今回の被災によって、いわての文化活動が停滞してはいけないということで、『いわて文化支援ネットワーク』なるものが、動き出しました。
私も、メンバーに入ってはいるのですが、会議は平日の夜に盛岡でとなるので、顔を出すことはできていません。
さしあたって、はじめの動きとしまして、普代村・野田村・洋野町の芸術鑑賞事業が無くなるということに対して、県内の音楽家の方々のご協力を受けて、子ども達に鑑賞の場を提供すべく行動を開始しました。
組織と、市町のパイプ役として、私が若干動かせていただきましたし、現在全体のコーディネートは、盛岡の寺崎巌さんがおこなってくださっています。
久慈地区の音楽関係の方で、ご協力できる方は、ぜひこのプロジェクトにご協力いただければと思います。
今後詳しいことが決まりましたら、随時アップしていきます。
震災の様子をテレビで見て、自分も何かしなきゃと思っている人達がいる。
『あっち』の人だ。
震災によって、被害を受けている人達がいる。
『こっち』の人だ。
どっちも、世界が違う。
『あっち』と『こっち』を行き来して、橋渡しをしようとして奔走している人もいるけれど、テレビの向こう側の『こっち』の世界をバーチャルとしか感じられずに、『こっち』 を感じようとはしているのだけれども、『あっち』の日常の中からは出ることができずに、『こっち』を支援しよう支援しようとあくせくしている人もいる。
悪いことではないんだけど、リアルじゃない。
来月、東京に行ってリアルじゃない人達がいるリアルな街を見てこよう。
リアルを感じられる私たちが、リアルを感じられない人達を支援することも必要な気がする。
東京の人達は支援されるという表現をされると、嫌な気がするだろうか。
それは、被災地にいてもきちんとプライドを持っている人達も同じ気持ちなはずだ。
それをわかって支えようとしている人なら、受け入れてもらえるだろうが、知らず知らずに上から目線で、『支援』という、デリカシーの無い表現を使う人は、なかなか受け入れてもらえないだろう。
違う世界の人達の心をつなぐこと…表現者としては、これからが戦いだ。
ベッカーズアクト桜姫(妖艶編)舞台写真より。(たぶん1998年ころかな…。)
やっと、宮城県の実家に行って砕け散った食器の片付けや、ずれた屋根瓦の修理、本棚の本の整理をしてきました。
宮城の南三陸町には、1914年生まれの私の祖母が居ますが、元気にしていました。ただ、落橋していて、震災前は5分でいけたところに30分もかかってしまうことや、まだ水も電気も通っていないこと、もちろん電話も通じないことを目の当たりにして、今まで以上に地方の切捨てを感じずにはいられませんでした。真冬の出来事だったら、もっともっと多くのお年寄りが亡くなっていたことは間違いの無いことでしょう。
最近の私の主な仕事は、実家もあさって、自宅も探して、劇団ベッカーズアクトの怪優熊谷氏の写真やネガを集めることでした。
陸前高田市職員だった彼は、前向きで絶対困難からは逃げない、勇気のある男でした。震災当日も、彼は最大級の困難に直面しても、逃げませんでした。
吹きすさぶ風が砂埃を舞い上げ、瓦礫の中でパワーショベル一台が淋しく作業を進めていた陸前高田の中心部。彼の自宅も跡形もありませんでした。
彼の残された三人の娘と奥様のために、彼の写真を集めてアルバムをつくっています。30枚の写真が見つかりました。彼からもらった年賀状も含めて、一冊がうまるアルバムができました。
このアルバムを、彼の奥様に手渡したいのですが、どこにいるのか分かりません。もし、分かる方がいれば私に連絡をください。
こんなことぐらいしか私にはできないのですが、自分にできる精一杯のこんなことを重ねていければと思っています。