰宜(今回は撮影できました。前回はいたのか不明?)、舞姫(まいひめ)、童女

 再び、後ろの櫓は、富士見櫓です。やはり、江戸城の天守台が焼失してから、天守台の代わりを務めただけあって、雰囲気が良いです。

(7)楽人(がくじん、雅楽を演奏する人)、錦旗(きんき、前回は2旒(りゅう)でしたが、今回は4旒です)、菅翳、菅蓋(かんがい)、日枝神社氏子総代連高張(高張提灯を持つ方)、氏子総代連(うじこそうだいれん)

(8)前回は、氏子総代連の前に馬上の方がいましたが、列次に記載されていませんでしたが、日枝神社氏子総代か・・・?と悩んでいましたが、今回は、なんと、第三集団の祭典(副?)委員長の人力車に乗っていました・・・(汗)
 下は前回の写真です。


 ブログ作成の時間がありませんので、第三集団以降は、次回のブログで2回分まとめて行きます。

【山王祭】 6/14以降のみ記載します。
 日程 :平成26年(西暦2014年)6月7日(土)~6月17日(火) (期間が長いです!)
      6/14(土) 氏子各町連合宮入(16:00に清水谷公園を出発して、弁慶橋を渡り、日枝神社に到着)
      6/15(日) 11:00~ 日枝神社では例祭奉幣(ほうべい、ほうへい)、山王太鼓(たいこ)
               9:30~15:00 下町連合御渡(日本橋・八丁堀・京橋を神輿(最大12基)の御渡り)
     その他の日にも神楽・囃子(はやし)・献灯(けんとう)・納涼大会(山王音頭)などの儀礼・行事があります。
 上記は、平成26年の山王祭の日程と一部抜粋(ばっすい)です。
 詳細は日枝神社のホームページで御参照ください。


 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 今日の神幸祭は午後に雨に降られて残念でしたが、土日は晴れの予報になっています。楽しい祭り日和になることを祈ります。
 「くまドン」は、神幸祭のあった日が休日でしたので、今日は仕事日です。当然、撮影は無理です。

 次回は、山王祭(今年は本祭)の続きの予定です。 

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名所江戸百景190 第51景 糀町一丁目山王祭ねり込 神幸祭の行列(2)

2014年06月13日 07時55分26秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、日枝神社(ひえじんじゃ)の山王祭(さんのうまつり)の神幸祭(しんこうさい)の行列の続きです。
 今年・平成26年の神幸祭は本日6月13日(金)です。このブログが出た時間には、すでに神幸祭の行列が日枝神社を出発した頃かと思います。
 この1週間で本日の天気予報が、雨→曇り→雨→晴れのち雨とめまぐるしく変わっていますが、なんとか雨降らないでほしいものです。

 今回は前回・平成24年に撮影した神幸祭の行列の風景からです。写真の大半は絵画調です。
 江戸の天下祭・江戸三大祭りになるだけに山王祭りの神幸祭行列は、とても長いです。神社の行列の列次説明を見ると、大きく第一梯団(ていだん、集団)から第四梯団までの四つの集団に分かれます。前回の第一集団に続き、今回は第二集団です。

(1)副宰領(ふくさいりょう)、権禰宜(ごんねぎ、上の写真の神職の方)、御神馬と口取(くちとり、白服の方)

 第二集団の先頭も、権禰宜と副宰領がいます。
 オレンジ色の服装の副宰領は、神幸祭の運行側の総責任者の補佐です。
 「御神馬」は神様の乗る馬ですから、人は乗りません。 神幸祭は、神霊が宿った神体や依り代(よりしろ)などを神輿や鳳輦(ほうれん)に移して、氏子地域を渡御(とぎょ、回る)する祭礼ですからね。

(2)御弓(ゆみ)、御胡籙(ころく、やなぐい、携帯用の弓矢容器)、御鉾(ほこ)、御楯(たて)、御太刀(たち)


(3)権宮司(ごんぐうじ、馬上)と口取(白服の方々)、権禰宜(?)、舞姫(まいひめ)

