くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景091 第5景 両ごく回向院元柳橋 相撲と両国回向院

2013年09月15日 09時30分40秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、大相撲(おおずもう)の秋場所がもうすぐ始まりますので、墨田区(すみだく)の両国(りょうごく)付近の話になります。
 今年、平成25年の大相撲秋場所(両国国技館)の日程は、9/15(日)~9/29(日)です。

 JR総武線の両国駅を出ると、すぐ隣に両国国技館があります。下の写真の右に両国国技館の屋根があります。
 国技館付近の町名は「横網」です。字が似ているのですが、「よこづな」ではなく、「よこあみ」と読みます。

 両国国技館は西向きですのですが、午後遅くなると、写真のように西側のビルの影が伸びてくるので、撮影は午後早くの方が向いています。時々、お相撲さんが、国技館に向かって歩道を歩いていきます。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第5景 両ごく回向院元柳橋」(春景)です。

 この絵は、両国回向院から、隅田川対岸の元柳橋方面の俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)で望んだ風景です。
 名所江戸百景の特徴である近景構図(近くの物の一部分を極端に大きく描いて、遠近感を表現する)が使用されていて、回行院の勧進相撲が開催されていることを示す梵天(ぼんてん)と櫓(やぐら、相撲では、太鼓を打つ場所)が大きく表現されています。
 広重の絵の隅田川対岸の正面に見える橋は、薬研堀(やげんぼり)が隅田川と合流する場所に架かる元柳橋(元から柳橋と言う名前だったのですが、すぐ北にある神田川にも同名の柳橋ができた為、「元」をつけた名前になりました)
 薬研堀は、3代・家光(いえみつ)の正保年間に東日本橋にできた米倉に舟を引き入れる為に造られた堀でした。その後、米倉が焼けてしまい、築地(つきじ)に移転した為、大半が埋め立てられてしまいました。
 広重が「名所江戸百景」の絵を描いた頃は、隅田川近くの10m程を残すだけとなっていました。元柳橋は、そこに架かる橋だったわけです。現在では、全て埋め立てられています。

 迫力を出すために、櫓のすぐ下から撮影したら、梵天が画面から切れてしまいました。

 広重の絵は、春景ですので、相撲は初(春)場所です。遠くに見える富士山が白く、美しい姿を見せています。
 空の色は、夕暮れ時の青から赤へのトーンに見えますが、写真では、逆光になるので、前景は全て黒く陰になり、絵のような表現は不可能でしょう。

 やむえず移動して、櫓の梵天や雲も入れて撮り直しました。
 それにしても、永谷園(お茶づけ)の旗が目を引きます(食欲が湧きます)。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第5景 両ごく回向院元柳橋」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 両国国技館前の道を南に進めば、両国回向院にぶつかります。両国駅の南側の町名が「両国」です。

【両国回向院】
 浄土宗の寺です。
 4代・家綱(いえつな)の時に発生した明暦の大火(めいれきのたいか)の10万人を超える犠牲者が発生し、その多くが身元不明で、引き取り手がありませんでした。そこで、幕府は両国に「無縁塚」を作り、遺体を弔いました。これを永年に渡り弔う為に念、仏堂(ねんぶつどう)が造られ、有縁・無縁・人・動物に関わらず、生ある全てのものへの仏の慈悲を説くという理念の元に、「諸宗山無縁寺回向院」が建てられました。
 その後も、安政大地震や関東大震災、戦災を含めて、多くの人の供養しています。

 右奥が、鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)の墓のある所です。刑死者の弔いも回向院の役目です。
 歌舞伎・テレビで有名ですが、架空の人物と思ったら、実在の人物でした・・・・・・

 近くには猫塚(ねこづか)があり、江戸っ子の間に広まった「猫の恩返し」という昔話が書いてありました。

 動物も供養してもらえるので、ペットの墓も多いそうです。
(絵画調)



【相撲の歴史】
 相撲自体は、素手の力比べですから、古代からあって、「古事記」や「日本書紀」にも記載があるほどです。
 戦国時代には、織田信長(おだのぶなが)が相撲を奨励(しょうれい)したことは有名です。
 江戸時代初期も、道ばたに小屋を作って行う辻相撲(つじずもう)が行われていましたが、戦国の風潮が消えていいなかった為、幕府が禁止令を出したりしています。
 5代・綱吉(つなよし)の時代(西暦1684年)になって、寺社奉行(じしゃぶぎょう、寺や神社を監督する幕府の組織)の監督下で、勧進相撲が認められました。この時は、江東区深川(ふかがわ)の富岡八幡宮で行われています。

