千種忠顕御戦死之地
千種忠顕(?~1336)は,後醍醐天皇(1288~1339)の信任厚く,建武政権では従三位参議,三カ国の国司に補任された。足利尊氏(1305~58)の攻略により政権が瓦解すると,忠顕は足利直義(1306~52)軍と比叡山麓西坂本で戦った。延元元(1336)年6月7日,千種忠顕が戦死した地
卿ハ六条有定ノ子ニシテ夙ニ後
醍醐天皇ニ奉仕ス資性快活ニシ
テ武技ヲ好ミ頗ル御信任ヲ蒙レ
リ元弘元年討幕ノ謀露レ天皇笠
置ニ潜幸シ給フニ当リ卿之ニ扈
従シ城陥リテ天皇六波羅ニ移サ
レ給フニ及ビ卿亦敵ニ捉ヘラレ
シモ特ニ左右ニ近侍スルヲ許サ
ル後天皇ニ供奉シテ隠岐ニ赴キ
密ニ恢復ヲ図リ元弘三年天皇ヲ
伯耆ニ遷シ奉リ綸旨ヲ四方ニ伝
ヘテ義兵ヲ起サシメ又自ラ兵ニ
将トシテ六波羅ヲ攻メテ之ヲ陥
レ神鏡ヲ宮中ニ奉安セリ尋デ北
条氏亡ビ車駕京都ニ遷幸アラセ
ラルルヤ卿之ガ先駆タリ天皇厚
ク其首勲ヲ賞シ給ヒ従三位ニ叙
シ参議ニ任ゼラル中興ノ政治参
■スル所亦多シ既ニシテ足利尊
氏大挙シテ京都ヲ攻メ天皇延暦
寺ニ幸シ給フ尊氏弟直義ヲシテ
兵ヲ進メテ行在ヲ侵サシム卿之
ヲ西坂本ニ拒ギシモ利アラズ終
ニ此地ニ戦死ス時ニ延元元年六
月七日ナリ大正八年兵功ヲ追賞
シテ従二位ヲ贈ラル
大正十年五月
文学博士三浦周行撰並書
久我 通久 書
大正10年5月 建立
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五七五
元気かないつも話題にのぼるひと /本西
ことわざ
笑う門には福来る