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城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)

2014-06-10 07:55:20 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回のお城訪問は、奈良県の織田(おだ)家の続きで、宇陀松山藩(うだまつやまはん)です。今までは、織田信長の弟・織田有楽斎(うらくさい、長益)の家系の藩でしたが、今回は信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)の家系になります。
 前回のブログが3月末でしたので、かなり日数が空いてしまいました。
 高取城の訪城が雪でお昼までかかったので、柳本藩・芝村藩の史跡の見学が終了したのは、大分遅い時間になりました。そこから東南の方向にある宇陀松山藩の陣屋のあった松山地区(奈良県宇陀市大宇陀)に向かいました。到着したのは、夕日が西の山に沈みかけている時間帯でした。

 下の写真は、光明寺です。この地区でも古いお寺です。

【光明寺(こうみょうじ、融通念仏宗)】
 第59代・宇多天皇(うだてんのう、平安時代中期の天皇)の頃の創建と伝わります。宇多天皇は、天神様で有名な菅原道真(すがわらみちざね)を登用したことで知られています。
 門の上に梵鐘(ぼんしょう)のある鐘楼門(しょうろうもん)は、この地区の最古の建造物で、江戸時代の慶安年間(3代・家光の時代)から寛文年間(4代・家綱の時代)の間に造られた門です。
 本堂も寛政年間(11代・家斉の時代)に建造と古いです。


 この宇陀松山は、山沿いを通り、奈良盆地(ならぼんち)に出た所が、古代・奈良の飛鳥(あすか、明日香)の都ということもあり、歴史が古いです。国や県の指定文化財が結構あります。
 ただ、写真を並べるだけよりも、城に向かう途中の話として入れておきます。(最も、宇陀松山の町の一部が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているので、町自体が史跡みたいなものですが・・・・・・)
 下の写真のような、時代を感じさせる建物が残っています。


(1)現在の宇陀市と呼ばれる場所は、古代においては阿騎野(あきの)や莵田野(うだの)と呼ばれていました。
 飛鳥(あすか)時代の宮廷から近かったこともあり、その歴史は古く、大和朝廷(やまとちょうてい)の狩り場でした。
 33代・推古天皇(すいこてんのう)が聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより、莵田野の地で薬猟(くすりがり、薬草採取)を行った事が、「日本書紀(にほんしょき)」に記録されています。

 町を歩いて行くと、古民家の中に、小さな祠(ほこら)があったりもします。


(2)大化の改新(たいかのかいしん)後の41代・持統天皇(じとうてんのう、40代・天武天の皇后)の時代に
 有名な飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)が、阿騎野の狩りにおいて、軽王子(後の42代・文武天皇(もんむてんのう))を
 「東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾ぬ」
 詠んだ歌が残っています。
 同じ宇陀市には、この時代に創建されたという慶恩寺というお寺もあります。

 この宇陀松山の地は谷沿いに宇陀川が流れていて、この川が城(陣屋)の堀の役割をしています。


(3)戦国時代においては、現在の松山地区は、「宇陀三将」の一つ・秋山氏の本拠地である秋山城がありました。上の地図の真中にある「宇陀松山城」の★印がある様に山城でした。戦国時代の名の様に混乱の多い時代でした。
 織田信長(おだのぶなが)の時代には、秋山氏は大和の筒井氏(つついし)の配下の国人領主となっていました。

 この川を渡った所にあるのが、下の写真の松山西口関門(黒門)です。

 城の門らしく、枡形(ますがた)のある構造になっています。進入路もクランク型に曲がっていて、橋を渡ると壁に囲まれて、左手に下の写真の門があります。門の左側に川が流れています。そして門を抜けると、右に進入路が曲がっていて、敵の進入を阻む為の構造になっています。

