貽範碑
久邇宮朝彦親王(1824~91)は伏見宮貞敬親王の四男。嘉永元(1848)年粟田口青蓮院門跡となり尊融と称した。勤王家として期待されたが,安政の大獄に連座した。孝明天皇の信任が厚く,文久2(1862)年暮に新設された国事掛に就き,翌年還俗を命じられ中川宮と称した。公武合体派の巨魁であり,長州勢力を京都から一掃した文久3年8月18日のクーデターでは計画の中心となった。元治元(1864)年に賀陽宮と改称している。明治元(1868)年,反政府運動の嫌疑で広島藩に幽閉されたが,同3年に許されて京都に戻り,同8年新宮家である久邇宮家を立てた。のち伊勢神宮祭主に任命され,没するまでその職にあった。
朝彦親王没後40年にあたり,維新前の邸宅であったこの地に碑が建てられた。この碑は朝彦親王の遺徳をしのび,邸宅跡を記念するものである。なお,この碑は和宮を記念するものだという説がある。和宮は明治4年から7年まで一時この地に住んでいたことは事実だが,碑は朝彦親王に関するものである。
恭シク惟ルニ朝彦親王懿親ノ思寄
ヲ荷ヒテ夙ニ力ヲ国事ニ尽シ維新
ノ大業ニ献替スル所少カラズ後胤
ノ茂栄亦積善ノ餘慶ヲ被ル茲ニ薨
後四十年ニ値ヒ児孫相謀リ守正王
ノ題表ヲ請ヒテ碑ヲ其邸阯ニ建テ
永ク報恩景仰ノ微衷ヲ致ス
昭和六年十月
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