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安倍首相の施政方針演説に「白虎隊」の違和感…明治維新を「1億総活躍社会」に結びつけるな 2018.1.30 東洋経済online 武田 鏡村 

2018-01-31 22:54:46 | 戦前回帰 明治 国家思想

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安倍首相の施政方針演説に「白虎隊」の違和感

明治維新を「1億総活躍社会」に結びつけるな

 
安倍晋三首相は「国の力は人に在り」と、山川健次郎の発言を引用したが…(写真:つのだよしお/アフロ)
 
 
1月22日、安倍晋三首相は施政方針演説の冒頭、会津藩(福島県)の白虎隊(びゃっこたい)出身で東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(1854~1931年)を引き合いに出し、「あらゆる日本人にチャンスをつくることで、少子高齢化も克服できる」と1億総活躍社会の実現に意欲を示した。
長州(山口県)出身の安倍首相からすればいわば「敵方」である会津出身者をなぜわざわざ施政方針冒頭で紹介したのか。『薩長史観の正体』の著者である武田鏡村氏に解説していただいた。

まったく「寛容」ではなかった明治新政府

安倍首相は1月22日の施政方針演説を、「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。しかし、明治政府は、国の未来のために、彼の能力を生かし、活躍のチャンスを開きました」と始めた。

これだけ聞くと、長州と薩摩(鹿児島県)が中心となってつくられた明治新政府は、たいへん寛容で、すばらしい人材登用策を実行したと思われるのではないだろうか。敵方であった会津藩士を許し、平等に活躍のチャンスを与えたのだと……。

しかし、史実はまったく逆である。後に述べるように山川健次郎は例外中の例外であり、ほとんどの会津藩士とその家族たちは極めて重い懲罰を課された。

そしてそれを主導したのは、長州の木戸孝允(桂小五郎)だった。

会津藩は、戊辰戦争で降伏した翌年の明治2年(1869)9月、没収された23万石の代わりに3万石を与えられ、本州北端の下北半島に追いやられた。辺境の地に封じ込めることを強硬に主張したのが木戸孝允である。

木戸は、幕末京都での経緯からか、病的なほどに会津藩士を恐れ忌み嫌い、根絶やしさえも考えていたようである。会津藩側も皆殺しにされることを覚悟していたようで、会津人の血を絶やさぬよう、降伏後の謹慎中、最も優秀な2人の若者を逃がした。このうちの1人が山川健次郎なのである。

一方、会津藩士とその家族たち1万7000人は、下北半島に斗南藩3万石が与えられて移り住んだ。

だが、その地は、寒冷不毛で、実質7000石あるかないかと危ぶまれた。木戸は何が何でも生死にかかわる懲罰を会津藩士に下したかったようである。

薩長閥の中で会津出身者として異端視されながら陸軍大将にまで登りつめた柴五郎は、少年期に斗南藩で悲惨な生活を体験した1人である。

柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、それでは足りない。救米に山菜を加えたり、海藻を煮たりするだけでは飽きたらず、馬に食べさせる雑穀など、食べられるものは何でも口にした。

塩漬けにした野良犬を20日も食べ続けたこともあった。最初はのどを通らなかったが、父親から、「武士は戦場では何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長(さっちょう:薩摩と長州)の下郎(げろう)どもに笑われるぞ」と言われて我慢して口にした。

住まいの小屋には畳はなく、板敷きに藁(わら)を積んで筵(むしろ)を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹きつける寒風で炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で藁にもぐって寝るが、少年・五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるかわからない病状になった。

こうした困窮の生活で病気になって亡くなる人も少なくなかった。藩の権大参事の山川浩(山川健次郎の兄)は、明治政府や会津の旧庁に救済を願い出たが、はかばかしい結果ではない。「これが天子さまの寛典なのか」といった憤激の声が洩れる。廃藩置県で斗南藩は消滅し、やがて旧会津藩士とその家族は四散していく。

「寛容」とは正反対の、明治政府による「会津処分」であった。

「賊軍」出身者に対する差別

『薩長史観の正体』で詳述したように、武力によって強引に推し進めて勝ち取った明治維新は、薩長側の暴力と強奪、人身毀損の数々の凶行で成り立つものであった。

そうして誕生した明治新政府も、「薩長政府」といわれるように、薩摩と長州の出身者に牛耳られた。当初は、薩摩のほうが力をもっていたが、「西郷どん」の西南戦争で薩摩が賊軍となると、長州のほうが優勢になっていく。長州出身の伊藤博文が初代首相になって以来、長きにわたり首相はほとんど長州と薩摩の出身者で占められている。