 日枝神社の神官は、宮司(黒服)-権宮司(色?)-禰宜(赤服)-権禰宜(白服)の順の役職になっています。
 権宮司は神社の副代表になります。前回は赤服でしたが、他の方のブログの過去の写真みると黒服の年の写真もありました?(今回と前回では列次が少し異なるかもしれません?)
 舞姫というと、森鴎外(もりおうがい)の小説が先に思い浮かぶ方もいるかもしれませんが、神社では神楽(かぐら)などで舞う女性を「舞姫」と呼ぶそうです。巫女(みこ)を舞姫という名で呼ぶ神社もあります。
 日枝神社では、夏越稚児祭(なごしちごまつり)の時に日枝神社の本殿で稚児さんの前で舞姫の舞いが行われいます。

(4)舞姫、童女


(5)楽人(がくじん、雅楽を演奏する人)

 左の先頭の方が演奏している楽器は笙(しょう)です。雅楽(ががく)で使用される楽器だそうです。
 吸っても吹いても同じ音が出せる楽器のため、同じ音をずっと鳴らし続けることも可能な不思議な楽器です。

(6)錦旗(きんき)


(7)菅翳、菅蓋(かんがい)

 翳(さしは)は、儀式用の長柄の団扇(うちわ)です。菅(すげ)を円形に編んだものを菅翳と呼びます。
 菅蓋はスゲ(菅)で作り、長柄(ながえ)につけ、背後からさしかける大きいスゲカサ(笠)、天皇即位後に初めて行われる新嘗祭である大嘗祭(だいじょうさい)の時に移動する天皇の頭上にさしかけていたカサも菅蓋です。

(8)???(神幸祭の列次にありませんが、日枝神社氏子総代か?・・・・)と口取の方々


(9)日枝神社氏子総代連高張(高張提灯を持つ方)、氏子総代連(うじこそうだいれん)

 神社の氏子さんの代表(代理)の方々です。
 裃(かみしも)姿が江戸時代らしいです。武士の正装でしたが、町人の礼装にも使用されたそうです。

 第二集団はここまでです。

 平成26年の神幸祭の巡幸スケジュール(コースや時間の変更もありえます)は以下の通りです。
  7:45 日枝神社を御発輦(はつれん、出発)
 10:40 国立劇場(江戸時代初期に日枝神社のあった所で、小休止します)
    皇居の坂下門は今回も無しです。
 12:05 東京駅・丸の内(西)側
 13:10 日本橋・日枝神社(摂社) 14:25発
 15:00 京橋三丁目
 15:15 銀座四丁目
 15:30 新橋一丁目
 17:00 日枝神社に御還御(かんぎょ、帰還)

【山王祭】
 日程 :平成26年(西暦2014年)6月7日(土)~6月17日(火) (期間が長いです!)
      6/13(金) 7:45~17:00 神幸祭(氏子町内の巡行・皇居参賀を行う山王祭の見どころ)
      6/14(土) 氏子各町連合宮入(16:00に清水谷公園を出発して、弁慶橋を渡り、日枝神社に到着)
      6/15(日) 11:00~ 日枝神社では例祭奉幣(ほうべい、ほうへい)、山王太鼓(たいこ)
               9:30~15:00 下町連合御渡(日本橋・八丁堀・京橋を神輿(最大12基)の御渡り)
     その他の日にも神楽・囃子(はやし)・献灯(けんとう)・納涼大会(山王音頭)などの儀礼・行事があります。
 上記は、平成26年の山王祭の日程と一部抜粋(ばっすい)です。
 詳細は日枝神社のホームページで御参照ください。

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 たまたま、「くまどん」の休日の日に神幸祭の日に重なりました。用事もあるので、あまり長い時間撮影できませんが、せめて、1カ所ぐらい撮影したい思っています。(丸一日撮影できた前回が懐かしいです。)

 次回は、山王祭(今年は本祭)の続きの予定です。 

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名所江戸百景189 第51景 糀町一丁目山王祭ねり込 神幸祭の行列(1)

