『気づいたからといってすぐに変わろうとしないこと』
先日もここに、トランスパーソナル学会の『春のスペシャルイベント』に参加した時のことを書き「気づくということは傷つくことでもある」とPOPのF先生の言葉を紹介したが、それに関して話されたもうひとつのことがある。
それは「気づいたからといってすぐに変わろう、そんな風になろうとは思わないで欲しい」ということだった。
何かしら問題や課題を抱えながら生きている私たち。
それだけに何か気づきがあった時にすぐに変わろう、変わりたいとの思いが湧いて、即、実践しようと試みるのが人間である。
しかし、F先生はそれは避けた方がいいという。
なぜならせっかくの気づきであってもまだ実践できる状況に至っていないことが多いからだという。
自分自身の精神状態もあるだろうし、周囲の状態もあるだろう。
実践するにはそれなりの準備段階が必要であり、色々な条件をクリアしていかなければいけない。
それを無視して、焦りから無理をしたり強引に挑戦した見たりすることで、気づきによって表出したものと乖離が生じ逆に落ち込んだり、上手くいかないことで苛立ちを覚えるなど、プラスに働くはずの気づきがマイナスに働くことも無いとは言えないのだ。
それを回避するにはやはり焦らず流れに任せるのが一番。
そして現在、実は私自身がその渦中にいる。
昨年の暮れの大きな気づきによって、自分がやりたいことや将来の方向性がある程度定まったのだが、あれからほぼ半年経つが、具体的にこれという形にはまだなっていない。
捉え方によれば停滞しているとも思える状況ではあるのだが、だからといって私のなかで何も動きがない、変化がないかといえば決してそうではない。
先日も教育分析を受けてきたのだが、そのときの講師とのやりとりから自分が思っていたところではない場所に立っていることが明らかになったのだった。
それは少々驚くべきものであったが、今、改めてその時のやりとりを聞きなおして(録音している)みると、なるほどそれも大きな気づきの大きな流れに沿ったものであることが分かってきた。
つまりは自ら意識して行動を起こさなくても、流れは自然と気づきの方向へと進んでいっていたのである。
そしてその過程の中で、私の本質とでもいうべきものが自ら望んでいる方向へと微調整しているということも見えてきたのだった。
それを講師は「思いを超えたもの」と説明してくれたが、気がつけば、静かに静に緩やかに無意識のうちに変化していったということに他ならない。
そして、おそらくそこを指摘してもらわなければ自分で気づくことは容易ではないだろうし、たとえ分かったとしてもそこにたどり着くまでに相当の時間を費やすことになっただろう。
そうした点で私にとっての教育分析は今までとは少し様相、意味合いが変化してきていることは否めない。
問題や課題を明らかにしてそれを解決、解消していく場だったものが、その時点での自分の内面での深度までもを気づかせてもらう場になってきている。
確かにいつくるともしれない変化を待つのはちょっと大変かもしれないが、ワインが熟成のときを待つように、気づきによる変化もそのときを待つことがとても大切なのである。
あなたに気づきが起きた瞬間、その気づきは常にあなたのなかに無意識として留まり、そしていつの日か機が熟した絶妙なタイミングで変化が起こるはず。
無理をせず、じっくりと大きな流れに委ねることで気づきはいいかたちであなたの人生に働きかけることだろう。
先日もここに、トランスパーソナル学会の『春のスペシャルイベント』に参加した時のことを書き「気づくということは傷つくことでもある」とPOPのF先生の言葉を紹介したが、それに関して話されたもうひとつのことがある。
それは「気づいたからといってすぐに変わろう、そんな風になろうとは思わないで欲しい」ということだった。
何かしら問題や課題を抱えながら生きている私たち。
それだけに何か気づきがあった時にすぐに変わろう、変わりたいとの思いが湧いて、即、実践しようと試みるのが人間である。
しかし、F先生はそれは避けた方がいいという。
なぜならせっかくの気づきであってもまだ実践できる状況に至っていないことが多いからだという。
自分自身の精神状態もあるだろうし、周囲の状態もあるだろう。
実践するにはそれなりの準備段階が必要であり、色々な条件をクリアしていかなければいけない。
それを無視して、焦りから無理をしたり強引に挑戦した見たりすることで、気づきによって表出したものと乖離が生じ逆に落ち込んだり、上手くいかないことで苛立ちを覚えるなど、プラスに働くはずの気づきがマイナスに働くことも無いとは言えないのだ。
それを回避するにはやはり焦らず流れに任せるのが一番。
そして現在、実は私自身がその渦中にいる。
昨年の暮れの大きな気づきによって、自分がやりたいことや将来の方向性がある程度定まったのだが、あれからほぼ半年経つが、具体的にこれという形にはまだなっていない。
捉え方によれば停滞しているとも思える状況ではあるのだが、だからといって私のなかで何も動きがない、変化がないかといえば決してそうではない。
先日も教育分析を受けてきたのだが、そのときの講師とのやりとりから自分が思っていたところではない場所に立っていることが明らかになったのだった。
それは少々驚くべきものであったが、今、改めてその時のやりとりを聞きなおして(録音している)みると、なるほどそれも大きな気づきの大きな流れに沿ったものであることが分かってきた。
つまりは自ら意識して行動を起こさなくても、流れは自然と気づきの方向へと進んでいっていたのである。
そしてその過程の中で、私の本質とでもいうべきものが自ら望んでいる方向へと微調整しているということも見えてきたのだった。
それを講師は「思いを超えたもの」と説明してくれたが、気がつけば、静かに静に緩やかに無意識のうちに変化していったということに他ならない。
そして、おそらくそこを指摘してもらわなければ自分で気づくことは容易ではないだろうし、たとえ分かったとしてもそこにたどり着くまでに相当の時間を費やすことになっただろう。
そうした点で私にとっての教育分析は今までとは少し様相、意味合いが変化してきていることは否めない。
問題や課題を明らかにしてそれを解決、解消していく場だったものが、その時点での自分の内面での深度までもを気づかせてもらう場になってきている。
確かにいつくるともしれない変化を待つのはちょっと大変かもしれないが、ワインが熟成のときを待つように、気づきによる変化もそのときを待つことがとても大切なのである。
あなたに気づきが起きた瞬間、その気づきは常にあなたのなかに無意識として留まり、そしていつの日か機が熟した絶妙なタイミングで変化が起こるはず。
無理をせず、じっくりと大きな流れに委ねることで気づきはいいかたちであなたの人生に働きかけることだろう。
ならないかもしれない。
生きていく中で
GOを出したものと
出さなかったもの。
そして、それらのはざまにあるもの。
今を自覚することを
おざなりにさえしなければ、
全て素敵な感じです。
気づきはすべてが自分にとって心地よいものとは限らない。
だからひとは気づいても気づかないふりをしたり、認めなかったりするんだと思う。
苦しい気づきだったとしてもそれもよしなの。
確実に何かを得ていると思える。
今の私はそんな感じです。