(4)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代になると、近畿周辺は秀吉に近い家臣で固めるように領地替えが始まります。
 天正13年には筒井氏が伊賀(いが)の地に移封となり、松山地区は豊臣家の直轄地になります。
 秋山城には、秀吉配下の代官(だいかん)が入るようになりました。この頃に秋山城の改修と城下町の拡大整備が行われています。町名も阿貴町から松山町へと変わり、このときの城下町の町割りが現在の松山地区の町並みの元になっています。
 上の写真にある西口関門も、この頃に造られました。

 下の家は、江戸時代後期頃に建てられた植田家「かぎや」だそうです。

 材木・油・米・穀物を取り扱う家です。壁の連格子・駒寄せ(犬矢来)や二階の白壁の窓の形と言い、特徴のある建物です。駒寄せ(こまよせ)、は、下に置かれている柵で、表の格子や塀に車や、動物がぶつからないように保護する為に使用したそうです。犬矢来(いぬやらい))も同様な役割で京都では犬のマーキングよけ・泥はねよけとして使用されています。

(5)慶長年間の関ヶ原の戦いの功績により、福島高晴(ふくしまたかはる、福島正則の弟)が3万石余で伊勢国(現在の三重県)・長島から加増転封されてきます。これが宇陀松山藩の始まりとなります。
 その後、大坂夏の陣で高晴は豊臣氏に内通した嫌疑をかけられて改易され、宇陀松山城も廃城となります。

 宇陀松山城の麓には春日神社があります。神社の入口が春日門(かすがもん)の跡で、石垣が往時をしのばせます。この場所も道は真っ直ぐ進めず、クランク状の形状をしています。

 下の写真にある説明板によると、宇陀町教育委員会の調査の結果、春日門は16世紀末から17世紀初期(安土桃山時代~江戸時代初期)に造られ、城下町形成時に町人地と武家屋敷・城館を分ける虎口(こぐち)として造られたそうです。

 なお、春日門の櫓台は、続く織田家の時代に屋敷を造営する際に改修されて再構築されているそうです。

(6)続いて、織田信雄(おだのぶかつ)が大和国と上野国(現在の群馬県)の両方を合わせて約5万石で入ります。織田信長の子のため、国主格も与えられたそうです。

 春日神社入り口の虎口を抜けると下の写真のような坂になりますが、廃城となった宇陀松山城は写真の右側で、この付近は武家屋敷でしたが、江戸時代の織田家の上屋敷は、写真の左奥の方にありました。


 春日神社に入る右手の折れ口付近の石垣も年代の感じさせる石垣です。

 参道を右に折れると、春日神社があります。


 右手には、宇陀松山城への登城口がありますが、すでに夕方となっていましたので、ここまでとなります。


(7)その後、信雄は上野の所領を四男の信良(のぶよし)に与え、上野小幡藩(おばたはん、2万石)となります。
 残った大和2万8千石が信雄の隠居領としていましたが、大和の所領は五男の高長(たかなが)が継ぐことになります。宇陀松山藩となります。

 歴史が古いだけあって、江戸時代の元禄年間(5代・綱吉の時代)に作られた水鉢(みずはち)がありました。


(8)宇陀松山藩は、4代藩主・織田信武(おだのぶたけ、信雄のひ孫)の時代に「宇陀崩れ」と呼ばれるお家騒動が発生します。5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の元禄年間の時代です。
 他の大名であれば、お家取りつぶし(=改易)となりますが、綱吉=(3代・家光(いえみつ)の四男)=(2代・秀忠(ひでただ)と江(ごう)の孫)となり、遠い親戚になります。
 その結果、跡継ぎの5代目藩主・織田信休(おだのぶやす)は、丹波柏原藩(たんばかいばらはん、現在の兵庫県)2万石に減封のうえ国替となりました。以後、宇陀松山藩は廃藩となり、天領(徳川幕府の直轄地)として明治維新を迎える事になります。