2014年06月12日 07時55分44秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、日枝神社(ひえじんじゃ)の山王祭(さんのうまつり)が本祭となりますので、神幸祭の行列が渡御します。
 今年・平成26年の神幸祭は6月13日(金)ですが、祭りの期間は長く、他の日も楽しめるイベントがあります。
 天気予報が神幸祭のある金曜日から土日にかけて、天候回復傾向に変わりましたので、期待できそうです。

 今回は前回・平成24年撮影した神幸祭の行列の風景からです。
 都心の王朝絵巻とも言われますので、写真の大半は絵画調のフィルタで変換してあります。
 江戸の天下祭・江戸三大祭りになるだけに山王祭りの神幸祭行列は、とても長く300mもあります。ほとんど切れ目に無い行列ですが、神社の行列の列次説明を見ると、大きく第一梯団(ていだん、集団)から第四梯団までの四つの集団に分かれています。今回は先頭の第一集団です。
 まず、先頭に先導のパトカーと先導車が通り、神幸祭の行列が続きます。


(1)行列の先頭は、御防講(おふせぎこう)です。
 神幸祭は日枝神社の氏子領域を回るので、途中で町の代表者が神幸祭の行列に挨拶をして合流していきます。それぞれの町名の入った半被(はっぴ、法被)を着ています。下はJR四ッ谷駅付近での合流風景です。

 御防講とは、神社が火災その他災厄の時に、まっさきに駆けつけて消火と神霊を奉護する講(こう)の集団です。
 講とは同じ信仰を持つ人達からなる集団のことです。(この場合は神社の氏子(うじこ)さん達です)
 江戸時代初期は江戸の町に火消しの制度は無く、明暦の大火以後に武家の火消しが作られ、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)の享保年間に、「いろは四十八組」で知られる町火消しの組織が作られました。
 江戸時代においては、火事で神社が危険になると、神社が焼失しないように、御防講が駆けつけて周辺の建造物を壊して、火災の拡大を防いでいた分けです(江戸時代は小規模な水しか使えず、破壊消火が中心です。)。
 祭りの時に着る半被(はっぴ)も、武家火消しが来ていた家紋(かもん)のつけた法被(はっぴ)を、町火消しや職人が着るようになり、その後、明治の町の消防団の制服、祭りの着物と変化していく事になります。

(2)先導神職、副宰領(ふくさいりょう)、竹棹(たけざお)持、諫鼓鳥(かんこどり)

 上の写真先頭の白い神官が先導神職です。日枝神社の列次を見ると、御防講は、先導神職、副宰領より後ろになるのですが、各町での挨拶があるので、御防講が先になっていると思います(多分)。
 オレンジ色の服装の副宰領は、神幸祭の運行側の総責任者の補佐です。
 4つの集団の先頭には権禰宜(ごんねぎ、先導神職も含む)と副宰領が配置されています。
 竹棹(たけざお)持は、山車(だし)などが通行で邪魔(じゃま)になる街路樹の枝を上に持ち上げて、山車を通行可能にする役目で、大きな山車の前には必ず配置されています。
 後方に見えるのが、諫鼓鳥の山車です。広重の名所江戸百景でも足だけ描かれている山車に当たります。
 下の絵は、広重の名所江戸百景「第51景 糀町一丁目山王祭ねり込」です。

 その後方に下の写真のように諫鼓鳥の山車と対になる太鼓が続きます。

(3)太鼓(たいこ)、神幸祭旗、震災復興の幟(のぼり)

 震災復興の幟は、列次には含まれていませんが、東日本大震災という大災害が発生という事件を示す時代の象徴でしょう。

(4)祭典副委員長(馬上)と口取(くちとり、白服の方々)


(5)金棒(かなぼう、青服の2名)、高張(たかはり、高張提灯を持つ白服の2名)、御幣(ごへい)

 御幣は、古くは神様に布類を捧げる為に木に挟んで備えていたのが、社殿の中に立てて神様の依代(よりしろ)や御神体になったり、参拝者に対するお祓い(おはらい)具に変化したものです。よく神社で見るのは白紙ですが、神幸祭の御幣は見ての通り金色です。

