どのようにして 製造しているのだろう
淳和院跡
淳和院は西院ともよばれ、現在の地名のもとになっている。
淳和院の位置は、四条大路(現在の四条通)の北、道祖大路(現在の佐井通)の東で、大正時代までこの北方にあった通称「飯の山」が、淳和院にあった池の中島であったとする説に従えば、南北516m・東西252mの広大な敷地を占めていたことになる。
淳和天皇は、833(天長10)年に位を仁明天皇に譲り、上皇となって840(承和7)年に亡くなるまでこの院で過ごされた。
淳和天皇が亡くなった後、皇后正子がこの院を寺とし、以後は仏教道場として使用された。
「日本三代実録」によると、874(貞観16)年4月19日夜半、淳和院から出火、火の勢いは激しく、内裏(現在の千本丸太町の北方)にまで火の粉が飛んだと記されている。その後、淳和院は再建されたが、規模や廃絶した時期については明らかではない。
当ビル建設前の平成4~5年にかけて発掘調査が行われ、南北17m・東西10mもある大規模な建物跡をはじめとする掘立柱建物跡群、四条大路や道祖大路の側溝、門跡などがみつかっている。
遺物としては平安時代の瓦が大量に出土したほか、土師器・須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器などの日常品や、中国から輸入された時の貴重品である壺の破片などがある。また銅の鋳物の滓、鋳型の破片、未製品の釘、家具などに使用する金具などが多数出土しており、付近には金物を製作する工房が存在した可能性がある。
今回の発掘調査によって淳和院の西南の一角が明らかになり、平安時代前期の天皇家の後院を知る上で重要な成果を得ることができた
近辺地域寺社記事 ➡ 中京界隈 堀川西・二条城
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京都市 地下鉄 烏丸御池駅構内に 掘り出された 遺物が展示されています
烏丸線との埋蔵文化財
京都市高速鉄道烏丸線(地下鉄)の工事を始める前提として、1974年から考古学的な遺跡調査を行ってきましたが、ここにその成果の要点を展望できるように出土品を展示しました。烏丸通は、平安京からの街路の名残ですが、現在の姿になるには幾多の変化がありました。このような京都の変遷過程を一部でもよいから明確にのこしておきたいと考えていました。ところが、多くの新発見がありました。例えば、平安京域内から弥生時代の住居跡や織田信長が築いた旧二条城跡と思われる石垣と濠の発見などは、その一端と言えるでしょう。そして、縄文土器や弥生土器の出土は、京都の古い姿を復元するうえに重要な資料であります。また、宋銭などの中国貸銭や青磁・白磁などの外来陶磁器の豊富さは、対中国交易の永い往来をものがたっています。これらから、京都は平安京としての王城だけてはなくて、外国の物産や人々の往来する国際的な都市であったことを私達に教えてくれます。
平安時代後期の瓦
ここに展示している瓦は、烏丸五条下ルから大量に見つかった平安時代後期の瓦の中から選んだ軒瓦です。
この瓦が出土した周辺は、平安時代には平安京左京六条三坊にあたり、文献などから中六条院・小六条院など院政を行う役所「院庁」が建てられていたことが推定されています。このことから、これらの瓦が院庁の建物に使用されていた瓦と考えられます。
これらの瓦には、京都や丹波、播磨などで造られた瓦があります。
丹波や播磨の瓦は、地方に赴任した国司が、京都まで送届けたことを示す貴重な資料です。
江戸時代前期の土器と下駄
ここに展示している遺物は、廃止された市電の姉小路変電所(車屋町通)敷地の調査で発見したものです。これらの遺物は、江戸時代前期のごみ捨て穴から見つかった土器や木製品の一部です。
土器は、唐津、美濃などの国産陶器、中国(明)からの輸入磁器、灯明に使われた土師器(かわらけ)などが見つかりました。木製品では、下駄がたくさん見つかりました。下駄には、大人用や子供用、下駄の歯を「ほぞ」で結合し、「くさび」を打ち込んだものも見つかりました。また、ごみ捨て穴から、これほどまとまって下駄が見つかった例は少なく、貴重な資料です。
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まち歩き で 発見
三條東殿遺址
現在の三條烏丸交差点の東北に位置する方40丈(約120メートル)の地は、古の三條東殿の遺址にあたっている。11世紀の初め、ここには、伊豫守藤原濟家通の邸宅があり、それは子孫の宮内卿藤原家通に傳えられた。崇徳天皇の天治2年(1125)、白河法皇はこの地を得られ、ここに見事な殿舎を造営し、院の御所とされた。法皇の崩後鳥羽上皇は、三條東殿をやはり院の御所とされ、后の待賢門院と共に住まれ、それは長承元年(1132)7月の焼亡時まで続いた。その後この地は皇子・後白河法皇の院の御所となった。
