競馬マニアの1人ケイバ談義

がんばれ、ドレッドノータス!

真の相州仲原を探してみる1の1

2017年03月21日 | 我が町探訪
先日は東海道と中原街道が交差する点を探してみました。そこで使った錦絵が歌川広重の東海道五十三次之内平塚縄手道。実はもう1つ有名な連作風景画、冨嶽三十六景にも平塚を描いたとされる絵があります。それが冨嶽三十六景相州仲原。

平塚市には「仲原」はありませんが、「中原」はあります。江戸時代固有名詞はちょっといい加減だったから、作者の葛飾北斎はわざと間違えたのかもしれませんね。

さて、前回この絵を調べたとき、この絵に描かれてる川を渋田川としました。しかし、どうも違うような・・・ もう1度渋田川の写真を貼りましょう。

どうです、錦絵と比べるとあまりにも川幅が広すぎると思いませんか? 深さも違うし、川の角度も違うし。この違和感、実は前回調べたときから感じてました。しかし、他に該当する川はありません。そんなわけで渋田川を相州仲原で描かれた川としたのですが・・・
古い地図を調べてみたら、該当する川があったのです。しかも、2本も。1つは下田川、もう1つは谷川。今日からその2つの川を辿ってみようと思います。まずは下田川を辿ってみます。

まずは明治19年の地図を見てみましょう。

先日小桜川を辿ったとき、用意した地図です。古池と書いた池に1本の川が流れ込んでますね。これが下田川です。蛇足ですが、古池は18世紀玉川(現在の渋田川)の氾濫で誕生した川のようです。この池は昭和2年に埋め立てられたようです。隣の池は新池。この池はあるHPでは1808年にやはり玉川の氾濫でできたと書いてあるのですが、別のHPでは1803年に記された地図ではすでにあったと記されてます。どっちが正しいのか? ちなみに、新池は現在は達上池という名前になってます。

思いっきり脱線しました。話を下田川に戻しましょう。今度は昭和30年代後半の航空写真を貼りましょう。

青で塗った川が下田川です。実は下田川は現在大半が暗渠化されてるのですが、この時代はまだ暗渠化されてません。でも、何か中途半端なところで終わってますねぇ。もしここから暗渠化されていてそのまま続いていたとしたら、渋田川に河口か水門があるはずですが、ありません。どうやらここで下田川は止まってたようです。しかし、ここで川を止めてしまうと、川が氾濫してしまいます。そこでこんな仮説を立ててみました。
実は下田川は先日話した小桜川と地下(暗渠)でつながってた。そうなると前回話した小桜川の最後の問題提起の回答にもなります。ま、証拠がないのでなんとも言えませんが。

ここからは現場で撮影してきた写真を貼って説明しましょう。まずは現在の地図を貼ります。


A地点の写真です。

これは橋(平塚大橋)から撮影してます。現在の下田川は渋田川に流れ込んでました。ちなみに、現在の地図では水門から流れ出た水はB地点の方向に流れてますが、まあここは河川内です。川の流れは自然堤防内ではしょっちゅう変わります。地図と写真が合致してなくても、これくらいの不一致は問題ないとします。

C地点の写真です。

カーブが終わり道(遊歩道)が直線になったあたりから暗渠と遊歩道が合致してると思われます。


遊歩道です。C地点の方を見ています。


D地点です。目の前を横切ってる道は秦野街道(県道62号線)です。暗渠は歩道と車道の中間あたりにあるようです。ちなみに、この先は市民病院です。

これは逆から写した写真です。

行数多くなったので、今日はここまで。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