(6)鼻高面(はなだかめん)と朱傘(しゅがさ)
 
 鼻高面は、日本書紀(にほんしょき)で登場する猿田彦(サルタヒコ)です。国津神(くにつかみ)と呼ばれる神様ですので、貴人として扱われます。見た目は、赤い顔と長く高い鼻・高ゲタは、どう見ても天狗(てんぐ)ですが、前にも話したように江戸時代に天狗が流行して、両者がごちゃ混ぜになりましたので、天狗と思うのは当然かもしれません。
 朱傘も、昔は導師(どうし)や貴人に後ろから差す日除け傘でした。

(7)賛者(さんじゃ、手前の2名)、大真榊(おおまさかき)、錦旗(きんき)、大幟(おおのぼり)

 賛者は、平安時代に即位や朝賀の式で典儀(少納言)を補佐した職名ですが、この祭りでの役割は?
 通常の真榊(まさかき)は神棚の左右に五色絹の幟(緑・黄・赤・白・青)の先端にサカキ(榊)の枝葉を立て、三種の神器(鏡・玉・剣)を掛けたものですが、この大真榊は、サカキ(榊)の木丸ごとです。なんともダイナミックな発想!
 白い大幟に描かれている文字は「聖上無窮・萬民豊楽」、「天下泰平・国土安穏」だそうです。
 後方の坂の上に黄色の服を着た人達がいますが、これが第3集団の鳳輦(ほうれん、鳳凰の飾りのある神輿)です。結構、長い坂ですが、本当に長い行列です。

(8)禰宜(ねぎ、馬上)と口取(くちとり、白服の方々)、賽物係(さいもつがかり、緑色の服の方)

 日枝神社の神官は、宮司(黒服)-権宮司(色?)-禰宜(赤服)-権禰宜(白服)の順の役職になっています。
 例大祭などの大祭で着用する神官の服は、神社の正装でして、服や袴(はかま)の色などは規則で決められています。普段の服装は神社でよく見かける身分に関係なく白い衣装です。
 禰宜の語源は「和ませる」の意味の古語「ねぐ」で、神の心を和ませてその加護を願うという意味があります。
 賽物の「賽(さい)」は、「神仏の恩に報いる」を意味し、賽物は、神様にお祈りを捧げる時のお供物(おそなえもの)です。

(9)獅子頭(ししがしら、雌雄一対)


 さらに、後ろに第二・第三(神輿あり)・第四(山車あり)集団と続くわけですが、ともかく長い行列です。
 神幸祭の実物を見た方が実感わくかと思いますので、神幸祭の前日は第一集団のみで終わります。

 平成26年の神幸祭の巡幸スケジュール(コースや時間の変更もありえます)は以下の通りです。
  7:45 日枝神社を御発輦(はつれん、出発)
 10:40 国立劇場(江戸時代初期に日枝神社のあった所で、小休止します)
    皇居の坂下門は今回も無しです。
 12:05 東京駅・丸の内(西)側
 13:10 日本橋・日枝神社(摂社) 14:25発
 15:00 京橋三丁目
 15:15 銀座四丁目
 15:30 新橋一丁目
 17:00 日枝神社に御還御(かんぎょ、帰還)

【山王祭】
 日程 :平成26年(西暦2014年)6月7日(土)~6月17日(火) (期間が長いです!)
      6/13(金) 7:45~17:00 神幸祭(氏子町内の巡行・皇居参賀を行う山王祭の見どころ)
      6/14(土) 氏子各町連合宮入(16:00に清水谷公園を出発して、弁慶橋を渡り、日枝神社に到着)
      6/15(日) 11:00~ 日枝神社では例祭奉幣(ほうべい、ほうへい)、山王太鼓(たいこ)
               9:30~15:00 下町連合御渡(日本橋・八丁堀・京橋を神輿(最大12基)の御渡り)
     その他の日にも神楽・囃子(はやし)・献灯(けんとう)・納涼大会(山王音頭)などの儀礼・行事があります。
 上記は、平成26年の山王祭の日程と一部抜粋(ばっすい)です。
 詳細は日枝神社のホームページで御参照ください。