平治元年(1159)12月9日の夜、源義朝は軍勢五百余をもって三条東殿を襲撃、法皇をここから連れ去って幽閉し、かくして平治の乱が勃発した。
その時、武士と火焔にせめたてられた多数の官女が三條東殿の井戸に入って非業の死をとげたという。このように三條東殿址は、院政時代における政治的文化的中心地のひとつであり、その点で永く記念されるべき遺跡である。昭和41年11月2日
財団法人 古代学協会
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まち歩き で 発見
教諭所(宣教館)跡
幕末、京都の庶民教育機関であった教諭所は、もと、皆川淇園門下の北小路梅荘が計画し、天保4年(1833)許可されて室町丸太町下るの町屋に開校した。数年後衰退し中絶したが、天保8年(1837)の飢饉に経済活動に従事した心学講社の援助を得て翌9年7月東洞院三条下る住心院地内に新築、開校された。教諭所の教育運動の特徴は経書講釈や心学道話の授業のほかに飢民救助などの社会事業に積極的に参加したこととされている。
元治元年(1864)7月の蛤御門の戦いで焼失したが、翌2年2月、東洞院三条西北角の当地に再建された。明治2年(1869)2月、下京4番組小学校となり、教諭所は消滅した。
京都市
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この作品は 京都市地下鉄 御池駅 構内 改札口付近に設置されています
インパクトがあります
設置方法を考慮すればもっと多くの人に感動を与えられるのではないかと思いますが
流作品 ➡ 彫刻 OKIBARI YASU BY MASAYUKI NAGARE 1989
彫刻 の展示 ➔ まとめ020 彫刻
京都 三条 白川橋を東へ少し行ったところにありました
坂本龍馬 お龍 「結婚式場」 跡
当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。
元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。
龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。
当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。
当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟とし、ここに建碑します。歴史地理史学者 中村武生
近辺地域寺社記事 ➡ 寺社検索22 粟田口
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京都現存最古の道標
三条白川橋の南東に建っています
後500メートルほどで 三条大橋です
北. 三条通 白川橋
東. 是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち
南. 京都為無案内旅人立之
延宝6戌午三月吉日 (1678年)
施主 為二世安楽
硬質の花崗岩に見事な書体が刻まれています。
300年もの風雪に耐えてほとんど損傷がない。
古い道標は売名・営利目的とするのがきわめて少なく、
人知れず善意をほどこそうとしているようです
日本で最も古い道標は
1 神奈川県藤沢市城南 大山道を示す 万治4年(1661)
2 兵庫県川西市加茂 寛文12年(1672)
3 奈良県明日香村の川原寺前 寛文13年(1673)
4 兵庫県姫路市飾東町東国 書写山を示す延宝6年(1678)
6 長野県軽井沢追分 延宝7年(1679)
7 滋賀県草津市 立木神社 延宝8年(1680)
これらは地方色をもった素朴なつくりになっている
これに対して 白川の道標は都会的な完成されたものになっている
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京都 天神川三条にあります
正面入口 と 手水舎
拝殿 と 本殿の上部に猿が
狛犬 ところどころ ひびが入っている
紋
絵馬
左.稲荷明神、秋葉大明神
右.大国主神社
左.五社
右.地元自治会建立 昭和31年建立
左.道標 無観世音菩薩 (みぎがわ) あたごへ 二里半 (ひだりがわ) ふしミへ 三里半
巨大な 楠
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