ちなみに明治維新150年目の今年、首相は長州出身の安倍晋三だが、50年目は寺内正毅、100年目は佐藤栄作と、節目の年は、すべて長州出身の首相で占められている。

一方、会津など「賊軍」出身者は、政官界で差別され、立身出世の道を閉ざされた。長州陸軍、薩摩海軍といわれるように軍部でも薩長閥は強く、賊軍藩出身者は出世などで差をつけられた。この辺は半藤一利氏と保阪正康氏の対談集『賊軍の昭和史』に詳しいが、賊軍差別の傾向は昭和の時代にまで続いたという。

安倍首相は、施政方針演説での冒頭の言葉の後、山川健次郎が東京帝国大学の総長に登用されたことなどにふれ、「身分、生まれ、貧富の差にかかわらず、チャンスが与えられる。明治という新しい時代~」と、人材活用の面でも優れた時代だと位置づけている。だが、以上のように明治は、「1億総活躍社会」のお手本にするような立派なものではけっしてなかったのである。

にもかかわらず、安倍首相、おそらくは周辺の人たちは、なぜ白虎隊出身の山川健次郎のことをことさら引き合いに出して、強引に明治時代を賛美するようなことを言うのか。

その背景には、今年、「明治維新150年」を迎え、その記念事業に政府が前のめりなことがあるのではないだろうか。

政府は記念事業にたいへん積極的で、内閣官房に「明治150年」関連施策推進室が設けられた。菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。昨年8月には、明治維新150年のロゴを決定したと政府は発表した(選考会座長:佐藤可士和)。安倍首相も、今年1月1日の年頭所感で「本年は、明治維新から150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛している。

『薩長史観の正体』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

だが一方で最近は、逆に、明治維新のありように異議を申し立てる書籍が相次いで刊行されている。書店の歴史コーナーでは『明治維新という過ち』『明治維新という幻想』『偽りの明治維新』『明治維新という名の洗脳』『明治維新の正体』『東北を置き去りにした明治維新』といった明治維新に批判的なタイトルが目立つ。

薩摩と長州がつくりあげた歴史観――薩長史観に疑問を投げかける声が大きくなっているのだ(参考:なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)。1月9日のテレビ朝日「グッド!モーニング」“池上彰のニュース大辞典”でも、薩長史観に異議を唱える本がよく売れていると報道されていた。

このような状況下では、政府もさぞや「明治維新150年記念事業」をやりにくかろう。

「薩長史観」に異をとなえた山川健次郎

そこで、会津藩の白虎隊出身でありながら、会津藩士・秋月悌次郎と親交のあった長州藩士・奥平謙輔に預けられ、後に国費留学生に選ばれて東京帝大総長にまで登りつめた山川健次郎のことを、ことさらに引き合いに出したのではないだろうか。

そして、人材登用にも公平な、すばらしい「明治」と美しく飾り立てようとするのではないか。

確かに長州藩士でありながら彼を預かった奥平のことは高く評価すべきだろう。だが、こうしたことはごくごくまれな例外であり、会津藩やその他賊軍とされた側には多くの血涙史があったことを忘れてはいけない。

山川自身も、後に兄・浩が残した『京都守護職始末』を完成させ、天皇に忠義を尽くした幕末会津藩の立場を明らかにした。薩長史観に異論を唱える嚆矢(こうし)となったのである。

明治維新とそれに続く明治は、安倍首相が施政方針演説で述べたような美談だけで済ませられるものではないのだ。

 

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半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 | リーダーシップ

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2018/01/09 - なぜ、明治維新の「常識」を覆すような書籍が次々と刊行されているのでしょうか。よく用いられる「薩長史観」という言葉があります。明治維新の際の勝者である薩摩・長州(薩長)の側からの歴史解釈ということ…

 

 

 

 

 

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黒田日銀総裁がデフレ脱却宣言できない本当の理由 2018.1.30  天木 直人

2018-01-31 22:20:02 | 経済 金融

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黒田日銀総裁がデフレ脱却宣言できない本当の理由

新党憲法9条http://kenpo9.com/archives/3199

2018年1月30日  天木 直人

 きょう1月30日の、朝日新聞の「波聞風問」というコラムで、原真人編集委員が、なぜ日銀の黒田総裁はいつまでたっても脱デフレ宣言が出来ないのか、その本当の理由を次のように見事に喝破した。

...