 昨年作りましたブログは以下の通りです。
(1)一昨年・平成24年の山王祭の神幸祭の話は、
 名所江戸百景041 第52景 赤坂桐畑 日枝神社の山王祭(1)
 名所江戸百景042 第51景 糀町一丁目山王祭ねり込 日枝神社の山王祭(2)
 名所江戸百景046 第73景 市中繁栄七夕祭 日枝神社の山王祭(3)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 次回は、山王祭(今年は本祭)の続きの予定です。 

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城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)

2014年06月10日 07時55分20秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回のお城訪問は、奈良県の織田(おだ)家の続きで、宇陀松山藩(うだまつやまはん)です。今までは、織田信長の弟・織田有楽斎(うらくさい、長益)の家系の藩でしたが、今回は信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)の家系になります。
 前回のブログが3月末でしたので、かなり日数が空いてしまいました。
 高取城の訪城が雪でお昼までかかったので、柳本藩・芝村藩の史跡の見学が終了したのは、大分遅い時間になりました。そこから東南の方向にある宇陀松山藩の陣屋のあった松山地区(奈良県宇陀市大宇陀)に向かいました。到着したのは、夕日が西の山に沈みかけている時間帯でした。

 下の写真は、光明寺です。この地区でも古いお寺です。

【光明寺(こうみょうじ、融通念仏宗)】
 第59代・宇多天皇(うだてんのう、平安時代中期の天皇)の頃の創建と伝わります。宇多天皇は、天神様で有名な菅原道真(すがわらみちざね)を登用したことで知られています。
 門の上に梵鐘(ぼんしょう)のある鐘楼門(しょうろうもん)は、この地区の最古の建造物で、江戸時代の慶安年間(3代・家光の時代)から寛文年間(4代・家綱の時代)の間に造られた門です。
 本堂も寛政年間(11代・家斉の時代)に建造と古いです。


 この宇陀松山は、山沿いを通り、奈良盆地(ならぼんち)に出た所が、古代・奈良の飛鳥(あすか、明日香)の都ということもあり、歴史が古いです。国や県の指定文化財が結構あります。
 ただ、写真を並べるだけよりも、城に向かう途中の話として入れておきます。(最も、宇陀松山の町の一部が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているので、町自体が史跡みたいなものですが・・・・・・)
 下の写真のような、時代を感じさせる建物が残っています。


(1)現在の宇陀市と呼ばれる場所は、古代においては阿騎野(あきの)や莵田野(うだの)と呼ばれていました。
 飛鳥(あすか)時代の宮廷から近かったこともあり、その歴史は古く、大和朝廷(やまとちょうてい)の狩り場でした。
 33代・推古天皇(すいこてんのう)が聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより、莵田野の地で薬猟(くすりがり、薬草採取)を行った事が、「日本書紀(にほんしょき)」に記録されています。

 町を歩いて行くと、古民家の中に、小さな祠(ほこら)があったりもします。


(2)大化の改新(たいかのかいしん)後の41代・持統天皇(じとうてんのう、40代・天武天の皇后)の時代に
 有名な飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)が、阿騎野の狩りにおいて、軽王子(後の42代・文武天皇(もんむてんのう))を
 「東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾ぬ」
 詠んだ歌が残っています。
 同じ宇陀市には、この時代に創建されたという慶恩寺というお寺もあります。

 この宇陀松山の地は谷沿いに宇陀川が流れていて、この川が城(陣屋)の堀の役割をしています。


(3)戦国時代においては、現在の松山地区は、「宇陀三将」の一つ・秋山氏の本拠地である秋山城がありました。上の地図の真中にある「宇陀松山城」の★印がある様に山城でした。戦国時代の名の様に混乱の多い時代でした。
 織田信長(おだのぶなが)の時代には、秋山氏は大和の筒井氏(つついし)の配下の国人領主となっていました。

