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石碑上0120 京都御苑内 貽範碑

2017年07月07日 23時22分38秒 | 石碑

 

貽範碑

久邇宮朝彦親王(1824~91)は伏見宮貞敬親王の四男。嘉永元(1848)年粟田口青蓮院門跡となり尊融と称した。勤王家として期待されたが,安政の大獄に連座した。孝明天皇の信任が厚く,文久2(1862)年暮に新設された国事掛に就き,翌年還俗を命じられ中川宮と称した。公武合体派の巨魁であり,長州勢力を京都から一掃した文久3年8月18日のクーデターでは計画の中心となった。元治元(1864)年に賀陽宮と改称している。明治元(1868)年,反政府運動の嫌疑で広島藩に幽閉されたが,同3年に許されて京都に戻り,同8年新宮家である久邇宮家を立てた。のち伊勢神宮祭主に任命され,没するまでその職にあった。

  朝彦親王没後40年にあたり,維新前の邸宅であったこの地に碑が建てられた。この碑は朝彦親王の遺徳をしのび,邸宅跡を記念するものである。なお,この碑は和宮を記念するものだという説がある。和宮は明治4年から7年まで一時この地に住んでいたことは事実だが,碑は朝彦親王に関するものである。

 

恭シク惟ルニ朝彦親王懿親ノ思寄

 ヲ荷ヒテ夙ニ力ヲ国事ニ尽シ維新

 ノ大業ニ献替スル所少カラズ後胤

 ノ茂栄亦積善ノ餘慶ヲ被ル茲ニ薨

 後四十年ニ値ヒ児孫相謀リ守正王

 ノ題表ヲ請ヒテ碑ヲ其邸阯ニ建テ

 永ク報恩景仰ノ微衷ヲ致ス

 昭和六年十月

 

石碑 前回の記事 ➡ 石碑右0119  治水碑  御室川

 


まち歩き上0515  京都御苑内  賀陽宮邸跡

2017年07月07日 05時40分37秒 | まち歩き

 

 

 

賀陽宮邸跡

烏丸通りからこのあたり一帯にかけて伏見宮邦家親王第4王子 朝彦親王の屋敷がありました。朝彦親王は青蓮院門跡・天台座主をつとめましたが、孝明天皇の信任が厚く、還俗し中川宮と称して天皇を助けました。その後邸宅の庭にあった榧の巨木にたなみ賀陽宮と称しました。その公武合体政策は尊王攘夷派からは敵視され、明治維新後は広島に移されました。貽範碑建設に名を連ねる梨本宮守正王は朝彦親王の第4王子です。

 まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き上0514  京都御苑内  大樹

五七五

しあわせの ゆりかご揺らす のは自分 /斉尾

ことわざ

人の苦楽は壁一重