昭和8年の建立です
高瀬川船廻し場跡
豊臣秀吉が天下統一の後、その権勢を誇るものとして「天下泰平」祈願の寺・方広寺(大仏殿)を
建立したとき、その資材(石材)を瀬戸内の島より諸大名に命じて、
伏見の港から京へ搬入するために、天正14年(1586)、当時の豪商・角倉了以に命じて、
御土居の外に沿って掘らせ、慶長19年(1614)、現・一之舟入(二条)から
伏見まで息子素庵と共に開通させた水路(運河)が高瀬川である。
その後、この高瀬川は、京に米・材木・薪炭・などの他、日常雑貨なども運び込む
大切な通路として、大正9年(1920)まで使われていた。
当時使われていた高瀬舟「舟兵」は、水深の浅い川に合わせた船底の浅い平らな舟で
急流を荷を積んで乗り切れるように「高背」即ち舟べりが高くつくられていた。
このような舟で5、6隻一度に14、5人の船頭たちが
両岸に作られた普通の道より一段低くなった綱場を、
ホーイ、ホーイと掛け声をかけながら背に架けた綱でひいて上がってきた。
当時この辺りの川幅は、9メートル余りあり、
岸は砂浜のようになっており船廻し場となっていた。
また、ひと・まち交流館東南角の菊浜区民会館当りに回漕店があり、
ここから上流六条坊門(五条)にかけての舟繋ぎ場には、
いつも何艘かの高瀬舟が繋がれていたと言われる。
五条~七条間に架かる橋は、人が橋の下を綱を引いて通れるように
門樋橋(榎木橋)・七条小橋などみな高くしてあり、
六軒橋・上の口橋は階段式(十段ほどの石段)と成っていたため、
人は渡れても車は渡れなかったし、
正面橋は橋までが急な上り坂に成っていたため、
材木などを積んだ車などは、両側から綱をつけてまだ後ろから
人が押してわたっていたとの事である。
尚、この川に因んだものとして木屋町通り・(大仏)正面通り・
梅湊町・富浜町・納屋町・材木町などの通り名や町名があり、
当時正面通り木屋町東には米の取引所が有り、その「米浜」と言う名が郵便局名として残されている。
菊浜高瀬川保勝会・京都市
高瀬川を静かに味わうなら このあたりがいいと思います
平成27年9月15日 撮影