 この川を渡った所にあるのが、下の写真の松山西口関門(黒門)です。

 城の門らしく、枡形(ますがた)のある構造になっています。進入路もクランク型に曲がっていて、橋を渡ると壁に囲まれて、左手に下の写真の門があります。門の左側に川が流れています。そして門を抜けると、右に進入路が曲がっていて、敵の進入を阻む為の構造になっています。

(4)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代になると、近畿周辺は秀吉に近い家臣で固めるように領地替えが始まります。
 天正13年には筒井氏が伊賀(いが)の地に移封となり、松山地区は豊臣家の直轄地になります。
 秋山城には、秀吉配下の代官(だいかん)が入るようになりました。この頃に秋山城の改修と城下町の拡大整備が行われています。町名も阿貴町から松山町へと変わり、このときの城下町の町割りが現在の松山地区の町並みの元になっています。
 上の写真にある西口関門も、この頃に造られました。

 下の家は、江戸時代後期頃に建てられた植田家「かぎや」だそうです。

 材木・油・米・穀物を取り扱う家です。壁の連格子・駒寄せ(犬矢来)や二階の白壁の窓の形と言い、特徴のある建物です。駒寄せ(こまよせ)、は、下に置かれている柵で、表の格子や塀に車や、動物がぶつからないように保護する為に使用したそうです。犬矢来(いぬやらい))も同様な役割で京都では犬のマーキングよけ・泥はねよけとして使用されています。

(5)慶長年間の関ヶ原の戦いの功績により、福島高晴(ふくしまたかはる、福島正則の弟)が3万石余で伊勢国(現在の三重県)・長島から加増転封されてきます。これが宇陀松山藩の始まりとなります。
 その後、大坂夏の陣で高晴は豊臣氏に内通した嫌疑をかけられて改易され、宇陀松山城も廃城となります。

 宇陀松山城の麓には春日神社があります。神社の入口が春日門(かすがもん)の跡で、石垣が往時をしのばせます。この場所も道は真っ直ぐ進めず、クランク状の形状をしています。

 下の写真にある説明板によると、宇陀町教育委員会の調査の結果、春日門は16世紀末から17世紀初期(安土桃山時代~江戸時代初期)に造られ、城下町形成時に町人地と武家屋敷・城館を分ける虎口(こぐち)として造られたそうです。

 なお、春日門の櫓台は、続く織田家の時代に屋敷を造営する際に改修されて再構築されているそうです。

(6)続いて、織田信雄(おだのぶかつ)が大和国と上野国(現在の群馬県)の両方を合わせて約5万石で入ります。織田信長の子のため、国主格も与えられたそうです。

 春日神社入り口の虎口を抜けると下の写真のような坂になりますが、廃城となった宇陀松山城は写真の右側で、この付近は武家屋敷でしたが、江戸時代の織田家の上屋敷は、写真の左奥の方にありました。


 春日神社に入る右手の折れ口付近の石垣も年代の感じさせる石垣です。

 参道を右に折れると、春日神社があります。


 右手には、宇陀松山城への登城口がありますが、すでに夕方となっていましたので、ここまでとなります。


(7)その後、信雄は上野の所領を四男の信良(のぶよし)に与え、上野小幡藩(おばたはん、2万石)となります。
 残った大和2万8千石が信雄の隠居領としていましたが、大和の所領は五男の高長(たかなが)が継ぐことになります。宇陀松山藩となります。

 歴史が古いだけあって、江戸時代の元禄年間(5代・綱吉の時代)に作られた水鉢(みずはち)がありました。


(8)宇陀松山藩は、4代藩主・織田信武(おだのぶたけ、信雄のひ孫)の時代に「宇陀崩れ」と呼ばれるお家騒動が発生します。5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の元禄年間の時代です。
 他の大名であれば、お家取りつぶし(=改易)となりますが、綱吉=(3代・家光(いえみつ)の四男)=(2代・秀忠(ひでただ)と江(ごう)の孫)となり、遠い親戚になります。
 その結果、跡継ぎの5代目藩主・織田信休(おだのぶやす)は、丹波柏原藩(たんばかいばらはん、現在の兵庫県)2万石に減封のうえ国替となりました。以後、宇陀松山藩は廃藩となり、天領(徳川幕府の直轄地)として明治維新を迎える事になります。

