くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景092 第51景 糀町一丁目山王祭ねり込 桜田濠の彼岸花

2013年09月17日 07時55分00秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、江戸城(皇居)の桜田濠(さくらだぼり)で彼岸花(ひがんばな)の撮影です。
 皮肉な話ですが、おそらく、都心部で一番自然が残っているのは、都心のど真ん中にある皇居です。
 皇居として、一般人が立ち入らず、盗掘(とうくつ)も開発も行われなかった結果、昔の状態が残っているのです。
 その為、皇居周辺の濠沿いでは、都会では珍しくなった野草が咲いていたりします。

 桜田濠に咲く彼岸花もその一つです。
 見ての通り、花が放射線状に広がっているので方向性が無く、撮影し易い被写体です。

【彼岸花、曼珠沙華(マンジュシャゲ)、サンスクリット語(古代インドの言語)では「マンジュシャカ」】
 彼岸花の名前は、秋の花には珍しく、毎年、お彼岸(9月23日頃)に花を咲かすことからきています。
 ただし、9月でも暑い年は、開花が1週間程度遅れることがあります。

 彼岸花は、他の草が花が咲かす春から夏にかけては地上には姿を見せず、9月になると、ひょっこり伸びてきて、花だけを咲かせます。そして、花が終わった後に、細長い葉が出てきて、冬の間、緑の葉を広げているという不思議な植物です。他の植物のとの競合を避ける事により、うまく環境に適合してきた植物ともいえます。

 彼岸花の鱗茎(りんけい、球根の一種)は、アルカイド系の有毒物質を含んでいる為、そのままでは食べられません。しかし、この有毒物質は水溶性の為、水に浸しておくと流れて、食べる事が出来るようになります。
 江戸時代においては、有毒の為、作物では無く年貢の対象外とされ、救荒食物(飢饉の時に食べる非常食)として、畑のあぜ道や、墓地に植えられて、広がっていったと考えられています。
 一説には、田んぼ荒らす動物(ネズミや虫)などが、有毒物質を嫌う為、植えられていったという説もあります。
 いずれにしても、昔の人の生活の知恵として、彼岸花は、日本全国の人里に広がっていたのです。

 彼岸花は、田んぼなどで、土を掘り返す時に、鍬(くわ)の刃により、球根である鱗茎が分裂して増えてきました。
 これは、子孫を増やすというより、1つの彼岸花が、2つの同じ彼岸花に分かれたと考える方が正しいでしょう。
 驚いたことに、日本に存在する彼岸花は、全て遺伝的に同一であり、三倍体(種子ができない)だそうです。
 つまり、日本に存在する彼岸花は、わずか1個の個体が、千年をはるかに超えるの長い年月に渡って、分身を続けてきた姿だったのです。
 (例えば、マンガ風に置き換えると、ある人間が分身の術を使い、顔・姿が全く同じで、全てが本体である人間が、田んぼのあぜ道に連続的に並んで立っていて、それが日本全国にいるような、とんでもない話なのです。)

 最近は、白い彼岸花を見かけるようになりましたが、彼岸花とショウキズイセン(黄色の彼岸花)の交雑種(人により作られた雑種)です。その意味では、皇居のお堀の花も、人出により植えられた花も多いのかも知れません。

 仏教の曼珠沙華は、「白くやわらかな花」という意味らしく、赤い彼岸花とは全く合いませんが、その意味では、こちらの方がイメージが近いのかもしれません。

 昨年、平成24年は9月になっても暑い日が続き、お彼岸頃に行っても、ほとんど彼岸花は咲いていませんでした。
 下の写真は、江戸城(皇居)の半蔵門(半蔵門)と桜田濠です。

 下の広重の絵が描かれたのは、この付近です。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第51景 糀町一丁目山王祭ねり込」(夏景)です。

 絵の説明は、「名所江戸百景042 ・・・ 日枝神社の山王祭(2)」で説明ずみですので、省略します。

 ここは、6月の山王祭の時に場所の下見をしています。広重が描いた場所から、さらに後ろに下がったこの位置からは、半蔵門の土橋も見えますので、この付近に目星をつけておきました。お堀の奥が半蔵門の所です。

 この付近は、彼岸花も多く咲きますが、しかし、ここも、白い彼岸花が1本だけ、ちょこんと咲いていました。

 桜田濠は、ここで大きく東に向きを変えます。桜田門の近くから、上の写真の撮影場所を見た風景です。

 ここは、下にある広重の絵が描かれた付近です。今でも桜田濠内側の高い土塁(どるい)は変わりません。
 昨年は、9/29になっても、まだ彼岸花は「ちらほら咲き」です。
 わずかに赤い彼岸花がまとまって咲いていましたが、距離が遠い上に、昨年平成24年は、桜田濠の石垣保存修理工事(写真左の工事船)が行われていましたので、写真になりませんでした。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第54景 外桜田弁慶堀糀町」(夏景)です。