 「政府・日銀が掲げる2%インフレ目標が未達成だから、というのが政府・日銀の公式見解だ」と

 
 「ただ、その理屈は苦しい。なにしろ政府も日銀も『景気は拡大中』と言っている」からだと。

 そう書いた上で、次のように解説して見せてくれている。

 「宣言できない本当の理由は異次元緩和を終わらせられないからだ」と。

 「日銀は異次元緩和の一環で国債と株式ファンドを大量に買い続けている。いまや苦しい政府の借金財政を支えるのも、株価の高騰を下支えしているのも日銀だ。日銀がこれらの政策をやめたら、あるいは購入量を減らしただけでも、間違いなく国債価格と株価は急落する。(それを)避けるには政策継続しかない」のだと。

 「ただ、国債や株を永遠に買い支え続けることはできない。『正常化』を先送りすればするほど反動は大きくなる。だが高株価とゼロ金利の微温景気にどっぷりつかった安倍政権にその気はなさそうだ。日銀自身もいまや引くに引けなくなった。みずから引いてショックを起こせば戦犯と見なされる。ならば動かぬが得、と決め込んでいる」のだと。

 まことに深刻な状況なのだ。

 しかし、実はこのような指摘は、いまやアベノミクスに批判的な者たちが至るところで指摘していることだ。

 そして、その反論もまたなされている。

 そして、そのような経済専門家の議論は、一般国民を置いてけぼりにしたまま、いつまでたっても平行線のまま深まらない。

 国民はどちらが正しいのかわからず、判断ができないまま、安倍政権は続き、黒田総裁は日銀総裁を続ける。

 それはあたかも安保政策論争や憲法9条改憲論争と同じだ。
 誰かがその悪循環を断ち切らなければいけない。

 本来は、それこそが、与野党の政治家の最大の課題であるにもかかわらず、批判や追及はしても、責任を持って安倍政権と反対の政策を掲げて政権を取ろうとする野党は存在しない。

 そして、そのような野党を信じて政権を任せようとする国民は決して多数にならない。

 そんな政治状況の中で、我が国の安全も経済も、どんどん深刻になっていく。

 国民にとっては、どの政党が政権をとっても、誰が首相になってもいいから、何とかしてくれ、という思いに違いない。

 いまや政治家たちは政局などに明け暮れる余裕はなく、国民の為の緊急避難的な大勢翼賛体制になるしかないと私が唱えるゆえんである。

 と、ここまで書いて来て、私はいま売り出し中の、もはや日本は格差社会を通り越して階級社会になりつつある、という本の事を思い出した。

 ここまで国民が二極化しているのである。

 政治が機能しない最大の理由がここにあるのかもしれない(了)

 

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【動画あり】希望・柚木議員が国会で再び詩織さん事件を取り上げ、安倍総理に質問!伊藤さんは傍聴席でじっとやりとりを見ていた / 記事一覧 

2018-01-31 00:33:43 | 命 人権 差別

【絶賛】希望・柚木議員が国会で再び詩織さん事件を取り上げ、安倍総理に質問!詩織さんは傍聴

健康になるためのブログhttp://健康法.jp/archives/38296

公開日: 2018/01/30

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

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安倍首相「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」の大嘘 ~名護市長選に影響必至「それで何人死んだんだ」は政権の共通認識 2018.1.29 ニュースサイトハンター

2018-01-30 22:53:39 | 沖縄

@hunter_invstgtより

ヤジを飛ばした松本文明は更迭されたが、あのヤジは #凶人安倍幕府 の本音だ!