 せっかく、ここまで来たのですから、春日神社に参拝です。年末だったので、正月の門松(かどまつ)があります。


(9)四男・信良が継いだ上野小幡藩も、騒動に巻き込まれながらも、出羽(でわ、現在の山形県)・天童藩(てんどうはん)に転封となり、明治維新まで存続することになります。

 春日神社から後ろを振り返れば、西の山に夕日が静かに落ちて行きました。


 最後は、織田家の墓です。
 徳源寺は宇陀松山藩の2代藩主織田高長が初代藩主の父・信雄の菩提を弔うために建てた寺です。


 道を歩いて行くと、信雄の墓との立て札がありました。


(10)驚いたことに、奈良県の織田家で前に話した織田家の織田有楽斎(織田長益)系統がありますが、
 柳本藩(やなぎもとはん)は、6代藩主・織田秀行(おだ ひでゆき)が嫡子が無く断絶となる所を、末期養子が認められ、宇陀松山藩織田家の分家にあたる旗本・織田信方(おだのぶかた)が7代藩主となり、その系統が明治維新まで存続します。

 この場所にいた時は、似たような石塔が建っていて、どれが信雄の墓なのか不明・・・・・?


(12)もう一つの芝村藩(しばむらはん、戒重藩)も、3代藩主・織田長明(おだながあき)の養子となった織田長清(おだながきよ、宇陀松山藩の3代藩主織田長頼の三男)が4代藩主となり、これまた明治維新まで存続。ただし、最後の11代目は婿養子(むこようし)。
 結局、織田家の諸藩が織田信雄の血筋になってしまうという展開。しかも、しっかり、明治維新まで存続・・・!

 どうやら、この4基が宇陀松山藩の織田家4代の墓のようです。


 生きていた時は、豊臣秀吉に負けて、天下を取ることができず、小藩の藩主として終わった織田信雄ですが、最終目的が「家名と血筋」の存続とすれば、これほどの強運の持ち主はなかなかいないのでは・・・?
 最も、織田信勝本人が亡くなった後の事ですから、信雄本人の知る所ではありませんが・・・・・・・

 現代では、織田信雄の墓は宇陀松山の林間に静かに眠っています。

 「奈良県の織田家」は、これで終わりです。

 実は年末に訪れた奈良県の城に、もう一城・大和郡山城(やまとこおりやまじょう)があるのですが、話の流れで、次の訪城記は、兵庫県と鳥取県になります。

【その他の見どころ】
 同じ、宇陀松山市には、風景写真では有名な「又兵衛桜(またべえざくら)」という樹齢300年と伝わる桜の古木があります。その枝振りから瀧桜(たきざくら)の異名もついています。
 この「又兵衛」という名前は、黒田官兵衛(くろだかんべえ)の配下の猛将だった後藤基次(ごとうもとつぐ、後藤又兵衛)の名前にちなんだものです。黒田官兵衛は、又兵衛の性格を喜びましたが、子の黒田長政とは折り合いが悪く、黒田家から飛び出してしまいます。
 その後、色々ありまして、大阪の陣では、大阪の豊臣方に参加して「大坂城五人衆」の一人として数えられます。
 そして、夏の陣で奮戦・討死となりますが、生存説も各地にありまして、後藤又兵衛が大宇陀の地で暮らし、再興の時期を待ったと伝わっています。又兵衛桜は、その屋敷跡にあると伝わっています。

前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。(無料ブログですから、中間にヤプログのCMが入ります。)
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳」
 「城005 奈良県の織田家 芝村藩 織田小学校・慶田寺」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 「ごまさん」へ、コメントありがとうございました。お言葉に甘えて、訪城記の続きを作らせていただきました。
 もうすぐ、「ごまさん」のお父様の四十九日法要かと思います。
 色々と大変で、お忙しいかと思いますが、お体にお気を付けください。
 「ごまさん」のブログお友達は、ご葬儀に参列されるような素晴らしい方でした。
 何もできませんが、改めて、お父様のご冥福をお祈り申し上げます。

