きままなドライブと写真、そして映画

晴れの日はドライブ・写真、雨の日は映画、曇りの日は・・・迷う

難行苦行の季節

2021-07-22 14:01:19 | Weblog

緊急事態宣言やらまん延防止ナンチャラやら不要不急外出抑制やらで、すっかり出不精が身についてしまった。
自宅からウォーキングに出かけたり、必要な買い物をしたり、食事に出たりする以外は、ほとんど出かけない、というか、出かける意欲が湧かない。
つまり、今やカメラ4台とレンズ9本は防湿庫の肥やしとなっている。

毎日30度を超える暑さが、さらに出不精に拍車をかける。
暑がり汗っかきの僕は、歩き始めて10分ぐらい経つと汗が噴き出し止まらなくなる。
汗を拭いても拭いても次々に湧き出してきて、この時期の1
日1万歩ウォーキングは難行苦行だ。。
まして、夏の強い日差しのなかで歩けば、熱中症になってしまいそうだ。

福岡都市高速の高架の下の歩道は、夕方4時30分ぐらいから高架の影に覆われるので、直射日光を避けてウォーキングができる。


日陰を歩いても大量の汗をかくことには変わりなく、紺のポロシャツに浸み込んだ汗が乾いて白い模様になるほどだ。
汗をかきながら歩くだけで疲労感を覚えるが、そんな時にはやっぱり僕の行進曲、カイリー・ミノーグの音楽が元気づけてくれる。
いろいろ聞いてみたけど、やっぱり軽快なリズムのカイリー・ミノーグになってしまう。

65歳以上を対象にしたワクチン接種申込受付が5月に開始されたが、受付開始時刻からわずか30分遅れただけで予定していた会場は受付終了となっていた。
結局、別の会場で7月の予約しか取ることができず、7月
3日に1回目を終了。24日に2回目を予定している。
7月になってしまったのは、大きな会場の方が注射直後に異変が起きた場合に対応できる体制ができていると、ある医師が言っていたので、大きな会場にこだわってしまったせいかも。
ワクチン不足が言われているが、今のところ福岡市から延期の案内は来ていないので予定通りなのだろう。
最近になって、ファイザー社のワクチンは6ヶ月しか効果がないので3回目の接種が必要とか言われている。
ワクチン接種が終われば、少しは安心して外に出れるのかもしれない。



削除した記事の写真から

箱館山ゆり園 滋賀県高島市 2010年7月19日撮影
滋賀にいる時はほぼ毎年訪れていた。
あまり日陰がないので、熱中症寸前になるくらいに暑い。
ほかの年の方がいい写真があったが、差し替え面倒なので。











コメント (4)
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最近見た映画

2021-07-14 10:02:47 | Weblog

新作映画は TSUTAYA  DISCAS のレンタルで見ている。
しょーもない映画で無駄な時間を過ごさないよう、週間ランキングとクチコミを見て何を見るか決めていたが、これが今は全然通用しなくなった。

邦画は基本見ないが、ランキング上位にあがる新作洋画のレベルがどんどんひどくなっている。
「つまらない」「見るに堪えない」とか酷評されている映画がなぜ上位に入ってくるのか、ランキングの基準がわからない。

最近見た映画で、ちゃんとしたまっとうな映画は「キーパー ある兵士の奇跡」。


第二次世界大戦の前線で捕虜になったドイツ兵が、イギリスの捕虜収容所に送られ、戦後、その地元のサッカーチームでゴールキーパーとして活躍する。
敵国ドイツに対する憎悪感情に囲まれながら、ゴールキーパーとしての才能とその人柄によって徐々にイギリス人にも受け入れられるようになってゆく。
地元チーム監督の娘に恋をし、最初は拒絶的だった彼女も心を惹かれるようになって、やがて結婚。
いろいろな苦難を乗り越え、イギリス・サッカーの国民的英雄となる、心温まる実話もののサクセス・ストーリー。
いい映画だ。
でも、ランキングでは、溢れかえるおバカ映画のずーっと後ろの172位。
見る人も少ないまま埋もれてしまっていくには勿体ない映画だと思う。

もうひとつ、「オフィシャル・シークレット」もまあまあ面白かった。



これも実話。イギリス諜報機関に勤める女性職員が、イラク戦争を始めるための違法工作を知り、義憤にかられてマスコミにリーク。
それでも、大量破壊兵器があることを理由に米英はイラク戦争を始め、女性は情報漏洩の罪で裁判を受けることになる。
キーラ・ナイトレイ熱演。
こちらは、ランキング81位。

かつては映画といえば洋画が主流だったが、今は完全に邦画が主流だ。
そんななか、洋画がランキング1位と2位を占めるなんてことは滅多にないことで、思わずその2本をレンタル・リストに入れた。
ややあって、ふと考えてみると、ランキングで映画を選ぶのはやめていたはずだった。
調べてみると2本とも日本では劇場公開されてないらしく、クチコミの評判もたいしたことはない。
あわてて取り消そうとしたが、後の祭りだった。

