異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

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東日本大震災から7年 2018.3.9 毎日新聞「論点」

2018-03-10 23:35:22 | 東北大震災
論点

東日本大震災から7年

 東日本大震災の発生からまもなく7年を迎える。被災地では土地のかさ上げや防潮堤の建設が進み、復興住宅や商業施設も相次いで完成している。一方、いまだに多くの被災者が故郷を離れたり、仮設住宅での不自由な生活を余儀なくされたりしている。被災地の住民一人一人の暮らしや心の復興はどこまで進んだのか。

 
 
岩手県立大槌高3年、倉澤杏奈さん
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被災地に関心持ち続けて 倉沢杏奈・岩手県立大槌高3年

 私が住む岩手県大槌町では最近になって盛り土の上に家が建ち始めました。少し前までは何もなく、「本当に復興は進んでいるのか」と不安になることもありましたが、ようやく「復興」というゴールに近付き始めたと感じています。

 県立大槌高では2013年から生徒有志が参加する「復興研究会」という活動をしています。町内180カ所を年3回撮影する定点観測や県内外の高校生たちとの交流、防災の啓発活動などに取り組んでいます。今年度は全校210人中141人が参加しました。

 大震災は私が小学5年のときに起きました。町内の自宅は津波で流され、知人も亡くなり、「人は、あっけなく死んでしまうものなのだ」と痛感しました。中学では先生に誘われて、語り部活動をしました。町外での交流から学ぶことが多く、高校の復興研究会にもぜひ入りたいと思いました。住んでいた地域に再建された公民館で話をすると、震災前に戻ったような気持ちになります。しかし、遠くに避難している人は参加できません。住民同士のコミュニティーをもう一度築いていくことが大切だと感じます。

 研究会の活動で町を見ると、少し前向きな気持ちになりますが、住民の立場になると、家は建ち始めてもかつての雰囲気はなく、寂しさを感じます。以前あった店は流され、戻ってきていません。ぽっかりと心に穴があいた気持ちになります。他の多くの住民も、気持ちは元に戻っていないのではないでしょうか。私は今も仮設住宅で暮らしています。元の住んでいた場所には帰りたくても帰れない状況です。このような負担は誰にとっても小さくないと思います。

 私たちが研究会の活動を通じて伝えたかったことは「今後の災害で少しでも命を救いたい」という思いです。被災地の外で話すと、人によっては大震災の悲惨さ、深刻さが十分に理解されていないと感じることもありました。ですから、私たちがあのときの情景や感情を真剣に訴えることによって、少しでも震災のことが伝わってほしいと考えました。復興事業でかさ上げや防潮堤建設が進む地元も、それだけで大丈夫というわけではありません。自分たちに起きたことを伝承していくことは大切な意味があると信じています。

 さらに、私たちの活動を知った全国の人たちが、「震災で大変だったね」で終わるのではなく、この東北の小さな大槌町に関心を持ってほしいのです。復興が徐々に進む町のこと、そこで高校生たちが活動していることを心のどこかにとどめておいてほしい。それは被災地で暮らす人たちにとって、モノよりもお金よりも生きる活力になると思うからです。

 私はこの4月、隣の釜石市の企業に就職します。進学などで地元を出る同級生もいますが、研究会での活動を通じて「残ろう」と決めた人もいます。「地元を出るとしても、それぞれの立場で故郷の復興に貢献することが大事」と話す仲間もいます。私は、地元で働くことで故郷の復興を見守り、ほんの少しかもしれませんが、この地域を支えられればと考えています。【聞き手・永山悦子】

 
本間博彰・あさかホスピタルこどもの心診療部長

子どもに「終わりなき災害」 本間博彰・あさかホスピタル こどもの心診療部長

 大震災直後から5年間にわたって、宮城県子ども総合センターで「子どもの心のケアチーム」を組織し、県内の子どもたちを支援してきた。子どもが抱える心の問題は災害からの時間が経過するに伴って変わる。今も問題は継続しており、いつまで続くかは分からない。阪神大震災(1995年)では当時子どもだった人の心の問題は20年後も残っていた。震災は「終わりのない災害」と言える。

 県内を歩き、多くの子どもに会った。震災直後は恐怖心や不安など極度のストレスからパニックなどを起こす急性ストレス障害が多かった。数カ月たつと、苦痛を回避するためか、感覚が鈍麻し、ぼーっとした様子を見せた。1年たつと、落ち着かない▽衝動的になる▽不登校--など、震災が原因かどうか見分けが難しい症状が出始めた。それが今も続いている。

 沿岸部はもともと人口減などで衰退に向かっていた。そこへ巨大災害が襲い、衰退に拍車をかけた。荒涼とした故郷の風景に直面した大人たちは将来への希望や覇気を失った。そんな空虚感を抱える大人と一緒に過ごす子どもは大人と同じような精神状態になってしまう。子どもは純真で共感性が強い。小学校低学年までは親や学校の先生の精神状態に共感しながら育つ。「大人と自分は違う」と自覚するのは思春期になってからだ。

