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錦絵で識る我が街の歴史1

2016年02月25日 | 我が町探訪
最近ちょっと気になることがあります。東海道五十三次で描かれた我が街と現実の風景と差異があり過ぎじゃないかと。ちょっと問題の歌川広重の画をここに貼ってみましょう。



んで、先日撮影してきた写真がこれです。



錦絵に描かれた巨大な杭型の看板(棒鼻)は、ここから大磯※と書いてあるそうです。東海道の位置と国道1号線の位置はずーっと変わってないから、写真に写ってる「大磯町」の看板と同じ位置にあったはず。ちょっと見づらいようだから、アップにしてみましょう。



これを見ると、大きな間違いに気づいてしまいます。錦絵に描かれた高麗山(こまやま・地元の人は湘南平と言ってます)があまりにも左側に寄り過ぎてるのです。これはなんなんでしょうねぇ? 錦絵の東海道のカーブと現実の国道1号線のそれを比べたら錦絵の方がちょっときついですが、概ね合ってます。となると、高麗山の位置は多少歌川広重の創作が入っていたのかもしれませんね。
錦絵の方には高麗山のさらに右側に丹沢山系とその間にそびえ立つ富士山が描かれてますが、現実の丹沢山系はもっともっとずーっと右側です。富士山もこの位置からは見えません。富士山は今も昔も日本を象徴するもの。歌川広重はどうしても富士山を入れたかったんでしょうねぇ。富士山は記号です。

写真のこの先には花水川(金目川)が流れてます。ちょっと大きな川です。



が、錦絵ではそこに小さな太鼓橋があるだけ。代わりに絵全体が湿地帯に見えます。江戸時代後期この付近一帯は湿地帯だった? 今ここにはなか卯があり、安楽亭があり、ロイヤルホームセンターがありますが、万一震災がおきると、このあたりすべてが液状化し、水浸しになるかもしれませんね。

2月26日追記
ちょっと気になったので、今日も撮影箇所に行ってきました。上記では富士山は見えませんと書きましたが、実は見えました。この付近は建物が多くちょっと見富士山は見えませんが、建物と建物の間を丹念に見たら、実は見えてました。そんなわけで、訂正します。

8月26日追記 
※この場所は江戸時代は高麗寺村、または高麗村があったそうです。


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