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政治・行政の調査報道サイト|HUNTER(ハンター)

http://hunter-investigate.jp/news/2018/01/-28-22.html

2018年1月29日 08:10

DSC05137--5.jpg 米軍普天間基地所属の軍用ヘリが相次いで事故を起こす中、自民党の松本文明内閣府副大臣が、国会で沖縄問題を取り上げた志位和夫日本共産党委員長の質問中に「それで何人死んだんだ」とヤジを飛ばした。

 松本氏は、沖縄・北方担当副大臣の経験者。沖縄県民の命を軽んずる与党幹部の暴言に批判が集中し、翌日辞任という事態に追い込まれた。官邸の意向が働いたとされ、事実上の更迭だ。


 政府・与党が素早く動いたのは、普天間飛行場の名護市辺野古への移設を争点とする名護市長選挙の告示を28日に控えていたため。選挙戦に突入した名護市では、自民・公明・維新が推す元市議の新人と翁長雄志知事率いる「オール沖縄」が推す現職がデットヒートを展開しており、松本氏の軽率なヤジが、選挙結果に大きな影響を及ぼすものとみられている。

■沖縄県民の命をヤジのネタにした松本文明
000松本.jpg 
 松本文明氏(右の写真)の「それで何人死んだんだ」は、沖縄県民が死ななければ基地問題の議論はできないという自民党的思考の裏返し。“一人二人の命では足りない”と言わんばかりの表現には、思わず耳を疑ってしまった。松本氏は、平成27年10月から昨年8月まで沖縄・北方担当副大臣を務めていた人物。しかも、現在は政府の要である内閣府の副大臣が、基地問題をめぐる沖縄県民の苦衷をあざ笑うかのような暴言を吐いたということだ。政治家である前に人として最低であり、この程度の議員が政務三役の一人として国政を動かしていることは、この国の悲劇と言うしかない。

 根底にあるのは、安倍晋三首相をはじめ自民党の政治家に共通する沖縄蔑視。“本土から離れた沖縄なら犠牲にしても良い”が本音の政府・与党は、基地問題をめぐる沖縄県民の苦衷には目もくれず、米国の意向に沿うことのみに汲々としてきた。その証拠に、首相が任命した歴代の沖縄・北方担当大臣は、とんでもない政治家ばかりだ。

■予算を盾に圧力をかけた沖縄選出の島尻安伊子
島尻安伊子1-thumb-500x203-15349.jpg
 平成27年10月から~28年8月まで沖縄・北方相を務めていたのが、島尻安伊子元参議院議員(現・内閣府大臣補佐官。右の写真が島尻氏)。同氏は大臣在任中、閣議後の記者会見において、“歯舞”が読めずに「千島、はぼ、ええっと、なんだっけ」――。別の会見では、普天間飛行場の辺野古移設に反対する翁長雄志知事の政治姿勢が、沖縄振興予算確保に影響するという考えを示して圧力をかけていた。この時の、記者団とのやり取りの記録が残っている。

記者:また何度も同じ質問で恐縮なんですけれども、基地問題をめぐって裁判に今なっています。そういう翁長知事のスタンスと、あとこの振興予算というのは、影響があるとお考えでしょうか。
島尻:全くないとは考えていません。

記者:先ほど翁長知事の姿勢と振興予算は全く関係ないとは考えていないというふうにおっしゃったんですが、それはこれまでの振興と基地問題はリンクしないという部分とどう整合性を?
島尻:基地問題とリンクはしないと、沖縄振興はですね。これは揺るがないというか、これはきちっと言えることでありますが、この空気感というのでしょうか、そういう意味では、私の中で予算確保について全く影響がないというものではないなと、私自身が感じているというところで、所感といいますか、感じたところをお話しさせていただいたということです。

 

 沖縄選出でありながら、予算を盾に首長を締め上げるという自民党の議員らしい汚い脅し。放送法違反が疑われるラジオ番組の中では、「平和」や「基地反対」の声を“向こう側”と揶揄する意見に同調していたほどで、大臣だった島尻氏は沖縄県民の反発をくらい、平成28年の参院選であえなく落選している。

■沖縄を植民地とみなした鶴保庸介
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 平成28年8月に、島尻氏の後任として沖縄・北方相に就任したのが鶴保庸介参院議員(右の写真)。鶴保氏は在任中、“敵意”を剥き出しに沖縄と向き合った。下に問題発言をまとめたが、警察官の土人発言を擁護する一方で、島尻氏と同じように予算削減をチラつかせて沖縄をねじ伏せようと図っていた。鶴保氏にとって、沖縄は「国内」ではなく「植民地」。28年には沖縄に自身の後援会を発足させ、県内から政治資金を吸い上げる仕組みまで作っていたことが分かっている。

