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箸墓古墳とホケノ山古墳

2015-05-16 12:40:24 | Weblog
箸墓古墳は、宮内庁により、第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の墓とされている。
倭迹迹日百襲姫命は、崇神天皇の叔母で、巫女であったが、大物主神(三輪山の神)の妻となった。
このへんは登場人物が実在するかどうかも分からない神話の世界である。
一方で、箸墓古墳は、卑弥呼の墓としての方が有名である。
邪馬台国論争では畿内説と九州説が争われているが、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が当然のように地元では受け入れられている。
箸墓古墳が卑弥呼の墓とする説の弱点は年代であり、箸墓古墳が初期の古墳であるにせよ、その前の卑弥呼とは年代が合わないとされる。
箸墓古墳のすぐ近くにホケノ山古墳というのがあり、こちらの方が箸墓古墳よりも古い。
そこで、ホケノ山古墳が卑弥呼の墓とする説もある。
邪馬台国について記述している魏志倭人伝で、対馬、壱岐、糸島、博多までの径路ははっきりしているが、問題はそのあとの邪馬台国に至る径路である。
陸行、水行と記された行程を単純に足すと辻褄が合わなくなるため、どこが間違っているかで邪馬台国の場所が変わってくる。
邪馬台国については、松本清張など多くの人が本を書いており、畿内説にせよ九州説にせよ、まさに古代の一大ミステリーである。
ついでに言うと、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」というのがある。これはとても的を得た画期的な学説で、実際基本的にはその通りであろうと僕も思うが、日本民族の純血性とか万世一系の天皇家の正当性などの感情論、思想論といった、歴史的事実の客観的推論とは別の次元が入り混じった観点から、学説としては否定されている。
記紀に記された初代天皇・神武天皇は、九州から東征し奈良の地に至って橿原を都と定め、天皇に即位している。
つまり、いったん九州で基盤を固めたあとで奈良に本拠を移したわけで、奈良が最初から王朝の土地ではなかったということである。
書き出すときりがないので、このへんでやめておこう。


箸墓古墳









ホケノ山古墳は農家・農地に囲まれたちょっと丘状の草叢といった感じで、その近くにあった巨木
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