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古墳向日04  物集女車塚古墳 石棺も出土

2016年08月14日 08時00分20秒 | 史跡・旧跡

 

 

石室からの排水溝 出口

 

 

 

 

物集女車塚古墳の横穴式石室の床面下部には、室内へ浸透した雨水などを外部へ導く、極めて入念に作られた排水溝がある。玄室では四壁沿いに、羨道部では梱石までの両壁沿いと中央部とにあり、これらは、合流して墳丘外へと抜ける。

 この構造は、玄室から梱石までは板石を逆三角形に組み合わせたもの、梱石から羨門までは素掘りの溝に板石で蓋をしたもの、前庭部から墳丘崖面までは板石をロ字形に組み合わせたものと場所によって異なる。

 

 

 

この解説版の中央下部から顔をのぞかせている排水溝は、整備工事に際して復元したものである。長雨が通津したときは、石室を除湿する水が少しずつ流れ出る。

 千数百年を経過しても機能する小さな排水溝一つとっても、古代人の英知が伺える。

横穴式石室の床面

 

 

 床面下部の排水溝

 

蓋を取った状態の排水溝

 

排水溝 平面図

 

石室断面図

 

 

 

 

 

 

 

 

今から200年ほど前、江戸幕府は歴代天皇のお墓(御陵)を定めるための調査を行った。その結果、物集女車塚古墳はまず、淳和天皇の陵の候補となる。しかし、文久年間(1860年代)の調査では、はじめて「前方後円の築たる古墳」と記録され、大原野小塩山方面に、陵の参考地は移された。こうした経緯を反映して地元では、この古墳が「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられてきた。

1920年代の後半(昭和初年)から、前方部の崩壊が進み、古墳の保存・修景を目的に、1983年(昭和58年)から本格的な考古学調査が開始された。荒れ放題の崖をていねいに掃除すると、地盤の地層の上に古墳の土が盛られている。高台の地層を基盤に、その上に何枚もの土層を積み置く作業によって、30度をこえる急勾配の墳丘は、崩壊や雨水による寝食をまぬがれたといえる。

 

 

 

 

古墳のかたちは、墳丘の裾ののびや、後円部と前方部のつけ根(くびれ部)を見ると、対称的になっておらず、前方部の東、つまり平野側の裾は凸形にふくらみをおびている。古墳の大きさは、削られた部分を復元すると長さ43~48m、高さ7~9m程度である。墳丘面は2段の平らな面(テラス)と上下2つの急な斜面で構成されている。墳丘中程のテラスは北が広く、南が狭いが、後円部の南・西側にむけて不明瞭になる。上位の斜面の下半分には、人間の頭ぐらいの大きさの礫を使った石組み(葺石)が設けられている。一方、テラスには小形の円筒埴輪が列をなして並ぶ。

 

 

公園の北西あるいは北部では、地盤の地層を掘り込む幅6mの大きな溝が見つかっている。古墳時代中期の大形古墳のような周濠にあたるのではなく、西側の高台との間を区画する施設と見られる。古墳の南側のくびれ部の地下では、方形上に巡ると見られる埴輪列が見つかり、くびれ部位置に凸形の「つくり出し」のような施設があったとも推定される。

 

 

 

石室内部の発掘調査の際に、石組みの部分的な法界の跡がみつかり、特に石室入口(羨道部)のひずみや石材の割れがめだった。そこで、石室の解体・復元・壁材の修理をおこなうことになった。後円部南半部の墳丘の土は大きく上部層、中部層、下部層の3種に分かれている。石室は、台地に穴を掘りくぼめ、側石を積みならべ、そのすき間を中・下部層の土を充填して作っている。これらの地層は石と石をつなぐ接着剤の役目をする。下部層は羨道部の北半部と玄室を覆っており、中部層はそのまま墳丘の骨格となっている。側壁がひずんだり、はらみ出した部分では、墳丘土と石材が分離したり、空洞ができていた。

 なお、玄室の前壁外側には、長持形石棺の一部(「龍山石」製、古墳時代中期)が、転用材として使われていたことが注目される。

当古墳の整備は平成4年度から3か年をかけて、京都府の緑と文化の基金助成金を得て実施したものである。

平成7年(1995)1月

向日市教育委員会

 

 

石室と石棺

石室は石棺を納める玄室と玄室への通路にあたる羨道とからなる。石室の床面には、小さな玉砂利が敷かれているが、その下には、複雑な構造の石組の溝を設置し、排水に努めていた。玄室には3~4回の埋葬跡が認められる。最初の埋葬には、二上山から切り出した凝灰岩の板材を組み合わせて作る家形石棺を用いた。石棺の側面や蓋石には縄掛突起と呼ばれる突起が作り出され、内面にはベンガラが塗布されている。

発掘したとき石棺の前面に散乱していた2組の石材は、本来、石棺上に載せられ、副葬品の陳列棚として用いられた可能性がある。

 石棺内からは多数の副葬品が出土した。中でも特異な金銅製冠や三輪玉等の存在は、墳丘の形態や出土埴輪の特徴等と合わせて、古墳に埋葬された乙訓地方の王が、淀川沿岸~大阪湾岸、特に紀伊周辺と関係が深いことを示す。かつ、滋賀県や福井県の古墳等とも強い共通性がみられる。6世紀前半、大和朝廷の混乱の中、ここ乙訓地方には、北陸から出た継体天皇(男大迹王)の「弟国宮」がつくられる。当古墳の埋葬者も継体擁立勢力と従属関係をもち、これらの政変と無縁ではなかったようだ。

平成7年(1995)1月

向日市教育委員会

 

 

 

左の扉が石室の入り口か 

 

 古墳 前回の記事 ➔ 古墳右03 雙ケ岡1号墳

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