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■「沖縄の素人」を自認する江崎鉄磨

 
 昨年8月の内閣改造で、鶴保氏の後を受けて沖縄・北方相に選ばれたのが衆院議員。国会での対応方針を問われた同氏は「沖縄に関しては素人」「しっかりお役所の原稿を読ませていただく。答弁書を朗読かな」と発言し、批判を浴びた。素人を自認する政治家をあてがわれた沖縄は、たまったものではあるまい。

■「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」の大嘘
 
安倍首相は今月22日の施政方針演説で、次のように述べている。

 先月末、沖縄の米軍北部訓練場四千ヘクタールが、戦後、七十年余りの時を経て、土地所有者の皆様の手元へ戻りました。本土復帰後最大の返還です。地位協定についても、初めて、環境と軍属に関する二つの補足協定を締結しました。  これからも、日米同盟の抑止力を維持しながら、沖縄の方々の気持ちに寄り添い、基地負担の軽減に全力を尽くします。米軍機の飛行には、安全の確保が大前提であることは言うまでもありません。米国に対し、安全面に最大限配慮するとともに、地域住民に与える影響を最小限にとどめるよう、引き続き、強く求めていきます。  学校や住宅に囲まれ、世界で最も危険と言われる普天間飛行場の全面返還を一日も早く成し遂げなければなりません。最高裁判所の判決に従い、名護市辺野古沖への移設工事を進めます。移設は、三つの基地機能のうち一つに限定するとともに、飛行経路が海上となることで安全性が格段に向上し、普天間では一万数千戸必要であった住宅防音がゼロとなります。安倍内閣は、米国との信頼関係の下、沖縄の基地負担軽減に一つひとつ結果を出してまいります。

 演説中の『沖縄の方々の気持ちに寄り添い、基地負担の軽減に全力を尽くす』は、沖縄問題について発言する時に出てくる首相の常套句。国会で、記者会見で、辺野古移設を語るときは必ずこのフレーズを使ってきた。しかし、実際の政府の動きはまったく逆。首相の言葉を信じる沖縄県民は少数にとどまるだろう。「沖縄の方々の気持ちに寄り添」う首相が選んだ歴代の沖縄担当大臣が、前述したような愚かなマネをするはずがない。「沖縄の方々の気持ちに寄り添い」という首相の決まり文句は、強権政治を糊塗するため、沖縄ではなく本土の国民に向けたポーズ。真っ赤な嘘と言うべきだろう。

 4年前の平成26年に行われた名護市長選とそれに続く名護市議選、同じ年の沖縄県知事選挙と総選挙、28年の参院選と、「辺野古移設反対」を掲げた候補が全勝した。昨年の総選挙では、沖縄4区を除く3選挙区で自民党が敗北している。民意が「辺野古移設反対」であることは明らかだが、安倍政権はこれを無視して移設工事を強行してきた。「沖縄に民主主義はないのか」という声が上がるのは当然のことだ。沖縄を軽んじる政権の姿勢が、同県と本土の距離を離す結果となっている。

■相次ぐ米軍ヘリの事故―異常事態の普天間基地

 下の表に示した通り、米軍普天間基地所属機が起こした事故は、一昨年12月から今月までの約1年間に13件。そのうち10件は沖縄県内で発生している。

00米軍機事故.png

 27日には北谷町のホテルで、普天間基地所属の海兵隊員が従業員に暴行を加え逮捕されるという事件も起きた。繰り返される米兵による暴力・暴行事件。普天間基地の異常事態は、収まる気配さえない。

 沖縄は太平洋戦争末期に本土の捨て石にされ、国内唯一の地上戦で県民の4人に1人が犠牲になった。戦後は米軍の「銃剣とブルドーザー」に県土の大半の土地を奪われ、米軍基地に「占領」されたままだ。国土の 0.6%に過ぎない沖縄に、国内米軍基地の72%が集中するという現実。県土の2割近くを米軍基地が占める自治体など、沖縄以外にはどこにもない。戦前・戦中、そして現在も本土の日本人は沖縄に冷淡だ。その象徴が、松本前副大臣の「それで何人死んだんだ」ではないのだろうか。名護市長選で苦戦が伝えられる自民系候補にとって、とどめの一撃になる可能性がある。 


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半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」~「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す 2018.1.27 東洋経済オンライン 

2018-01-30 00:00:08 | 戦前回帰 明治 国家思想

半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」

「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す

本来は官軍も賊軍もないのです(撮影:風間 仁一郎)
 