 その結果、子どもが備えるべき「ストレスに対処する力」が弱まり、日々の生活や課題に適応することも難しくなった。成長期はさまざまなハードルを越えねばならないが、そこに震災の影響も加わり、複雑な症状を起こすことになった。症状が似た発達障害と診断されてしまって、必要なケアを受けられていない例もある。

 生活環境の変化も心にダメージを与える。震災前の「日常」が消え、故郷を離れるなど「非日常」が続いている。両親が離婚した例も少なくない。福島県では放射性物質という不安が継続している。日常生活を失った子どもの心は震災の影響を受け続けている。

 心の問題は目に見えない。本人がつらくて、助けを求める信号を出していたとしても、気付いてもらえない子どもが被災地にはまだたくさんいるはずだ。私が診察する際も、こちらから出身地や7年前の経験を問いかけなければ、自らは語ろうとしない親子が多い。

 震災直後は全国から心のケアの専門家が支援のために現地入りしたが、7年もたてば関心は薄れる。被災地は精神医療が手薄な地域で、震災後はさらに担い手が減った。だから、子どもに日々接する学校の先生の役割は大きい。先生たちはもっと子どもの変化に関心を持ってほしい。「理由が分からない」とあきらめず、子どもの心の中へ思いをはせてほしい。親は子どもの様子に不安を感じたら、「心配だ」と声を上げてほしい。それが必要なケアにつながる。

 自然災害が多い日本では、災害へのハード面の対策は進むものの、災害によって人がどのように傷つき、立ち直っていくのかという視点に立った心のケアは構築されていない。東日本大震災の経験を無駄にしてはならない。【聞き手・永山悦子】

 
青木淑子「富岡町3・11を語る会」代表

感謝の気持ちで「口演会」 青木淑子 「富岡町3・11を語る会」代表

 きっかけは東日本大震災から1年ほどが過ぎ、中国や東南アジアの学生から「被害の実態を聞きたい」という依頼が続いたことだった。初めは富岡町(福島県)の社会福祉協議会の担当者が対応していたが、「避難生活を続けてきた町民自身が語り人となって体験を語ることこそ説得力がある」と思い、2013年に「語り人」事業を始めた。公募で18人が参加した。

 最初は「泣いてしまうかも」というためらいもあったが、やがて「話さないと忘れてしまう」と感じるようになった。それぞれが語り切れないほどのつらい経験をしてきているのだが、今では「避難していた時には多くの人のお世話になってきた。そのお礼返しになるのなら」という感謝の気持ちで「口演会」を務めている。87歳のおじいちゃんから、被災時に中学2年だった21歳の大学生まで現在は23人。県内や全国各地にとどまらず時には海外にも出かける。年間100回ほど、のべ約7000人の聴衆に被災者としての経験と今の思いを語り続けている。

 震災から7年という歳月の中で私たちも少しずつ変わった。地震と津波で福島第1原発事故が発生し、全町民が一斉に町外へ緊急避難した時期。避難所が閉鎖され、仮設や借り上げ住宅に移った時期。その後、復興住宅や避難先に新しい自宅を確保して生活を始めるようになった。

 昨年4月には町内の約3分の2の地域の避難指示が解除され、自宅に戻れるようになった。現在は登録上だけで約400人が住民票を富岡に移している。私自身も昨年7月から町の中心部で生活を始めた。便利とは言えないが、最低限の生活ができる環境は整いつつある。戻ってきた人の大半は「故郷で余生を過ごしたい」「先祖代々の墓を守りたい」と願う高齢者だが、一歩前進には違いない。

 一方で、帰りたくても帰れない大勢の人たちもいる。それぞれが「帰りたい」「帰れない」「帰るべきだ」「まだ帰るべきではない」「もう帰りたくない」……と悩み、戻った人との間に複雑な心の壁も生じている。原発事故による最大の被害は、放射能汚染による物理的な面もあるが、何よりもそれまで一致団結して平和に暮らしてきた住民の心がバラバラになったことだろう。住民の中に心のバリケードができつつある。

 国の復興事業は被災時の住民だけを対象にしているが、現在進む町の創生には新しい住民も加わっている。ぜひ、この新しい人たちも大切にしてほしい。復興とは壊れたものを旧状に戻すだけでなく、それを大事にしながら新しい何かを創造してゆくことだろう。新しい富岡を創生するには元住民に加えて新住民も大きな役割を担っている。特に若い人たちには福島の実態を知って、可能なことから参加してもらうことが重要だ。

 そうした新住民の若者が頑張っている姿を見せていけば、「自分も帰ろうか」と続く人も出てくるだろう。行政や東京電力は戻った人たちの決断を裏切るようなことはしないでほしい。時間はかかっても、いつの日か必ず、元気な富岡が返ってくることを信じている。【聞き手・森忠彦】


いまだに7万人超避難

 2011年3月11日、東北沖でマグニチュード(M)9.0の巨大地震が発生、太平洋沿岸を巨大津波が襲い、東京電力福島第1原発事故が起きた。災害関連死を含む死者は1万9533人、行方不明者は2585人。復興庁によると、今年2月現在の避難者は約7万3000人、うち約5万3000人が仮設住宅などに暮らす。福島県では17年4月までに帰還困難区域を除く大半の地域の避難指示が解除されたが、現在も約3万4000人が県外避難を続けている。