 次回は、名所江戸百景の話に戻ります。


名所江戸百景188 築地獅子祭に行ってきました

2014年06月08日 20時10分27秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 前回に話しました「つきじ獅子祭」に行ってきました。つきじ獅子祭は、築地(つきじ)・波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)の夏越し大祭(なごしたいさい))です。
 平成21年に鎮座350年を迎えた波除稲荷神社の江戸時代から続く伝統の祭りです。

 築地への到着は、神輿(みこし)とお歯黒獅子が出発した後でしたので、神社には黒い天井大獅子(雄獅子)がお留守番でした?(今年は陰年でした) この獅子は、高さ240cm、両耳幅330cm、重さ1トンもあります。

 神社に運行スケジュールと巡行路の地図がありましたので、お歯黒獅子を見つけることにしました。

 勝鬨橋(かちどきばし)に通ずる道路を渡ると、道路の先に「弁財天お歯黒獅子」の後姿がありました。

 お歯黒獅子に追いつき、正面に回りましたが、やはり大きいですね。
 この獅子も、高さ220cm、両耳幅250cm、重さ700kgあります。

 江戸時代から獅子頭を担ぐ伝統の祭りでしたが、関東大震災で焼失。平成になって、再興された獅子です。
 途中で気がつきましたが、お歯黒獅子を担いでいる人のほとんどが女性なのですね!

 弁財天お歯黒獅子が雌獅子(頭に丸い宝珠がある)なので、女性だけで担いでいるのかな?と思いましたら、女性だけで担ぐ区間があるそうです(築地の名物だそうです)。

 交差点を曲がった所に、町会の神輿の置かれている場所がありました。
 この付近は築地七丁目なので、神輿の札には「築七」と書かれています。

 お歯黒獅子が前を通ると「回して!」の掛け声が聞こえてきて、町会の神輿の方にお歯黒獅子の向きを変えて行きます。

 きれいに向きを変えて、決まりました。獅子の頭にある宝珠の中には弁才天の像が収められています。

 お歯黒獅子と反対方向から、昨年も見かけた桃太郎の山車(だし)がやってきました。
 築地に到着した時は、傘(かさ)をさすかどうか迷うほどの霧雨(きりさめ)が降っていました。
 山車も雨除けのビニールがかぶさっていますが、この頃には、すでに雨は止んでいました。

 お歯黒獅子も、こちらに向かってきます。

 さらに反対側からは、神社の千貫宮神輿が来ました。どうやら、ここがお昼の集合ポイントのようです。

 山車の囃子(はやし)の音楽も祭りの雰囲気を盛り上げます。

 お歯黒獅子も午前の巡行の終点に来ましたので、位置合わせです。

 宮神輿も、どんどん近付いてきます。この宮神輿は、関東大震災後の昭和になってから作られた神輿で、獅子の代わりに担がれていました。

 こちらも、拍子木を持った人が脚立の上に立って、位置合わせです。

 さすがに築地の祭りだけあって、一般の撮影者だけでなく、放送局のTVカメラもありました。
 午前中の最後は、神主さんの儀式が行われます。


 楽しそうな祭りで、雨も止みましたし、午後も楽しめそうでしたが、
 偶然、獅子頭と宮神輿・山車をまとめて撮影できましたし、ブログ作成や雑用があるので、帰る事にしました。
 当然、築地場外市場で、みやげを買う事にしました。築地に来た時は、半分これが楽しみです。
 今回の「くまドン」が買ったのは築地名物の「玉子焼き」とサケ(鮭)の切り身です。さすがに家で好評でした。

 ちょうど、お昼の時間だったので、あちこちの店で大行列ができていました。
 築地の場外市場は早く店じまいする所が多いので、お昼ぐらいまでに買った方が安全です。

 昨年作りましたブログは以下の通りです。
(1)昨年・平成25年の山王祭・夏越稚児祭とつきじ獅子祭の話は、
 <速報>名所江戸百景043 「日枝神社の山王祭」と「つきじ獅子祭」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 次回は、山王祭(今年は本祭)の続きの予定です。 

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