 1月1日、安倍晋三首相は年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛した。政府は「明治維新150年」記念事業に積極的で、菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。
明治維新を主導した薩摩(鹿児島)、長州(山口)などではすでに記念イベントが始まっているが、今年は国家レベルでもさまざまな祝賀事業が行われる見通しだ。
だが、こうした動きに対し、異議を申し立てる論者も多い。『日本のいちばん長い日』『昭和史』などの名著で知られ、幕末維新史にも詳しい半藤一利氏もその1人である。『賊軍の昭和史』(保阪正康と共著)の著者でもある半藤氏に話を聞いた。

(聞き手:加納則章)

「明治維新」という言葉は使われていなかった

――そもそも「明治維新」という言葉が使われたのは、明治時代が始まってからずいぶん後のようですね。

私は、夏目漱石や永井荷風が好きで、2人に関する本も出しています。彼らの作品を読むと、面白いことに著作の中で「維新」という言葉は使っていません。特に永井荷風はまったく使っていないのです。

漱石や荷風など江戸の人たちは、明治維新ではなく「瓦解(がかい)」という言葉を使っています。徳川幕府や江戸文化が瓦解したという意味でしょう。「御一新(ごいっしん)」という言葉もよく使っています。

明治初期の詔勅(しょうちょく)や太政官布告(だじょうかんふこく)などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられていません。少なくても明治10年代までほとんど見当たりません。

そんなことから、「当時の人たちは御一新と呼んでいたのか。そもそも維新という言葉なんかなかったんじゃないか」と思ったことから、明治維新に疑問を持つようになりました。

調べてみると、確かに「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした。

明治14年というのは、「明治14年の政変」があり、薩長(薩摩・長州)政府というよりは長州政府が、肥前(佐賀)の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年です。このあたりから「明治維新」を使い出したことがわかりました。

半藤一利(はんどう かずとし)/作家。昭和5(1930)年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役などを経て作家。「歴史探偵」を自称。『漱石先生ぞな、もし』(正・続、新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞)、『日本のいちばん長い日』、『昭和史1926-1945』『昭和史 戦後篇』(毎日出版文化賞特別賞)、『幕末史』、『山本五十六』、『日露戦争史』(全3巻)、『「昭和天皇実録」の謎を解く』(共著)など著書多数。保阪正康との共著に『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(対談)などがある(撮影:風間 仁一郎)

薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が「明治維新」であることがわかったのです。

確かに「維新」と「一新」は、「いしん」と「いっしん」で語呂は似ていますが、意味は異なります。「維新」は、中国最古の詩集『詩経』に出てくる言葉だそうで、そう聞けば何やら重々しい感じがします。

薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、「維新」の美名で飾りたかったのではないでしょうか。自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。

歴史というのは、勝った側が自分たちのことを正当化するために改ざんするということを、取材などを通してずいぶん見てきました。その後、いろいろ調べて、明治維新という名称だけではなく、歴史的な事実も自分たちに都合のいいように解釈して、いわゆる「薩長史観」というものをつくりあげてきたことがわかりました。

「薩長史観」はなぜ国民に広まったのか

――どのようにして薩長史観が広まったのでしょうか。

そもそも幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、明治政府側のもの、つまり薩長史観によるものです。勝者側が史料を取捨選択しています。そして、その「勝った側の歴史」を全国民は教え込まれてきました。

困ったことに、明治以降の日本人は、活字になったものしか読めません。ほとんどの人が古い文書を読みこなせません。昔の人が筆を使い崩し字や草書体で書いた日記や手紙を、専門家ではない私たちは読めません。読めないですから、敗者側にいい史料があったとしても、なかなか広まりません。どうしても薩長側の活字史料に頼るしかないのです。

そこでは、薩長が正義の改革者であり、江戸幕府は頑迷固陋(ころう)な圧制者として描かれています。学校では、「薩長土肥の若き勤皇の志士たちが天皇を推戴して、守旧派の幕府を打ち倒し新しい国をつくった」「幕末から明治にかけての大革命は、すばらしい人格によってリードされた正義の戦いである」という薩長史観が教えられるわけです。

