紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

闇の鑑賞

2006-01-05 23:20:59 | 芸術
まだあまり美術館で絵を見る習慣がなかった頃、美術を習っていた友人が、絵の見方として、「画家がどんな気持ちで書いたのかを想像しながら見ればいい」とアドバイスしてくれた。以来、絵画を見るたびに画家の心象風景を想像するくせがついてしまった。クラシック音楽を聴くときは、いわゆる「絶対音楽」というか、標題性の無い音楽が好きで、ヴィヴァルディの『四季』とか、ムソルグスキーの『展覧会の絵』といったあからさまに標題的な音楽はあまり好きでないのだが、絵をどう見たらいいのか、わからなかった時にこの鑑賞法はとても有益だった。

芸術作品を芸術家と結びつけて鑑賞するスタイルにはもちろん批判もある。作家の村上龍がランボオの詩集『地獄の季節』(集英社文庫版)に寄せた解説で、「ランボオの詩から、ランボオのことをイメージするのは不可能だ」として、「私達日本人は、ヒマをもてあましているため、作品と作者の生き方を重ねるという、センチメンタルな愚を犯すのが大好きだ。作品は、作者の人生と何の関係もないのだが、根がセンチメントで非科学的なので、ランボオやヘミングウェイに憧れてしまうのだろう」(235頁)と書いていたのを見て、妙にギクリとした。このブログでもそんな文章をいくつか書いたと思う。

それでも懲りずに芸術に芸術家を重ねて楽しみたい人にうってつけの本がある。一冊はもう絶版となった本だが、ドイツの精神医学者ルドルフ・レムケが著した『狂気の絵画―美術作品にみる精神病理』(福屋武人訳、有斐閣選書、1981)である。この本は精神病理学の立場から、様々な精神障害の傾向が表れていると思われる絵画を分析しており、ゴヤ、デューラー、ムンク、シャガール、ピカソ、エルンスト、クービン、クレー、ゴッホなどの、合計109もの絵画が解説されている。抑うつ、異常嫉妬、嗜癖、性的異常、夢幻体験、知覚障害など、様々な病理現象が絵解きされていき、フロイト的な解釈が加えられているのだが、はっきりと異常性を感じられる、不気味な絵画ばかりとりあげられているのが残念なところで、「狂気の絵画」でない、普通の絵画の深層心理の分析の本があれば、なお面白いかもしれない。右に掲げたのは、本書で取り上げられているアルフレッド・クービン(1877~1959)の『人間』(1901)という作品で、レムケによると「夢幻様の典型的な状態である『放心状態』、『抑えがたい状態』、『心の騒擾状態』といったものを表現しようとしている」(113頁)とのことである。ムンクの『叫び』のような誰でも知っている絵もいくつか取り上げられている。

もう一冊はまったく別のテーマだが、同じく作者の心の闇を解明していると言う点で、梅原猛の『地獄の思想』(中公文庫版、1983)を挙げてみたい。文庫版でも20年前、最初に公刊されたのは1967年というから、ここで取り上げるまでもなく、読まれた方も多いと思うが、表向きは日本における「地獄」思想の展開を追うというテーマでありながら、実質的には梅原流の日本文学史となっている。

仏教学や日本宗教史の研究者の間では実証性の点で、梅原仏教学に対する批判が根強いらしいが、よい書評の条件が原書を読む気にさせることだとしたら、これほど刺激的な古典のガイドブックは無いかもしれないと思うほど、思い入れたっぷりの文学史になっている。

梅原はここで、『源氏物語』、『平家物語』、世阿弥の能、近松の浄瑠璃、宮沢賢治、太宰治の小説などのよく知られた作品を取り上げながら、それぞれに描かれた煩悩と我執と、それによってもたらされた心の中の「地獄」像のあり方を読み取っている。文学作品の現実的な「効用」の一つが、心の苦しみを登場人物に投影し、疑似体験することで、人生において実際に体験する苦悩への耐性を涵養していくことだとすれば、カビの生えたような日本の古典作品も十分「役立つ」ことを実感させられる名解説ぶりである。

若い読者が読むと、梅原の太宰への強すぎる共感や行間に垣間見られる恋愛、というか女性に対するルサンチマンの深さに違和感を覚えるかもしれないが、本書を読むと、高校の古文や大学の一般教養科目(今の言い方では「全学共通科目」だが)で習って、枯れ切ったイメージしかない日本の古典作品や小説が生々しく、鮮やかな光を帯びて見えてくるに違いない。

絵画にしても、古典文学にしても、芸術作品は必ず何らかの「毒」をもつもので、その「毒」は人の心の闇に根ざしている。そうした点に心を巡らしながら鑑賞する道しるべとして、『狂気の絵画』も『地獄の思想』も大いに役立つだろう。