 せっかく、ここまで来たのですから、春日神社に参拝です。年末だったので、正月の門松(かどまつ)があります。


(9)四男・信良が継いだ上野小幡藩も、騒動に巻き込まれながらも、出羽(でわ、現在の山形県)・天童藩(てんどうはん)に転封となり、明治維新まで存続することになります。

 春日神社から後ろを振り返れば、西の山に夕日が静かに落ちて行きました。


 最後は、織田家の墓です。
 徳源寺は宇陀松山藩の2代藩主織田高長が初代藩主の父・信雄の菩提を弔うために建てた寺です。


 道を歩いて行くと、信雄の墓との立て札がありました。


(10)驚いたことに、奈良県の織田家で前に話した織田家の織田有楽斎(織田長益)系統がありますが、
 柳本藩(やなぎもとはん)は、6代藩主・織田秀行(おだ ひでゆき)が嫡子が無く断絶となる所を、末期養子が認められ、宇陀松山藩織田家の分家にあたる旗本・織田信方(おだのぶかた)が7代藩主となり、その系統が明治維新まで存続します。

 この場所にいた時は、似たような石塔が建っていて、どれが信雄の墓なのか不明・・・・・?


(12)もう一つの芝村藩(しばむらはん、戒重藩)も、3代藩主・織田長明(おだながあき)の養子となった織田長清(おだながきよ、宇陀松山藩の3代藩主織田長頼の三男)が4代藩主となり、これまた明治維新まで存続。ただし、最後の11代目は婿養子(むこようし)。
 結局、織田家の諸藩が織田信雄の血筋になってしまうという展開。しかも、しっかり、明治維新まで存続・・・!

 どうやら、この4基が宇陀松山藩の織田家4代の墓のようです。


 生きていた時は、豊臣秀吉に負けて、天下を取ることができず、小藩の藩主として終わった織田信雄ですが、最終目的が「家名と血筋」の存続とすれば、これほどの強運の持ち主はなかなかいないのでは・・・?
 最も、織田信勝本人が亡くなった後の事ですから、信雄本人の知る所ではありませんが・・・・・・・

 現代では、織田信雄の墓は宇陀松山の林間に静かに眠っています。

 「奈良県の織田家」は、これで終わりです。

 実は年末に訪れた奈良県の城に、もう一城・大和郡山城(やまとこおりやまじょう)があるのですが、話の流れで、次の訪城記は、兵庫県と鳥取県になります。

【その他の見どころ】
 同じ、宇陀松山市には、風景写真では有名な「又兵衛桜(またべえざくら)」という樹齢300年と伝わる桜の古木があります。その枝振りから瀧桜(たきざくら)の異名もついています。
 この「又兵衛」という名前は、黒田官兵衛(くろだかんべえ)の配下の猛将だった後藤基次(ごとうもとつぐ、後藤又兵衛)の名前にちなんだものです。黒田官兵衛は、又兵衛の性格を喜びましたが、子の黒田長政とは折り合いが悪く、黒田家から飛び出してしまいます。
 その後、色々ありまして、大阪の陣では、大阪の豊臣方に参加して「大坂城五人衆」の一人として数えられます。
 そして、夏の陣で奮戦・討死となりますが、生存説も各地にありまして、後藤又兵衛が大宇陀の地で暮らし、再興の時期を待ったと伝わっています。又兵衛桜は、その屋敷跡にあると伝わっています。

前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。(無料ブログですから、中間にヤプログのCMが入ります。)
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳」
 「城005 奈良県の織田家 芝村藩 織田小学校・慶田寺」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 「ごまさん」へ、コメントありがとうございました。お言葉に甘えて、訪城記の続きを作らせていただきました。
 もうすぐ、「ごまさん」のお父様の四十九日法要かと思います。
 色々と大変で、お忙しいかと思いますが、お体にお気を付けください。
 「ごまさん」のブログお友達は、ご葬儀に参列されるような素晴らしい方でした。
 何もできませんが、改めて、お父様のご冥福をお祈り申し上げます。

 次回は、名所江戸百景の話に戻ります。