さすがに最近は、こうしたことに異議を申し立てる反「薩長史観」的な本がずいぶん出ているようですが……。

――子どもの頃、半藤さんのルーツである長岡で「薩長史観」の誤りを感じられたそうですね。

私の父の郷里である新潟県の長岡の在に行くと、祖母から教科書とはまったく逆の歴史を聞かされました。学校で薩長史観を仕込まれていた私が、明治維新とか志士とか薩長とかを褒めるようなことを言うと、祖母は「ウソなんだぞ」と言っていました。

「明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ」

いまでは司馬遼太郎さんの『峠』の影響もあり、河井継之助が率いる長岡藩が新政府軍相手に徹底抗戦した話は有名ですが、当時はまったく知りませんでした。明治維新とはすばらしいものだったと教えられていた私は、「へー、そんなことがあるのか」と驚いたものです。

また祖母は、薩長など新政府軍のことを「官軍」と呼ばず「西軍」と言っていました。長岡藩はじめ奥羽越列藩同盟軍側を「東軍」と言うわけです。いまでも長岡ではそうだと思います。これは、会津はじめほかの同盟軍側の地域でも同様ではないでしょうか。

そもそも「賊軍」は、いわれのない差別的な言葉です。「官軍」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」程度のものでしかありません。正直言って私も、使うのに抵抗があります。

 

「明治維新」の美化はいかがなものか

――幼少期の長岡でのご経験もあり、「明治維新150年」記念事業には違和感があるのでしょうか。

「明治維新150年」をわが日本国が国を挙げてお祝いするということに対しては、「何を抜かすか」という気持ちがあります。

「東北や北越の人たちの苦労というものを、この150年間の苦労というものをお前たちは知っているのか」と言いたくなります。

司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、戊辰戦争は、幕府側からみれば「売られたケンカ」なんです。「あのときの薩長は暴力集団」にほかならない。これも司馬さんの言葉です。

本来は官軍も賊軍もないのです。とにかく薩長が無理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けたわけです。いまの言葉で言えば侵略戦争です。

そして、ほかの東北諸藩は、何も悪いことをしていない会津と庄内を裏切って両藩を攻めろ、法外なカネを支払え、と高圧的に要求されました。つまり薩長に隷属しろと言われたのです。これでは武士の面目が立たないでしょうし、各藩のいろんな事情があり、薩長に抵抗することにしたのが奥羽越列藩同盟だったわけです。

私は、戊辰戦争はしなくてもいい戦争だったと考えています。西軍の側が手を差し伸べていれば、やらなくていい戦争ではないかと。

にもかかわらず、会津はじめ東軍の側は「賊軍」とされ、戊辰戦争の後もさまざまに差別されてきました。

そうした暴力的な政権簒奪(さんだつ)や差別で苦しめられた側に配慮せず、単に明治維新を厳(おごそ)かな美名で飾り立てようという動きに対しては何をかいわんやです。

 

――賊軍となった側は、具体的にはどのような差別を受けたのでしょうか。

宮武外骨の『府藩県制史』を見ると、「賊軍」差別の様子がはっきりわかります。

これによると、県名と県庁所在地名の違う県が17あるのですが、そのうち賊軍とされた藩が14もあり、残りの3つは小藩連合県です。つまり、廃藩置県で県ができるとき、県庁所在地を旧藩の中心都市から別にされたり、わざわざ県名を変えさせられたりして、賊軍ばかりが差別を受けたと、宮武外骨は言っているわけです。

たとえば、埼玉県は岩槻藩が中心ですが、ここは官軍、賊軍の区別があいまいな藩だった。「さいたま」という名前がどこから出たのかと調べると、「埼玉(さきたま)」という場所があった。こんな世間でよく知られていない地名を県の名にするなんて、恣意的な悪意が感じられます。

新潟県は県庁所在地が新潟市なので名は一致していますが、長岡が中心にありますし、戊辰戦争がなければ長岡県になっていたのではないでしょうか。

県名や県庁所在地だけ見ても、明治政府は賊軍というものを規定して、できるだけ粗末に扱おうとしていることがわかります。

また、公共投資で差別された面もあります。だから、賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れたのだと思います。

いまも原子力発電所が賊軍地域だけに集中しているなどといわれますが、関係あるかもしれません。

 