 ご意見、ご感想をお寄せください。 〒100-8051毎日新聞「オピニオン」係 opinion@mainichi.co.jp


 ■人物略歴

くらさわ・あんな

 1999年岩手県大槌町生まれ。大槌高復興研究会に1年から参加し、生徒会長も務めた。2017年に仙台市で開かれた世界防災フォーラム前日祭で発表。研究会は同年、「東北みらい賞」を受賞した。


 ■人物略歴

ほんま・ひろあき

 1950年生まれ。弘前大医学部卒。青森県内で地域医療に携わり、88年宮城県中央児童相談所。2001年宮城県子ども総合センター。センター所長も務める。16年から現職。専門は子どもの精神医学。


 ■人物略歴

あおき・よしこ

 1948年東京都生まれ。64年に福島県郡山市に移住。福島大卒。70年から福島県立高校で教諭(国語)を務める。2004~08年に県立富岡高校長。15年4月にNPO法人「語る会」を発足させ、代表に。

 

 

 

 

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【動画】あの大惨事の教訓はどこへ行ったのか 2018年3月3日 ゲスト:柳田邦男氏(ノンフィクション作家)マル激トーク・オン・ディマンド 第882回

2018-03-06 00:29:54 | 東北大震災

あの大惨事の教訓はどこへ行ったのか

2018年3月3日

あの大惨事の教訓はどこへ行ったのか

柳田邦男氏(ノンフィクション作家)

マル激トーク・オン・ディマンド 第882回

【掲載ページ】http://www.videonews.com/

 7年前の東京電力福島第一原子力発電所のメルトダウン事故は、放射能汚染によって多くの住民から故郷を奪った。避難指示区域は当初よりは縮小されたが、依然として帰還困難地域も多く残されている。また、除染が進んだことなどを理由に避難指示が解除された地域でも、政府が帰還を推進するのとは裏腹に、十分な社会インフラが回復していないなどの理由から、いまだに避難生活を余儀なくされている人も多い。事故から7年が経った今も、以前の姿に戻ったとはとてもいい難い状況が続いている。

 ノンフィクション作家で震災後、繰り返し被災地に足を運んでいる柳田邦男氏は、102歳で自ら命を絶った福島県飯舘村の男性を例に、生活の基盤を奪われた住民一人ひとりの人生に思いをいたすことの大切さを強調する。災害はとかく被害の規模が数値化されがちだが、その背後には数字だけでは測りしれない一人ひとりの物語がある。

 政府の「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の委員もつとめた柳田氏は、その最終報告にある9つの論点のほとんどが、事故から7年が経った今も、積み残しになったままだと指摘する。特に「被害者の視点からの欠陥分析」の重要性が忘れられており、原発の安全基準でも専門家による技術的なことに重点がおかれたまま再稼働が認められていることに強い危惧を感じているという。数値化されるものしか考慮しなかった“想定外”ということ自体が誤りであったことを教訓としなくてはならないはずなのだ。

 原発事故が実際どれだけ多くの人に「人間の被害」を引き起こしたのか、その全容はいまだに明らかになっていない。事故当時小学校1年生だった子供は、仮設住宅からバスで1時間もかけて遠くの小学校に通い続け、そのまま卒業した。慣れ親しんだ自然豊かな故郷から切り離された子供時代を送らなければならなかったこの子供の受けた被害は無論、被害者の統計上の数値には反映されていない。

 あの悲惨な事故の教訓をわれわれは活かせているのか。事故の教訓を風化させないために今、われわれは何を考えなければならないのか。これまで多くの事故や災害の取材・検証に携わってきた柳田氏と、社会学者の宮台真司とジャーナリストの迫田朋子が議論した。

【ゲスト・プロフィール】
柳田 邦男(やなぎだ くにお)
ノンフィクション作家
1936年栃木県生まれ。60年東京大学経済学部卒業。同年NHKに入局。広島放送局、社会部記者などを経て74年よりフリー。2009年から11年、福知山線列車脱線事故調査報告書に関わる検証メンバー。著書に『「想定外」の罠 大震災と原発』、『終わらない原発事故と「日本病」』など。

(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)

 

 

 

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福島選出の吉野復興相に「復興補助金」が還流していた〔週刊ポスト2017年9月22日号〕

2017-09-13 12:49:28 | 東北大震災

NEWSポストセブンhttp://www.news-postseven.com/archives/20170911_611598.htmlより転載

2017.09.11

福島選出の吉野復興相に「復興補助金」が還流していた

吉野正芳・復興相(写真:時事通信フォト)

 

「震災復興のため」──そうして血税を集めて被災地に払われたはずの補助金が、政治家に流れていた。しかもそれが被災地選出の復興大臣だというのだから、看過できない。

3年間で714万円

「被災者の気持ちはどなたよりも私が理解しているというふうに思っております。被災地の復興に全力を尽くしてまいります」

 吉野正芳・復興相は今年4月の大臣就任会見でこう述べた。8月の内閣改造でも留任した吉野氏は生まれも選挙区も福島県だ。自宅が被災したという吉野氏にとって、東日本大震災の被災地復興は政治家としてのライフワークであり、被災者もその手腕に期待しているはずだ。

