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まち歩き亀岡1732 郷土出身 石田梅岩の展示 亀岡ガレリア

2021年05月30日 06時02分55秒 | まち歩き

梅岩は、江戸時代中頃の享保期を中心に活躍しました。

この時代は、近世封建社会のおおきな転換期にあたり、

徳川吉宗の「享保の改革」にみられるように、幕藩体制の矛盾が表面化します。

 その反面、商業の発達により町人が台頭してきます。

梅岩の教えはその町人層にひろまり、大阪・兵庫・奈良方面への出張講釈を行うようにもなりました。

 「人の人たる道」を求めながら、同時に商業活動における営利追及を積極的に肯定し、

勤勉と倹約を説き正直を勧めたことから、町人の自覚を高めることとなり、

この時代の風潮に適合していたと言えます。

 長年の研究成果の総決算として、元文4年(1739)55歳で『都鄙問答』

さらに、延享元年(1744年)59歳で倹約成果の総決算として、

さらに延享元年(1744)59歳で「倹約斉家論」を刊行しました。同年9月24日、60歳の生涯を閉じました。

 

生誕地

 

 

京都の学舎

「ひとの人たる道」を説き勧めるために京都へ出た石田梅岩は1729年(享保14年) 

45歳の時に、京都車屋町御池上ルの借家を講席に、念願の開講を実現しました。

聴講無料出入り自由、さらに女性もどうぞという当時としては型破りの講席でした。

この教えは、「石門心学」として、弟子の手島堵庵による講舎の組織化で、

いっそう波及の勢いを増し、全国各地へ広がってゆき、町人階層から武士階層にまで広く浸透していきました。

ここに設置された心学講舎は、石田梅岩が行った講席の場を、

現在にのこる同時代の町屋や、後に開設された明倫舎の模型などを参考に、

現代の心学講舎として復元したものです。

 

.

享保14年(1729)、梅岩45歳の時、京都車屋町御池上ルの借家を講席として初めて開講を実現しました。

「人の人たる道」を説きすすめるため京都へ出てから約20年後のことです。

 梅岩の思想は、神道・儒教・仏教、その他多くの思想を取り入れ体系化されたものといわれています。

その中で、梅岩が追及したのは、あくまでも民衆の日常生活の中に立脚する道徳的規範の確立でした。

つまり、人間の心を追求し人間の本質を見きわめる修行を実践しながら、

かつ現実社会にその原理を移行させることをめざしたといえます。

 京都での開講もこうした実践のひとつで、広く一般民衆に呼びかけ、

聴講無料出入り自由、女性の方もどうぞという内容は、当時としては型破りの講席でした。

このように梅岩の思想は単に学問上での認識にとどまらず、実行力を伴った思想であったといえます。

石門心学の祖として名高い石田梅岩は、貞享2年(1685)に現在の東別院町東掛に生まれ、名を勘平といった。

京都での奉公をする中で、小栗了雲という隠遁の学者との出会いにより、

長らく求めていた「道」を深く学ぶこととなり、さらに独学で研鑽を重ね、

約20年間にわたり勤めた商家を辞して、

享保14年(1729)45歳の時、京都の車屋町御池上ルの小さな借家で初めて開講した。

主な著書に「都鄙問答」 「倹約斉家論」 などがある。

 

梅岩亡き後、この教えは「石門心学」として受け継がれ、

手島堵庵による講舎の組織化でいっそう波及の勢いを増しました。

さらに、上川淇水手島和庵中沢道二などの有能な指導者が輩出し、

天明~享和年間(1781~1803)にかけて興隆期を迎えます。

亀山の地においても、天明6~7年(1786~87)の頃、北村柳悦らが招かれ持養舎が設立されたことが知られます。

文化・文政期(1804~1829)には、京都・大阪・江戸がそれぞれ拠点となりながら、

全国各地へ平易な道話を通じて広がってゆきました。

後には、町人層のみならず、武士層、農民層まで心学の思想が浸透しました。

現在は、京都の明倫舎、大阪の明誠舎、東京の参前舎が旧来の名跡とともに、その学統を継承しています。

線香1本を香炉に立てて燃えつきるのが1回の講義の時間であったという。

 

梅岩は貞享2年(1685)9月15日、現在の亀岡市東別院町東掛の農家に生まれました。

その人となりを示す事柄は「石田先生事蹟」 「石田先生語録」等に記載されています。

10歳の頃、自家の山と他家の山との境で栗を拾い、分別なく拾って来たとに叱られ、

すぐに栗を返しに行ったというエピソードから、律義で正直なの影響を受け、

愚直なまでの律儀さを身に付けたといわれています。

また、14歳の頃から生来の理屈者で意地が悪いという性格を深く自覚し、

以後、それを改めようとする強い意志を持ち続けました。

ここでいう、理屈者で意地が悪いとは、梅岩の道徳的意識の強さを反映したものです。

そのことは24~25歳ころから27~28歳にかけて曲こと(不正)を嫌い気を煩ったとか、

あまりにも気まじめであったため、奉公先の老母から、「遊興」をすすめられたことからもうかがえます。

23歳の時、再度京都へ出て商家黒柳家へ奉公した梅岩き、すでに青年期に入っており仕事の傍ら

「自分とは何か」「人間とは何か」などについて考えるようになりました。

仕事前の早朝から窓辺に向って書物を読み、仕事後の夜更けにも勉学に励んだといわれています。

この修行期の梅岩にとって「人の人たる道」を追求することが大きなテーマでした。

商人としての体験をもとに、求道者としての梅岩の苦しみが続きました。

その渦中で、小栗了雲との出会いが、梅岩を人間性の本質へ導いていきます。

梅岩は、日所生活の中でいつも経験する意識、つまり「心を知る」ことについての真剣な思索を深め、

人間性の本質である「性」を知るために修行を積み重ねることで「性は是天地万物の親」

さらには「我なし」の境地へと悟りを深めていきました。

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       神社下0039  朝日神明宮

       ねむりさまし  

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       京都芸術センター 建物はこの前が明倫小学校 今は登録有形文化財

       

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