何の神様なのか
何かが記されていたのかな 今は全く不明
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稲荷大明神
鳥居は大正2年建立
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この家に一体化し 大切にされていることがわかります
石の台座があるので 昔は 外に出るような設置だったのでしょう
今は 家の一部に組み込まれています
猿田彦太神
扉も手入れされて 光沢が出ています
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元々この地には、彦火火出尊を祭神とする愛宕神社が町内北東にあり、
「火伏せの社」として信仰されてきた。
寛政の初め頃、藤原北家閑院流風早家の邸内に鎮座していた菅原道真の像を合祀した。
その後、この地域は風早町と呼ばれ、愛宕神社もいつしか火尊天満宮と呼ばれるようになった
石ケ坪の行者さん
西七条は昔から良い水の出所で、御前通り塩小路西に
水薬師寺があり平清盛が熱病で死の床についた時
この水で頭を冷やしています。
また、有名な一休和尚はその師匠の為に
看病の水を汲みに来ています。
西大路八条の若一神社にも名水が出ています。
この石ケ坪の近辺で「行者さん」といわれている所には
古くから霊石があってそこから霊水が湧き後に
不動さんの石像もつくられました
少し北には赤社町という町内があります。
赤社町の由来は不明ですが
赤はアカでインドの仏教の言葉で開迦と書き
仏教にお供えする水の信仰に関連するかもしれません。
閼伽井と関連があるかもしれません
この石ケ坪の行者さんには江戸時代後期から
大峯・熊野の信仰があったことがわかっています。
とくに信仰の篤い人は修験道を統括していた三井寺から
免許をもらい先達となり修行者の指導をしていました。
手水舎
水引龍神
延命地蔵大菩薩 天道大日如来
不動明王 行者大菩薩
祠の裏手に
地主神變大菩薩
サルスベリ
平成27年7月11日 撮影
遍照寺の北にある 小さな祠です
実は ここは 稲荷古墳といわれ
直径20メートルの円墳であることがわかっています
赤い鳥居が特徴です 頂部に祠があります
古墳関連記事 ➡ 蛇塚古墳 (へびつかこふん)
京の町中を掘り起こせば
昔の遺物・遺跡が必ずといっていいほど出てきます
石仏は実に多数あります
粗末に扱う人はいないようです
御土居から出土した 石仏
御土居から出土した石造物
「御土居」は豊臣秀吉が天正19年(1591)に戦乱のため荒れていた京都の洛中、洛外を区画し、外敵の来襲に備えるため
京都の周辺に築造した延長23キロメートルにおよぶ土塁である
ここに祀られている石造物は この御土居から出土したものと伝えられている
すべて花崗岩製で横顔は阿弥陀仏、二尊石仏、地蔵石仏、五輪塔などがある。
これらの制作年代等は銘文がないため不詳であるが、
奥中央の石仏等はふくよかな顔立ちから想定して
室町時代頃まで溯る可能性がある
また、地輪、二尊仏を彫刻した五輪塔は室町時代末期頃の製作と推定される。
これらの石仏は庶民信仰の歴史を研究する上でも大変貴重な遺物である。
なお、この辺りはもと御土居があった所で
近くの天満宮境内や平野鳥居前町には
国の史跡に指定された御土居があり、
当時の面影を伝えている。
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民家の一部のようにも思えるのですが
愛宕常夜灯 昭和16年2月 建立
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