 しかも「前任の今村雅弘氏は被災者の怒りを買う失言(*注1)で辞任し、その前の高木毅氏は“パンツ泥棒疑惑”が問題視された経緯があり、政権の“鬼門”だった。その点、被災地出身の吉野氏なら問題は起こさないだろうという判断が起用の背景にあった」(大手紙政治部記者)といわれる。

【*注1/今年4月25日、二階派のパーティで今村氏が「これ(震災)がまだ東北で、あっちの方だったからよかった」と発言し問題になった】

 その吉野氏に被災者の期待を裏切る疑惑が浮上した。震災復興にはこれまでに多額の税金が投じられている。その中の1つに「ふくしま産業復興企業立地補助金」がある。

 同補助金は震災翌年の2012年に福島県が創設。県内で工場などを新設・増設する企業に補助金を支給し、地域の雇用を確保することを目的とする。主体は福島県だが、その財源約2000億円のほぼ全額は経済産業省からの補助金だ。現在までに約500の企業が県から指定を受け、「ふくしま産業復興企業立地補助金」を交付されている。

 福島県内の雇用は今なお厳しい現状にあり、県内就職件数は、震災が発生した2011年の4万9596件から年々減少し、2015年には3万8554件になっている。その状況を改善するための補助金のはずが、復興を先導する吉野氏の政治団体に流れていた。

 吉野氏が代表を務める「自民党福島県第五選挙区支部」は、2015年12月に福島県内の木材製材会社から12万円の献金を受けているが、この製材会社は同年3月に県から9750万円の補助金を交付されていた。政治資金問題に詳しい岩井奉信・日本大学法学部教授が説明する。

「政治資金規正法により、国から補助金の交付を受けた企業は交付決定日から1年間は政治献金できないと定められています。補助金を配分する立場にある政治家に対して、補助金交付の見返り献金が行なわれないようにするための規定です」

 製材会社から吉野氏への献金は、政治資金規正法に抵触する可能性が出てくるのだ。ちなみに「1年ルール」には当てはまらないものの、吉野氏は2013~2015年の間にこの補助金制度において県から指定された4社から合計678万円もの献金を受けていた。前出の製材会社の2013~2015年分を含めるとその合計額は714万円になる。果たしてそれは、「福島の雇用促進のため」という目的に適うものなのだろうか。

ロンダリングし放題

 このような例は過去にもある。2015年、西川公也・農水相(当時)は林野庁が創設した「森林整備加速化・林業再生事業」の補助金が交付された会社から300万円の献金を受けていたことが発覚し、引責辞任した。その後、安倍晋三首相はじめ閣僚たちに次々と補助金受給企業からの献金が発覚、返金などの対応に追われた。

 今回の場合は、復興の旗振り役である吉野氏に、「被災者救済」のためのカネが流れていたという構図である。だが、吉野氏の事務所の回答は驚くべきものだった。

「当該補助金は、国の補助金にあたらないので、政治資金規正法に抵触しないと判断しております」

 どういう意味か。政治資金規正法では、国から補助金を受けた企業から国会議員への寄附・献金を禁じる一方、地方自治体からの補助金については知事や地方議員への禁止規定があるだけで、国会議員については言及がない。それを根拠に吉野氏は違法性を否定しているわけだ。

 しかし、前出の岩井氏は「その理屈がまかり通るなら、国会議員は地元選挙区の補助金をロンダリングし放題になってしまう。国民を馬鹿にしている」と一蹴する。

「政治資金規正法の主旨に従えば、国からだろうと県からだろうと、補助金を受けている企業の政治献金は税金の還流なのだから認められないという考え方が筋。そもそも問題の補助金は財源を国(経産省)に頼っているのだから、“国の補助金ではない”という理屈も詭弁に見える」(同前)

 こんな“前例”もある。馳浩・文科相(当時)は2015年、石川県から補助金を交付された企業から受け取った合計232万円の献金を全額返金した。馳氏は当時、〈大臣という立場でもあり、誤解を招かないように返金した〉と説明している。

 震災復興予算の流用問題(*注2)を暴いた『国家のシロアリ』の著者・福場ひとみ氏はこう語る。

【*注2/本誌・週刊ポストが2012年8月10日号で報じた、東日本大震災の復興予算19兆円(震災翌年の2012年から2017年度末までの5年間の「集中復興期間」に充てられたもの)の大半が被災地とは無関係の事業に使われていたとする問題】


「企業立地補助金は復興予算の中で最も流用された補助金です。被災地とは関係ない後援企業に受給テクニックを教え、その企業から寄附を受ける議員もいました。補助金の“キックバック”とも考えられるこの構図が今でもまかり通っているのだとしたら、看過できません」

 震災のあった年の2011年11月30日に開かれた財務金融委員会で、吉野氏は「雇用を考えた場合、多くの会社が立地をしていただいて雇用の確保、これが生活の大前提だと思います」と語っている。