ランキング1位は「リトル・シングス」



デンゼル・ワシントン主役で期待したし、途中までけっこう引き込まれたが、結末部分でしらけてしまった。
優位に立っているはずの刑事がなんで殺人容疑者のいいなりになって体力を消耗するような土掘りをするんじゃー。

さらにひどかったのが2位の「ロックダウン」


そもそも新型コロナのロックダウンっていう閉塞的な感じでスタートしているせいか、冒頭からウダウダとして映画に感情移入できず、だんだん見続ける耐久限度を超えてしまって鑑賞中止。
主演アン・ハサウェイなのに。
「魔女がいっぱい」もイマイチだった。
彼女はやっぱり「プラダを着た悪魔」が一番輝いていたなー。

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福岡都市高速 ももち地区を走る

2021-07-06 10:05:32 | Weblog

コロナ騒ぎに梅雨入りで、写真を撮りに行く意欲も湧かず、ひまつぶしにドラレコの動画を編集してみた。
写真現像ソフト Lightroom や Photoshop より動画編集ソフトの習熟の方が進んでるかもしれない。

シーサイドももち地区は、都市景観形成地区として、地区全体の景観を重視した街造りが行われ、外国のような雰囲気になっている。
子供の頃は百道海水浴場と言って最も近い海水浴場だった。
この地区のシンボル的建物は、福岡ドーム、ヒルトンホテル、福岡タワーであり、福岡都市高速を走ると、この三つが眼前に現れる。


夜景写真付き

                      

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父のこと

2021-07-02 18:01:33 | Weblog

父の学生時代の部活動は

ラグビー部


別のラグビー部の写真の裏に、選抜で甲子園に出場と書かれていた。

アイスホッケー部


当時のアイスホッケーはプロテクターがなかったようだ。
カップを持ってる人がいるので、何かの大会で優勝したのかもしれない。
この地では、水をまけばスケートリンクができると父が言っていた。

水泳部



ハーモニカ部


ハーモニカだけの部があるのに驚く。

陸上もやっていたと父が言っていたので、スポーツ万能だったようだ。

音楽も好きで、ギターが弾けた。


着ているものを見ると、おしゃれでもあったことがわかる。



そして、写真が趣味だった。
憲兵時代に首からカメラを下げている写真がある。
仕事で使用していたようだ。



これは多分復員してからと思われる。



自宅には暗室があり、僕が中学の時、現像、焼付、引伸ばしを教えてくれた。
父が初めてくれたカメラがオリンパスペンだった。
以後、父のお古のカメラをもらった。
大学生の時はニコンの一眼レフカメラを持っていた。

父は手先が器用で、時計やカメラの修理は玄人はだしだった。
実際、近所の写真館から時々カメラの修理が持ち込まれていた。
父にとっては修理自体が楽しみだったらしく、修理代も取らないなんて人が良すぎると母がこぼしていた。

父は山が好きで、地元の福岡山岳会という会に入っていた。
父が、まだよちよち歩きの僕をリュックに入れて登山したのが、僕の初めての登山だった。
まだ小さな子供の僕を連れて福岡山岳会の登山に参加した写真が数枚あるが、僕自身は覚えていない。


この写真の背景の文字は「福岡県登山体育大会 第〇回 国体登山予選」と読める。
登山で何を競うのだろう。それに、何かを競うような雰囲気のないユルーイ雰囲気はなんなんだろう。

太宰府天満宮の近くに宝満山という山がある。
小学生の時から毎年、父と宝満山に初日の出を見に登った。
大晦日の夜、太宰府天満宮参道の店で年越しそばを食べてから出発する。
けっこう雪の日が多かった。雪が積もっている時もあった。
大人の父は完全防備の登山靴。子供の僕はズック。これで日の出までの寒い夜を過ごすのは不公平だと、子供心に思った。
最初は父と二人だけだったが、中学生になると同級生や従兄が参加するようになって賑やかになった。
やがて靴も登山靴を買ってくれた。
標高は低いが、石段が延々と続くのでけっこうハードな登りだ。
高校生になると、石段を登りながら、体力的に父を追い越したことを実感した。

運動能力も手先の器用さも残念ながら僕には遺伝しなかった。
写真への興味を抱かせてくれ、登山の楽しみを教えてくれた父だったが、子供の頃からずっと父には反抗的な態度をとってきた。
東京で一人で学生生活をするようになって、はじめて親のことを客観的に見ることができるようになり、それまで理解しようともしなかった父の人生が理解できたように思えた。
ずっと反抗的だったことを申し訳ないと思った。

夏休みに帰省すると、父と晩酌を共にした。
父は僕を上回る大酒飲みだった。

父が肝臓癌で亡くなったのは、僕が30代半ば、新宿支店勤務で、子供たちがまだ幼稚園の時だった。
もういよいよだからと連絡があって帰省し、徹夜で見守った明け方だった。




歌声が心にしみる・・・
                   











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