虹と雪のバラードという曲を知っているだろうか。
1972年、札幌で開催された冬季オリンピックを盛り上げるために、前年に作られた曲である。
当時は、冬季オリンピックを盛り上げるのが目的だったことから、レコード会社数社の競作となり、トワ・エ・モアのほか、菅原洋一さん、黛じゅんさん、ピンキーとキラーズなどが録音、同時発売されたという。
しかし、当時北海道に住んでいたことや、圧倒的にトワ・エ・モアの歌が人気を博したせいか、他のひとたちの歌を聴いた憶えはない。
札幌は、冬季オリンピック開催がきっかけとなり、大々的に都市整備が進んだ。
まずは市内を南北に走る地下鉄が開通し、大通り公園の下に地下街ができた。現在の札幌の街並みは、あの頃につくられたものである。
残念なことに、オリンピックの開催された年の翌年、一度トワ・エ・モアは解散している。聞くところによると白鳥さんと芥川さんの音楽性の違いが原因だったとか。
それと同時に、この「虹と雪のバラード」は、全国的なメディアから姿を消すことになった。ただ、オリンピックを開催した札幌だけは、毎年真駒内のアイスアリーナがオープンする日には必ずこの曲が一日じゅう流れ、それは今も変らないそうだ。
そして数十年後、再びこの曲が脚光を浴びるときがやってきた。
長野オリンピックである。
長野オリンピックを盛り上げるために、この曲を歌ってほしいとの要請が白鳥さん、芥川さんのもとに寄せられたのである。
すでに芥川さんは歌手をやめ、数十年もの間プロデューサーとして活動していた。
オファーをもらって考えた芥川さんは、再びステージに立つことを決意する。
3か月間のボイストレーニングを経て、長野オリンピックを盛り上げるための音楽祭で、白鳥さんとともに「虹と雪のバラード」を歌い上げたのだった。
さらにそれを機に、ふたりはまたトワ・エ・モアとして音楽活動を再開。現在も活躍している。
この「虹と雪のバラード」という曲が誕生した陰には、あるひとりの男性が関与していた。当時NHKのプロデューサーだったひとなのだが、そのひとが長年担当していたのが、「みんなのメロディー」という音楽番組だった。
素人による作詞、作曲の歌を、プロの歌手がうたうというもので、結構人気があったとか。それを裏付けるように、番組からはたくさんのヒット曲が出ている。
北島三郎さんが歌った「与作」やトワ・エ・モアのデビュー曲で大ヒットした「空よ」などがそうだ。
特に「空よ」は、通常「ミ」の音から始まらないと言われていたのを、あえて出だしを「ミ」の音にして作られたということでとても珍しがられ、しかもヒットしたことで、稀有な曲との話を聞いたことがある。
そういう点でこの番組は、アマチュアならではの斬新さ、ルールにこだわらない自由さが売りの番組だったように思う。その番組を担当していた男性が、札幌に転勤となり手がけた大仕事が、札幌オリンピックをPRする曲作りだったというわけだ。
男性は作曲を当時、フォーク、ポップスで人気を博していた村井邦彦さんに依頼した。
その条件は「グルノーブルオリンピックのテーマ曲となった、『白い恋人たち』を超えるもの」だったというから、その意気込みは並々ならぬものがあったようである。
そして作詞は、となったときに彼の頭に浮かんだのが、作詞家ではなく現代詩の第一人者で整形外科医でもあった河邨文一郎さんだった。
河邨文一郎さんは小樽出身の整形外科医で、昭和三十年代に大流行した小児麻痺の分野で大きな貢献をしたことにより、肢体不自由児の父とも呼ばれていたほど、医学界においても、第一人者であった。
若い頃に金子光晴と出会い、師事。
河邨さんは、自身を整形外科医が詩を書いているのではなく「詩人が整形外科医もやっている」と称してほしいと願っていたというから、詩作には、相当のエネルギーを使ったひとだったのだろう。
その現代詩人に札幌オリンピックのテーマソングの詩を書いて欲しいと頼んだのである。
そのとき、つけられた条件がいくつかあったという。
・誰もが歌える歌。
・たったひとり寂しさのなかでギターを弾きながら歌える歌でありながら、合唱にも耐えうるもの。
・長く歌い継がれるもの・・・
現代詩の詩人である河邨さんにとって、わかりやすい詩を書くことは難しいことだったようで、何度か書き直しを要請されたそうである。
しかし、出来上がった詩に対して、河邨さんは「妥協してはいない」と言ったという。
そして生まれたのがあの「虹と雪のバラード」だった。
トワ・エ・モアのふたりが当時、初めて河邨さんの詩に出会ったときに「単なる詩ではなく、ポエムだった」「品格が感じられた」との印象を語っていたが、実際、この詩を読むと、決して難解でないないが少しの観念的な要素が盛り込まれ、そして品性が漂っている。
あれから三十七年。当時のNHKの担当者がつけた条件の通り、この曲は今も多くのひとに愛され、歌い継がれている。
実は、河邨文一郎先生は、私を診てくれたお医者さんでもあった。
小児麻痺ではなかったが、同じ頃に身体に障碍を持って生まれ、足が不自由だった私は、小学校に上がる前の数年間、河邨先生が勤務されていた札幌医大の整形外科に通院し、矯正靴を作ってもらって履いていたのである。
成長してからはお会いする機会はなかったが、先生の詩人としての活躍、そして「虹と雪のバラード」を作詞されたことを少なからぬ縁を結んだひとりとして喜んでいた。
ひとの生命は短く、限りがある。しかし、そのなかにあって、ひとが生み出した芸術、文化は長く愛されそして、受け継がれ、語り継がれていく。
「虹と雪のバラード」もそうしたもののひとつだろう。
きっとこの曲も、これからも長く歌い継がれていくことだろう。
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