 確かに補助金が「福島県民」でもある吉野氏の政治活動費になれば、“吉野氏の雇用(当選)”には役立つだろう。しかし、そんな使われ方に納得する被災者はどれだけいるのだろうか。

※週刊ポスト2017年9月22日号

 

 

 

 

 

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4/25  今村復興相 辞任の意向固める | NHKニュース ~震災復興に関連し「東北のほうでよかった」と発言

2017-04-25 21:33:55 | 東北大震災

 
                                TBSニュース : 今村復興相、震災被害「東北で良かった」すぐ撤回
 
 

今村復興大臣は自民党の派閥のパーティーで、東日本大震災の復興に関連して、「まだ東北のほうだったから、よかった」などと、被災者を傷つける発言をした責任を取りたいとして、復興大臣を辞任する意向を固めました。
安倍総理大臣は、国会審議などへの影響を最小限に抑えるため、速やかに後任人事の調整を進めるものと見られます。

 

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NHK NEWS WEB 
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170425/k10010960981000.html?utm_int=detail_contents_news-related-auto_001

今村復興相 震災復興に関連し「東北のほうでよかった」と発言

今村復興大臣は25日夜、自民党の派閥のパーティーで講演し、東日本大震災の復興に関連して、「まだ東北のほうだったからよかった」などと述べました。その後、今村大臣は、誤解を招きかねない発言だとして撤回し、謝罪しました。

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今村復興大臣は25日夜、所属する自民党二階派のパーティーで講演し、東日本大震災の復興に関連して、「社会資本などの毀損も、いろんな勘定のしかたがあるが25兆円という数字もある。これは、まだ東北のほうだったからよかったが、もっと首都圏に近かったりするとばく大な額になる」と述べました。

このあと、今村大臣はみずからの発言について、記者団に対し、「東北でもあれだけのひどい災害だったので、これが首都圏に近いほうだったら、もっととんでもない災害になっているという意味で言った。決して東北のほうでよかったという趣旨ではない。取り消させていただく」と述べ、撤回しました。

そのうえで今村大臣は、「ご心配いただいたことについては、改めてしっかりとおわびを申し上げる」と述べ、謝罪しました。

今村復興相「深く深くおわび」

今村復興大臣は25日夜、記者団に対し、みずからの発言について、「私の不適切な発言で皆様を傷つけたことを深く深くおわび申し上げます。まことに申し訳ありませんでした」と述べました。

今村復興相の一連の発言

今村復興大臣は、さきに記者会見で、質問した記者に対し、「うるさい」などと述べ、陳謝したほか、原発事故によるいわゆる「自主避難者」が帰還するかどうかは、自己責任だなどという認識を示しその後、撤回し、陳謝しました。

26日の参院復興特別委の審議 取りやめも

今村復興大臣が、25日夜、みずからの講演での発言を撤回し、謝罪したことを受け、民進党の榛葉参議院国会対策委員長は、自民党の松山参議院国会対策委員長に電話で、「あす予定されている参議院の東日本大震災復興特別委員会の審議は取りやめるべきだ」と求めました。これに対して、松山氏は、「状況を確認してあす改めて協議したい」と述べました。

宮城県知事「東北を軽んじている」

宮城県の村井知事は、「首都圏と東北を比較したらばく大な財源が必要になるというのは、そのとおりかもしれない。ただ、『東北だからよかった』というのは被災者の感情を逆なでするものであり、東北を軽んじている印象を与える。復興大臣という要職にあるので発言にはくれぐれも注意してほしい」というコメントを出し、批判しました。

南三陸町長「誤解招く」

宮城県南三陸町の佐藤仁町長は、NHKの取材に対し「もし首都圏で東日本大震災と同じ規模の災害が起きた場合、東北と比べるとばく大な額の財源が必要になることは間違いないので、そういった意味合いで発言したのではないか。悪意はなかったと思うが、受け止め方が分かれるような発言をするのは誤解を招くので気をつけてほしい」と述べました。

陸前高田市長「立場をしっかりと理解して」

岩手県陸前高田市の戸羽太市長は「被災地を傷つけるつもりで発言したわけではないと思うが、その言葉によって傷ついたり不快な思いをしたりする人は被災地にたくさんいる。復興大臣を頼りにしている人もいるので立場をしっかりと理解して発言には気をつけてほしい」と話していました。

東松島市長「趣旨を確認したい」

宮城県東松島市の阿部秀保市長は「今、初めて聞いて驚いている。影響力の大きい方の発言なので、発言自体がどんな趣旨で発言したのかまずは確認したい」と話しています。

原発立地の双葉町長「寄り添った姿勢感じない」

東京電力福島第一原発が立地し、原発事故の影響で町の面積の96%が住民が長期間にわたって戻ることが難しい「帰還困難区域」になっている福島県双葉町の伊澤史朗町長は、「発言が本当ならばあまりにも遺憾だ。今村大臣をめぐっては前回の発言のこともある。震災と原発事故で本当に苦しんでいる人たち一人一人に寄り添った対応が必要なのにそうではない姿勢を感じる」と話しています。