 この話は、「名所江戸百景024 第69景 深川三十三間堂 深川(4)」でしましたので割愛しますが、戻るのが大変と思いますので、一枚だけ再度入れておきます。富岡八幡宮にある横綱力士碑(よこづなりきしひ)です。
(絵画調)

 寺社奉行の管轄ですから、以後、相撲の興行は、寺や神社の境内で行われています。

 10代・家治(いえはる)の天明年間には、両国回行院でも勧進相撲が興行されました。
 11代・家斉(いえなり)の天保年間(西暦1833年)になると、両国回向院での相撲が定期的に行われるようになりました。この頃は、春・秋の2場所でした。
 広重が名所江戸百景を描いた頃は、回向院で相撲が行われていた分けです。
 両国回向院にあった「力塚」です。すでに亡くなった力士や、年寄(としより、親方)の霊を祀っています。

 時代が変わり、明治になると、相撲廃止の動きもありましたが、明治天皇が相撲好きだったことから、一転して存続になり、明治43年に両国国技館が建設されるまで、大相撲は回向院で行われてきました。

 両国国技館ができてからの歴史も色々あって、火災、関東大震災、陸軍による接収、戦災による焼失と困難が続きます。この時は、後楽園球場(入場者数8万人の記録だそうです)や、色々な場所で本場所が行われたそうです。
 昭和24年に中央区浜町(はまちょう)に、仮設の国技館ができましたが、公園だったため、2場所で取り壊し。
 昭和25年から昭和59年までは、蔵前国技館(くらまえこくぎかん)で、相撲の本場所が行われていました。
 昭和60年からは、現在の両国国技館(2代目)で相撲が行われています。

 隅田川沿いの親水テラスには、手すりに相撲の技があります。後ろはJR総武線の陸橋。



 最後に、両国に来たのですから、「ちゃんこ鍋」食べて帰ろうと思いまして、両国駅に向かいました。
 写真の後ろにある店も「ちゃんこ鍋」で有名な店です。空いている時に入った時がありますが、美味しいですよ。

 ところが、大相撲の秋場所中ですから、どこの店も予約客で一杯です。
 「くまドン」は、両国駅南側に店が沢山あるので、ここで探してみる事にしました。
 細い道に入ると、「ちゃんこ鍋」と書いてある紙がぶら下がっていました。「つきじ」という店でした。
 前日に目黒でサンマを食べそこない、築地市場にも行く予定でしたので、興味を感じて入ってみました。
 正確には、「つきじ市場食堂 両国店」という店で、毎朝、築地市場から魚を仕入れているそうです。
 「ちゃんこ鍋」と「サンマの刺身」を注文しましたが、鮮魚専門なだけに、新鮮な魚貝類と野菜を使った「ちゃんこ鍋」でした。美味しいだけあって、食べている途中から、どんどんお客さんが増えてきました。
 普段は新鮮な魚介類の店(すし・ランチ・定食・宴会)ですが、相撲の場所中だけ、「ちゃんこ鍋」もやっているそうです。

 両国周辺には、その他に「江戸東京博物館」を始めとした資料館や、「旧安田庭園」、「横網町公園」などありますが、長くなりますので、旧安田公園(きゅうやすだていえん)の1枚だけとさせていただきます。

 潮入り回遊式の大名庭園です。江戸時代は、松平(本庄)氏(常陸笠間藩→浜松藩→丹後宮津藩)の下屋敷でした。隅田川の水を引き入れ、潮の干満を眺める庭園でしたが、現在はポンプで人工的に干満を再現しています。

 隅田川に架かる両国橋や、対岸の柳橋の話は、下のブログで話しましたので、そちらを参照お願いします。
 「名所江戸百景056 第60景 浅草川大川端宮戸川 柳橋と屋形船」
 「名所江戸百景057 第59景 両国橋大川ばた 両国橋・柳橋の夜景」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回は、彼岸花(ひがんばな)の予定です。

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