http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11108566601
なぜな南京大虐殺はなかったという人がいるのでしょう。
mkioookoiiさん 2013/6/1001:53:17
なぜな南京大虐殺はなかったという人がいるのでしょう。
海外でも報道されており、なかったというのは日本人ぐらいですね。
ベストアンサーに選ばれた回答
kouyouchinbutaiさん 2013/6/1012:45:52
その通りです。日本の一部の人たちだけです。南京大虐殺事件は既にあらゆる面から証明されており、まじめに勉強した人は理解しています。そして日本軍の蛮行は南京だけではない。中国各地で殺人、略奪、強姦を繰り広げました。
なぜなかったと言う人がいるのか?どこの誰が書いたか分からないウィキなどを読んでそう思う人、日本が悪い事をするわけがないと言い張る人、、、色々ですが、共通しているのは、例外や枝葉末節を大げさに言い立ててそれを全体に当てはめる、都合のいいところだけ取り出して全体像をゆがめる、というのが多いですね。
例えば、人口20万の南京で30万も殺せるはずがない、と。南京の人口が当時20万だったという記録はどこにもない。中国の首都南京の人口130万。日本軍が迫ってきたので80万が逃げ、残ったのが50万。当時の南京市長の報告があります。そしてこの調子だと難民が20万ほど増える、と。この報告は南京戦の前のもので、南京市長がウソをつく理由はない。「否定派」はその20万を取り出して騒ぐ。20万は人口ではなく、予想される難民の数です。残った人口が50万、南京守備の中国軍が15万。30万殺そうと思えば殺せた。実数は永久に分からないでしょうが。
名古屋市長の河村は「私の父親は中国へ兵隊で行っていたが、戦争が終わって帰国する時、中国人の老人に親切にしてもらった。南京大虐殺など無かった証拠だ」と言いました。一体何を考えているのでしょうね。日本軍による残虐な侵略戦争が終わってほっとしているたった一人の老人が南京大虐殺が無かった証拠になるとは驚きですね。
南京事件発生当時の日本は軍主導の報道管制で国民の知らせる権利、知る権利はありませんでした。すべてが陸軍報道部の指導によるヤラセ記事ばかり。日本軍による残虐事件が報道されるわけがない。「否定派」はそういう事も知りません。
しかし当時南京にいた外国報道班員たちは早速本国に報告し、海外では大きな反響をよびました。知らなかったのは日本人だけ。しかし帰還兵たちの言い伝えで、中国でいかにひどい事をしてきたかがチビチビもれ伝わっていました。しかし軍の厳しい管理でせいぜい裏のウワサ程度。それが一挙に知られたのは東京裁判です。被告である南京攻略軍総司令官の松井石根大将はまったく反論出来ず、せっかく付けてもらった日本人の弁護団が困ってしまったそうです。ちなみに、ラーべ(南京駐在のナチス党員)は東京裁判には出ていません。
別に海外に教えてもらわなくても、当時の大日本帝国の将軍たちや南京攻略戦に参加した日本兵の証言、従軍日誌などがあります。そのほんの数例を紹介しましょう。
南京攻略軍総司令官・松井石根大将の言。東京裁判で死刑になる直前のコメント
「南京事件はお恥ずかしい限りです、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った、せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった」
日中戦争で軍司令官、師団長として戦った澄田中将の回想録
「日本軍は事変の出だしから隠れもないあの南京虐殺事件は論外としても、残念ながら略奪、放火、殺人、強姦など、あらゆる悪行のし放題と言ってよい」
陸軍省人事局長・阿南少将(のち大将、陸軍大臣)南京視察メモ
「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、略奪たえず」「「婦人方面(注:強姦の事)、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり」
第11軍司令官・岡村寧次中将(のち大将)の回顧録
「派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺すの悪弊あり。南京攻略時において約四、五万に上がる大殺戮、市民にたいする掠奪強姦多数ありしことは事実なるがごとし」
南京大虐殺事件の中心人物・中島今朝吾第十六師団長の従軍日誌
「佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、、、」「大体捕虜はせぬ方針なれば片端よりこれを片付ける事となし(「処理」「片付ける」は正規の戦闘以外で捕虜を虐殺すること。「武装解除」だという人は軍事知識がない)
山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記
「二、三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出して機関銃をもって射殺す。その後銃剣にて思う存分突き刺す。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りも子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた」
昭和天皇の弟・三笠宮(陸軍士官学校出身)の自伝
「一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補せられ南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例をあげられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考えください、、、」
(中国人を生き埋めにする日本兵。日本軍の撮影)