 桜田門(右後方の絵の外)のある方向から、桜田濠(江戸時代は、弁慶掘(べんけいぼり)と呼ばれた)の奥にある麹町(こうじまち、江戸時代は糀町(こうじまち)と呼ばれた)方面を望んだ風景です。
 夏景ですので、緑の木と青い濠のコントラストが目を引きます。左下に武家の人が歩いていますが、城への登城路でした。大名行列も通ったそうです。

 とりあえず、手前に白い彼岸花がありましたので、なんとなく、それらしく構図を作ってみました。俯瞰と水平アングルの違いはありますが・・・・

 赤い彼岸花の撮影が目的ですし、開花前のつぼみの彼岸花が多いので、再度、出直しです。

 10/5になって、やっと、彼岸花が満開に近くなりました。(非常に開花の遅い年でした。)
(絵画調)

 半蔵門側から桜田門側を見た風景です。お昼前なので、逆光気味なのですが・・・

 彼岸花が多く咲いている場所を見つけました。彼岸花が日陰になっているので、明暗比が大き過ぎます。
(絵画調)

 いつも、ここに来る方に聞いたら、例年より花は少ないそうです。なんでも、役所(宮内庁か?)が草刈りをしたとのことでした。(全く刈らないと、草ぼうぼうで、最後は、つる植物が繁茂してしいますので、判断できませんが??)・・・

 午後になると、日陰が増えてくるので、彼岸花に光が当るのを待って、撮影しました。画面の奥が半蔵門です。 

 この写真を、広重の名所江戸百景「第51景 糀町一丁目山王祭ねり込」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 一応、補足説明に、皇居周辺の地形図を載せておきます。(黄色が台地、水色が低地で、緑色が中間の高さ)
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(東京皇居周辺)を使用しました。」

 江戸城は、太田道灌(おおたどうかん)により、武蔵野台地の東端に造られた城でした。
 真ん中の江戸城(皇居)を囲む濃い青色が、内堀です。左(西)側にある門が半蔵門、下(南)にある門が桜田門です。その間の濠が桜田濠(江戸時代の弁慶掘)です。
 現在、弁慶濠と呼ばれている濠は、図の左外にあります。(こちらついては、「名所江戸百景039 第85景 紀ノ国坂赤坂溜池遠景 江戸城の外濠(2)」の方を参照願います。)

 最後に、皇居の内堀沿いは、現代の都心では、ほとんど見られなくなった野草の咲く貴重な場所です。
 彼岸花の咲く数が減ったのは、色々な理由があるのでしょう。
 過去には、内堀の斜面を整備して、人が休める殺風景な芝生に植えかえようという計画もあったそうです。
 写真のように都心では珍しい草花が今も残る場所を、無粋な発想で壊して欲しくないと、「くまドン」は思います。

 もう一つは、思うように撮影できなくても、草地には足を入れないで、歩道から撮影しましょう。
 (足で踏んで地面が固めると、土の中に酸素が入り難くなって、植物が育ち難くなり、花の数が減っていきます。)
 花が小さいなら、データサイズを最大にして、撮影した画像データをトリミング(画像の切取り)するのも方法です。
 いつまでも、きれいな景色と花が見れるように、皆さまの協力をお願いします。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。
 今回の3連休は台風が来て残念でした。被害に遭われた方、お見舞い申し上げます。
 15日の東京国体のボート競技も、決勝が荒天で中止になり、決勝各チームが同時優勝になったと、新聞には書いてありました。「くまドン」は3連休は仕事と台風で撮影不可能でしたが、15日の夜には、平井駅前にあった祭りの提灯が片付けられていました。16日は子供神輿という情報があったのですが、台風が来ていたので、中止でしょうね・・・(確か今年は、4年に一度の本祭りなので、残念)。

 「くまドン」がブログを初めて載せた日から、今日で半年となります。桜の開花が早過ぎて、最初から、ドタバタ状態で、今日までブログ作成を続けてまいりました。気がついてみれば、名所江戸百景「くまドン版」の確定数も50を超えて、半数近くなっています。色々な人に助けられて、応援していただき、今日までやってこれました。ブログを見ていただいた方へ、「ありがとうございました」と御礼申し上げます。

 引き続き、ここ数回は、同じ日に撮影した桜田門・皇居外苑や日比谷周辺の予定です。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