被災地で批判の声相次ぐ

今村復興大臣の発言について、東日本大震災の被災地、仙台市では批判の声が相次いでいます。

震災の発生当時、宮城県名取市に住んでいたという20代の男性は「怒りを感じています。人が少ないからと思っての発言だと思うが、大臣の身分での発言ではないと思う。まだ復興は進んでいない。現地の人の気持ちを考えてほしい」と話していました。

また仙台市の30代の男性は「6年経ってきているので、徐々に風化して震災のことが忘れ去られているのではないかと感じる。そういう発言をする人が復興大臣に選ばれたということは選んだ人の責任だと思うし、本人も自覚が足りないと思う」と話していました。
さらに20代の男性は「正直、悲しい。他人ごとだと感じているのではないか。復興のかじ取りをする人がこういう発言をするのは残念でむなしいし、あきれて言葉にできない」と話していました。

宮城県気仙沼市の仮設住宅でも怒りの声が相次ぎました。
震災で自宅を失い気仙沼市の仮設住宅で6年近く暮らしている吉田規夫さん(68)は「いまテレビでニュースを見ましたが、被災者の気持ちを害するひどい発言だと思います」と話していました。また、同じ仮設住宅に暮らす小野寺厚志さん(62)は「ひどい発言でこんなことを言う大臣には辞めてもらいたいです。発言を撤回すればよいという問題でもありません」と話していました。

宮城県南三陸町の仮設住宅に6年近く暮らしている40代の男性は「非常に怒りを覚えます。こうした人が復興大臣をしているのは不適切だと思います。先日、宮城県の被災地に視察に来たばかりなのにこの程度の考えだから復興がなかなか進まないのではないか」と話していました。
また、宮城県女川町の仮設住宅で暮らす60代の男性は「復興大臣がこのような発言をするとは到底、受け入れられません。私たちに寄り添ってくれていないと感じます。もっと考えて発言してほしい」と話しています。
 
 
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NHK【クローズアップ現代】震災6年 津波と原発事故 行方不明者捜し続けて(2.017.3.09放送) ~がんんばれ、NHK現場職員!!

2017-03-14 19:37:51 | 東北大震災

※森友学園といい、原発事故報道といい、最近のNHKは様子がかわってきているようの思える。以前程ではないが、NHKスペシャル、またクロヨンらしい番組が見れるようになったのでは。がんばれ、現場の職員!!

クローズアップ現代http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3948/1.htmlより転載

No.3948  2017年3月9日(木)放送

震災6年 津波と原発事故 行方不明者捜し続けて

6年前、この場所には、8.5メートルの津波が押し寄せました。
こうした津波に加えて、福島県は原発事故により、多くの人がその暮らしを一変させられました。

こちらのポスターは、原発がある大熊町で暮らしていた木村紀夫さんが、行方不明になった家族を捜すために作ったものです。
今回の東日本大震災では、いまだ行方が分からない人が2,550人以上に上ります。
私たちは、震災直後から木村さんを取材してきました。
津波で行方が分からなくなった大切な娘を、原発事故で十分に捜すことさえできずにいた、木村紀夫さんの6年間です。

震災6年 津波と原発事故 娘を捜す父 6年の記録

今も自宅が帰還困難区域となっている木村紀夫さん。
長野県白馬村で避難生活を続けています。

長女の舞雪さん。
震災当日は小学校に避難しており、命を取り留めました。
あれから6年。
失った家族の話題が出ることは、ほとんどありません。

木村紀夫さん
「なんでここに、紅しょうがが出てるの?」

木村舞雪さん
「忘れていた。」

仲よし姉妹だった、舞雪さんと汐凪ちゃん。
汐凪ちゃんは、明るく活発な女の子でした。

明るい性格の妻、深雪さん。
笑い声が絶えない家族でした。
そんな家族を引き裂いた、あの日の巨大津波。
隣町の職場から駆けつけようとした木村さん。

飛び込んできたのが、原発事故のニュースでした。
警戒区域となった自宅。
捜索の許可を待つ時間だけが過ぎていきました。

木村紀夫さん
「時間がたったことで、見つかる確率は低くなっていると思うし、原発がなければ、こんなことなかったので。」

ようやく立ち入りが許可されたのは、震災から3か月がたった時のことでした。
しかし、現場にとどまることができるのは、2時間だけ。

妻、深雪さんの車が見つかりました。

木村紀夫さん
「免許証がある。
間違いない。」

その後、深雪さんの遺体は、40キロほど離れた沖合で見つかりました。
しかし、汐凪ちゃんは手がかりさえ見つかりません。
木村さんは、町への一時立ち入りの許可が得られるたびに、捜し続けてきました。

汐凪ちゃんがお気に入りだった靴が見つかったのは、1年後のことでした。
靴が見つかった場所の一斉捜索を警察に依頼しようと考えましたが、放射線量が高く、断念しました。

木村紀夫さん
「捜索している警察官は若い子が多かった。
それを見ていて、当時、(放射)線量も高かったし、汐凪を探すために、ここを徹底的に探してくれとお願いできなくて。」