立身出世を閉ざされた「賊軍」藩出身者

――中央での人材登用でも、賊軍の出身者はかなり厳しく制限されたようですね。

賊軍藩の出身だと、官僚として出世できないんですよ。歴史事実を見ればわかりますが、官途に就いて名を成した人はほとんどいません。歴代の一覧を見れば明らかですが、総理大臣なんて岩手県の原敬が出るまで、賊軍出身者は1人もいない。ほとんど長州と薩摩出身者で占められています。

ちなみに明治維新150年目の今年は長州出身の安倍氏が総理ですが、彼が誇るように明治維新50年も(寺内正毅)、100年も(佐藤栄作)も総理は長州出身者でした。

また、明治年間に爵位が与えられて華族になったのも、公家や殿様を除けば、薩長出身者が突出して多いのです。特に最も高い位の公爵と侯爵を見ると、全部が長州と薩摩なんです。

政官界では昭和の戦争が終わるまで、賊軍出身の人は差別されていたと思われるのです。明治以降、賊軍の出身者は出世できないから苦労したのです。

――2013年放映のNHK大河ドラマ「八重の桜」では会津藩出身者の苦労が描かれていましたが、それ以外の負けた側の藩の出身者も差別されたわけですね。

例を1つ挙げれば、神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しています。長岡出身で博文館を創業した大橋佐平という人がいちばん初めに古本屋を開いて成功したのですが、当時、いちばん大きい店でした。その後、大橋が中心となって、長岡の困っている人たちをどんどんと呼んで、神田に古本屋がたくさんできていったんです。

こんな具合に、賊軍藩の出身者たちは、自分たちの力で生きるしかなかったのです。

――『賊軍の昭和史』でもおっしゃっていますが、軍人になった人も多かったようですね。

前途がなかなか開けない賊軍の士族たちの多くは、軍人になりました。

いちばん典型的なのは松山藩です。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で有名な秋山兄弟の出身地です。松山藩というのは四国ですが賊軍藩です。ただ、弱い賊軍で、わずか200人足らずの土佐藩兵にあっという間に負けて降伏しました。

その松山藩の旧士族の子弟は苦労したんです。秋山兄弟の兄の好古(よしふる)さんは家にカネがないから陸軍士官学校へ行った。士官学校はタダですからね。あの頃、タダだった教育機関は軍学校と師範学校、鉄道教習所の3つでした。

弟の真之(さねゆき)さんは、お兄さんから言われて海軍兵学校へ入り直していますが、兵学校ももちろんタダでした。

この兄弟の生き方を見ると、出世面でも賊軍出身の苦労がよくわかります。好古さんは大将まで上り詰めますが、ものすごく苦労しているんです。真之さんも苦労していて、途中で宗教に走り、少将で終わっています。

賊軍藩は、明治になってから経済的に貧窮していた。だから、旧士族の子弟の多くは学費の要らない軍学校や師範学校へ行った。

その軍学校を出て軍人になってからも、秋山兄弟と同様に賊軍出身者は、立身出世の面で非常に苦労しなければなりませんでした。

『賊軍の昭和史』で詳しく触れましたが、日本を終戦に導いた鈴木貫太郎首相も賊軍出身であったため、海軍時代は薩摩出身者と出世で差をつけられ、海軍を辞めようとしたこともありました。

 

敗者は簡単には水に流せない

――負けた側の地域は、差別された意識をなかなか忘れられないでしょうね。

私は、昭和5(1930)年に東京向島に生まれましたが、疎開で昭和20(1965)年から旧制長岡中学校(現長岡高校)に通いました。有名な『米百俵』の逸話とも関係する、長岡藩ゆかりの学校です。

『賊軍の昭和史』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)


長岡中では、薩長と戦った家老・河井継之助を是とするか、恭順して戦争を避けるべきであったのかを友人たちと盛んに議論しました。先ほども言いましたように、明治に入っても官僚になった長岡人はほとんどおらず、学者や軍人になって自身で道を切り開いていくしかなかった現実があり、私の世代にも影響していました。

私よりかなり先輩になりますが、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六海軍大将も、海軍で大変苦労しているのです。

「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が横たわるわけです。

いまも長岡高校で歌い継がれているようですが、長岡中学校の応援歌の1つ『出塞賦(しゅっさいふ)』に次のような一節がありました。

「かの蒼竜(そうりゅう:河井継之助の号)が志(し)を受けて 忍苦まさに幾星霜~」

勝者は歴史を水に流せるが、敗者はなかなかそうはいかないということでしょう。

 

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