山藤先生の書籍で、「ヘタウマ文化論」というものがあります。
ヘタウマが増えてきて、ウマいというのではなく、面白いという基軸が出来たという主旨だったと思います。
けれど、今はヘタヘタ、本当にヘタな人が喜ばれている気がします。
そして、一般の人にはもしかしてヘタウマ、ウマヘタ、ヘタヘタの区別はつかないのではないかと感じています。
この不思議なスパイラルは、「ヘタとウマい」というベクトルと「面白いつまらない」の二つのベクトルだけでは、解決しないのではないかと思っています。
正直言って、私は絵がヘタです。けれど一般レベルで考えると、似顔絵の講師もしているくらいですから、かなりウマいとなってしまいます。
この「ウマい-ヘタ」と「面白い」以外の評価できる価値観を、一般の人たちが見いだせるようにならなければならないと考えます。
不思議なことに「リアル」というのは、一般的には評価されているようです。
この(一般に評価されているほうの)リアル以外の、ヘタウマなども評価できるようにはならないか。
さらに、その状態(ヘタヘタである。リアルであるなど。)の表現の人を、その人が理想とする価値観の表現へと導くことはできないか。
そんなことを思っています。
しかし、「有名人の似顔絵」となってくると、「アートを詳しく知らず、リアルの価値観しかない人たち」のことを考えると、どんな表現を試みても「悪意のある」「心がこもっていない」「失礼」などという誤解を与えてしまうと考えます。
そこで、クロッキーやデッサンなどで、私自身が色々な「見る」という行為を試みることによって、「みなの言うリアル」ではない、数多くのリアリティーをグラデーションのようにつなぎ、かつ言語化も試み、似顔絵の指導できるような状態を夢見るのです。
その目標は、私にとっても「似顔絵の救い」ではありますが、今は「答えは無い」という空虚で虚しい空間です。
その空間が、光に見えてくるのではないかと、僅かな期待を持っているのです。
ヘタウマが増えてきて、ウマいというのではなく、面白いという基軸が出来たという主旨だったと思います。
けれど、今はヘタヘタ、本当にヘタな人が喜ばれている気がします。
そして、一般の人にはもしかしてヘタウマ、ウマヘタ、ヘタヘタの区別はつかないのではないかと感じています。
この不思議なスパイラルは、「ヘタとウマい」というベクトルと「面白いつまらない」の二つのベクトルだけでは、解決しないのではないかと思っています。
正直言って、私は絵がヘタです。けれど一般レベルで考えると、似顔絵の講師もしているくらいですから、かなりウマいとなってしまいます。
この「ウマい-ヘタ」と「面白い」以外の評価できる価値観を、一般の人たちが見いだせるようにならなければならないと考えます。
不思議なことに「リアル」というのは、一般的には評価されているようです。
この(一般に評価されているほうの)リアル以外の、ヘタウマなども評価できるようにはならないか。
さらに、その状態(ヘタヘタである。リアルであるなど。)の表現の人を、その人が理想とする価値観の表現へと導くことはできないか。
そんなことを思っています。
しかし、「有名人の似顔絵」となってくると、「アートを詳しく知らず、リアルの価値観しかない人たち」のことを考えると、どんな表現を試みても「悪意のある」「心がこもっていない」「失礼」などという誤解を与えてしまうと考えます。
そこで、クロッキーやデッサンなどで、私自身が色々な「見る」という行為を試みることによって、「みなの言うリアル」ではない、数多くのリアリティーをグラデーションのようにつなぎ、かつ言語化も試み、似顔絵の指導できるような状態を夢見るのです。
その目標は、私にとっても「似顔絵の救い」ではありますが、今は「答えは無い」という空虚で虚しい空間です。
その空間が、光に見えてくるのではないかと、僅かな期待を持っているのです。