その後も木村さんは、誰にも頼ることなく1人、汐凪ちゃんを捜し続けてきました。
震災から3年の月日が流れたころ、娘の捜索を続ける木村さんを支援しようという動きが広がり始めました。

その1人、福島県南相馬市に住む、上野敬幸さんです。
木村さんが警察にも頼めずにいることを聞きました。

上野敬幸さん
「親が子どもを捜したいって、当たり前の感情でしょ。
それを正直に言うことができないなんて、本当に間違っていると思ったの。」

上野さんも津波で、両親と2人の子どもを失いました。

長女の永吏可ちゃんは、すぐに見つかったものの、長男の倖太郎くんは行方不明のままです。
娘の亡がらが戻ってきてくれただけでも、よかったといいます。

上野敬幸さん
「今でも永吏可を抱きしめる時もあるし、その時の感覚って、一緒なんですよ。
永吏可を抱きしめているという感覚が、自分の中であって。
木村さんも抱きしめたいだろうし、親だからね。
子どもにしたいことは一緒じゃないですか。」

放射線量の低下に伴い、立ち入りの回数も増える中で、次第に捜索の支援の輪が広がっていきました。

汐凪ちゃんの帽子や体操服、数多くの品が見つかるようになったのです。

木村紀夫さん
「家族のものがたくさん出てきて、そうすると、テンションも上がるんだよね。
俺だけテンションが上がるんじゃなくて、一緒に探してくれるボランティアの人たちも、本当にテンションが上がる。
そういうことを繰り返していくうちに、ちょっとずつ気分が変わってきて、自然と笑いも起きるようになって。」

ところが、汐凪ちゃんの捜索に影響を及ぼす、別の事態が持ち上がりました。
木村さんの自宅周辺が、除染で出た土などを保管する、中間貯蔵施設の候補地となったのです。
大量の土が運び込まれれば、汐凪ちゃんを捜すことはできなくなります。
木村さんは、汐凪ちゃんへの思いを訴えました。

木村紀夫さん
「津波で家族が流されて、いまも一人見つからない状況で探し続けていますし、これからも捜していくつもりです。
あそこが私にとって、いちばん3人とつながれる場所なんです。
それを人に手渡すっていうのは考えられない。」

津波によって、大切な家族を失った木村さん。
その後の原発事故で、ふるさとや仕事も奪われました。
あれ以来、木村さん自身の生き方も大きく変わりました。

自分の手で作った、まきストーブ。
少しでも電気を使わない生活を送ろうとしています。

木村紀夫さん
「きっかけとしては原発事故ですよ。
東日本大震災、それがなかったら、俺はこういう生き方をしていこうとは思わなかった。
変な言い方だけど、生活の一部みたいだ、3.11が。
それなしには、今はないよね。」

汐凪ちゃんの捜索に大きな進展がありました。
なかなか汐凪ちゃんの手がかりがつかめない中、木村さんは国の力を借りる、苦渋の決断をしました。
中間貯蔵施設の現地調査の際に、汐凪ちゃんの捜索を依頼することにしたのです。
まだ心の整理がつかない被災者も少なくない中、事故の後処理を急ぐ国。
複雑な気持ちを抱いていた、木村さん。

木村紀夫さんの捜索手記
“環境省にお願いするのは、ずっとためらっていた。
しかし、先の見えないがれきでの捜索をしてきた、ボランティアの仲間たちの気持ちと、ここにいるかもしれない汐凪のことを考えると、何としても見つけたい。”

国の捜索から3週間。
木村さんのもとに、知らせが届きました。
汐凪ちゃんの遺品らしきものが見つかったというのです。

ミッキーマウスがついたマフラー。
その中に、人の骨のようなものがくるまっていました。
木村さんは、マフラーに覚えがありませんでした。
しかし舞雪さんは、すぐに分かりました。

“そのマフラー、おそろいで持ってたよ。”

「汐凪ちゃんが見つかったことはホッとした?」

木村舞雪さん
「うん。
なんだろう、安心感が出たっていう。」

見つかった遺骨は、その後のDNA鑑定で、汐凪ちゃんのものと確認されました。
木村さんは、自らが撮った写真を見せてくれました。
砂にまみれた、3つの小さな歯。

木村紀夫さん
「もうちょっと汐凪を感じられるかなと思ったけど、こういう形になってしまうと、汐凪に会えたなという気持ちにはなれなかった。
実感が湧かない、これを見ても。
汐凪だという実感が。
これが寂しさを癒してくれるかというと難しい。」

汐凪ちゃんに会いたい。
その気持ちに突き動かされてきた6年間。
その歳月は、あまりにも長く、重いものでした。

汐凪ちゃんの遺骨が見つかった後も気持ちが晴れないという木村さんのもとに、捜索の仲間たちが集まりました。
捜索を今後どうするのかという話になりました。

「あそこに(捜索へ)行くことはいいこと?」

木村紀夫さん
「意義はある。
あそこにいると楽しいよ。」

汐凪ちゃんを捜し続ける行為そのものが、自らの力になっていたのではないか。
そう気付かされた木村さん。

木村紀夫さん
「皮肉な考え方だけど、汐凪が見つかるまで時間がかかったっていうことで、つながった縁って結構ある。
それがなかったら、これからどう生きていくか、やりたいことがなかったかもしれないし、なんか全部、汐凪の手の中で動いているような、そんな気もするし。」

