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真の相州仲原を探してみる1の2

2017年03月23日 | 我が町探訪


下田川を遡る旅。今日はE地点から始めましょう。

昨日のD地点が見えますね。振り返ると、

ここからまた遊歩道になってます。
足元を見ると

水神さまが鎮座してました。ここに川が流れていたことはたしかなようですね。

F地点に来ると遊歩道が終了し、一般道となります。

左が歩道、右が車道です。歩道が広いですねぇ。


この道を歩いていくと、こんなものが。

ここはG地点。ここには水路がありました。正式名称はせせらぎ水路。水路と言っても、明らかに飾りの水路です。おまけに水は流れてません。この水路と下田川暗渠の関連性は不明です。ただ暗渠は、道路の方を流れてるような。
ちなみに、

橋の部分は実は橋ではなく、橋の手前で一度水が下に消えていく設計でした。向こう側でまた水があふれだす設計なのかな?

H地点です。ここからせせらぎ水路の水が湧く設計だったようです。

この水路に水を流すとなると、ちょっと金がかかるような。どんな時に水を流すのかなあ? 仮に暗渠の水を流すとなると、匂いがして、近所迷惑になりますよね。てことは、水道水を流す? それとも井戸水? う~ん、どっちにしろ、いろんな意味で大変そうです。

ここから水路が消え、歩道も狭くなります。


ここはI地点です。眼の前を横切ってる道はバス通りです。

コンビニとその駐車場が見えますよね。白いクルマが駐車してある部分ですが、私の記憶だと7年くらい前、この部分にはドブ川が流れてました。つまり、下田川はこの一瞬だけ姿を現していたのです。しかし、今はその一瞬さえ暗渠になってしまいました。

そして次の十字路。地図上だとJ地点。ここが今回の重要な箇所となります。

青いクルマが走って行く方向が先ほどのコンビニ。今ここを交差してる道が旧中原街道です。先日の調査で中原御殿⇒平塚間には2本中原街道があることがわかりましたが、この道はその1本なのです。となると、北斎が冨嶽三十六景相州仲原をこの近辺で描いた可能性があります。
ここでその錦絵を貼ってみましょう。

川幅はちょうどいいかなあて感じ。現在は家が建ち並んでしまって富士山は見えませんが、たぶん富士山と川(道路)の角度は合ってると思います。ちなみに、明治19年の地図を見ると、この先にはある程度家が建ってました。けど、北斎の絵には家はありません。あるのは荒涼とした原野です。北斎は家などの建造物をすべてカットして描いたと解釈しましょうか。ここで渋田川の方に眼を移すと、川の向こうはずーっと田んぼでした。その点は渋田川説の方が有利ですね。
なお、絵では橋を渡ってすぐにT字路がありますよね。このような箇所は明治19年の地図では、下田川にも渋田川にも、そして後で話す谷川にもありませんでした。この道は北斎の創作かもしれませんね。
ちなみに、この地点の現住所ですが、平塚市御殿1丁目33です


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