木村さんは、今も毎月、大熊町に通い続けています。
新たな目標は、自らの手で汐凪ちゃんの遺骨を見つけること。
国の大規模捜索で掘り出された土を、1つ1つふるいにかけて捜し続けています。

「これは歯かなって。」

木村紀夫さん
「違う。
なんかこれ、植物ですよ。」

木村紀夫さん
「捜索自体も、ある意味楽しく笑いながらできてるし、不思議とそこに汐凪を感じたりもするんで。
なかなか出てこない。
俺まだ(遺骨を)一個も見つけてないしね。
おちょくられてるみたいで、汐凪にね。
そういう風に思えるようになったというのも、全然、今までと違うしね。
たぶん笑ってるんだろうなと思って。」

震災から6年。
汐凪ちゃんへの新たな思いが、木村さんの背中を押し続けています。

震災6年 津波と原発事故 娘を捜す父 6年の記録

ゲスト 天童荒太さん(作家)

天童さんは、福島の海に潜って、大切な人の遺品を捜すダイバーの小説を書かれたが、木村さんの捜し続ける姿を見て、どう思った?

天童さん:とても人間として大切な仕事をされているなと思いました。
人間にとって、本当の幸せというのは何なのかを考える時に、多くの人の死を見つめる中から思ったことは、大切に思う人と、ささやかだけど、共に過ごす時間。
怒ったり、あるいは泣いたり、笑ったり、けんかもするけれども、そこで、共に過ごす、ささやかな、豊かな時間こそが幸せだと思います。
けれども、それは時に、気づくのは大切な人を亡くされた時だったりするんですけど、ですから人間にとって本当に大切な仕事というのは、大事な人と過ごす、その時間を出来るだけ長く育んでいることと、もし、それを残念ながら途絶えた時には、忘れないように思い続けることだと思うんです。
ですから木村さんに限らず、大切な時間をなくされた方が覚えて、続けていこう、求め続けていこうとされるのは、とても人間として大切な仕事をされていると思いますし、木村さんは、そうした方の1つのシンボルのように受け止めました。

ようやく小さな骨と対面できても、まだやっぱり捜し続けるんだと その捜し続けるという行為そのものには、いったいどういう意味があると思う?

天童さん:木村さんを突き動かしているのは、お子さんに会いたいという気持ちとともに、自分の罪悪感とか、後ろめたさがあると思うんです。
どうして助けられなかったのか、どうして自分が守れなかったのかという悲しみと、自分が生きていることの後ろめたさがあると思います。
でも、そうした罪悪感とか、後ろめたさこそが、実は愛の証しなんですね。
深く愛してきたから、また、今も愛しているからこそ、そうした感情を抱くのであって、今も本当に、自分の中には罪悪感や後ろめたさが、うまく自分で折り合いがつけられないから、今も思っていらっしゃるでしょうけれども、それは、僕は大切な祈りの行為だと思うんです。
彼は、捜し続けることで祈ってきたと思うし、その祈りを多くの人は見守って欲しいと思いますし、今も多くの人が、祈り続けているのだろうと思います。

今回、木村さんの言葉の中に、汐凪ちゃんの骨と会っても、出会ったような気持ちになるのかなと思いきや、なかなかその気持ちになれなかったというふうに言っていた 復興というのは、いろんなことが整理されたり、解決されたりすることだけではないのではないか?それより、もっと大事なことがあるのではないか?ということを気付かされた気がしたが?

天童さん:共生社会という言葉があって、共に生きる、人々と共に生きる、豊かに共に生きるというのは、とても大切な考え方ですけれども、共に生きるためには、生きることの裏返しである、死というもの、共に死を思う、あるいは共に死を悼める共死(きょうし)とでもいうような考え方があってこそ、実は共生というものがあるのではないか。
木村さんが、VTRの中で怒っていらっしゃったのは、関係する企業とか、あるいは公的機関が当事者であるにもかかわらず、共に死を悼むことをしてくれない、あるいは共に死を思う姿勢を見せてくれないからこそ怒っていらっしゃったのではないでしょうか。
われわれは、後ろを振り返ることを怖がる上に、今、前へ前へと進む生き方をしていますけれども、むしろ、その生き方を顧みて、突然の悲劇で動けなくなった人たちを振り返ったり、あるいは、時にはその人の元まで戻って、一緒に立ち上がれるまで待つとか、あるいは一緒に歩けるようになるまで、ずっと共に側にいるというような生き方を多くの人が選ぶ時、この社会は今より、もっと優しく、また、この世界は今より、もっと美しくなると思います。
(前に進むことだけが、決して全てではない 後戻りしたりすることも大事なこと?)
共に死を思ったり、共に悼める、そういう世界の中で、われわれはもっと生きやすい、優しい世界を作っていけると思います。

 

 

 

 

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