このブログでもすでに何度となく紹介している「ボディフォーカスト・アプローチ」のセミナーで、講師である大高先生がよく言われる言葉に「わたしたちは表現するために生まれてきた」というのがある。
この世に生を受けたということは、何らかの目的を持って、それを表現するために生まれてきているのだということを自覚して生きていって欲しいということなのだと思う。
私自身も、最近益々そういう思いを強く抱くようになってきた。
そう、誰もが何らかの形でこの世で表現するものを持って生きているのだと思う。
ずいぶん昔のことになるが、あるひとから一冊の本を借りたことがあった。
三橋節子という女性の生涯を梅原猛さんが書いたもので、その内容は今も思い出せるほど、衝撃的な内容であった。
そこには画家であり、二児の母であった三橋節子が癌に侵されながらも絵筆を握り続けた人生が描かれており、さらに彼女の壮絶な人生を驚愕の思いで見つめた梅原さん自身の感想が記されていたのである。
著者は本の中で、病を抱えた人間が周囲に優しくできるというこは驚きであり、闘病しながら絵筆をもち続けられることは信じ難いことのように受け止めているような書きぶりが、わたしには違和感を覚えるもので、少々気になったことを憶えている。何故、病を抱えた人間が人に優しくできることが驚きであり、闘病のなかで絵筆を持ち続けることが驚きなのだろうと…
それはもしかしたら至極健康な人には理解できないことかもしれない。
しかし実は病と向き合っているときほど、人に優しくできている自分、何かに打ちこめられる自分であることは喜びなのである。他人を思いやれることに自分が自分であることを確かめているのだ。
この本を読み終えて感じたのは、人は誰もが表現したいと思っているのではいかということだった。
誰もがこの世に生を受けた証として何らかの表現をしたいと思っている。
ただ、その手段、方法を知らなかったり、才能というツールに恵まれないことで自分にはできないと諦めてしまったり、あるいは自分の内面に潜むそうした思いに気がつかないだけなのだと…
果たして表現とは、そういう選ばれた人だけのものなのなのだろうか…
否、視点をちょっと変えてみたとき、表現とは限られた人だけに与えられたものではないことに気づく。それぞれに与えられた表現方法がちゃんとあるはずなのだ。
たとえばそれは容姿であったり、仕草や声であったり、頭脳や運動能力、それも文科系、理科系、個人競技や集団競技、造形や色彩、想像力、優しさ、包容力、几帳面さなど、挙げればきりがない。
喜びも怒りも哀しみも楽しさも…あらゆるものすべてがその人の表現なのである。
ただ、そのことに本人が自覚を持っているかどうかで、そのまま埋もれてしまうか表現となるかの違いが生まれるのだ。
そこに意識をちょっと向けるだけで今までとは違う自分を発見できるかもしれない。
そこに新たな可能性さえも見出せるかもしれない。
もちろんそこからは自分が自分を磨くこと。
誰の力も借りることはできないし、評価も得られるとは限らないことも承知していなくてはいけないが…
表現とはそのひとそれぞれが自覚を持って生きる姿そのものなのではないだろうか。
この世に生を受けたということは、何らかの目的を持って、それを表現するために生まれてきているのだということを自覚して生きていって欲しいということなのだと思う。
私自身も、最近益々そういう思いを強く抱くようになってきた。
そう、誰もが何らかの形でこの世で表現するものを持って生きているのだと思う。
ずいぶん昔のことになるが、あるひとから一冊の本を借りたことがあった。
三橋節子という女性の生涯を梅原猛さんが書いたもので、その内容は今も思い出せるほど、衝撃的な内容であった。
そこには画家であり、二児の母であった三橋節子が癌に侵されながらも絵筆を握り続けた人生が描かれており、さらに彼女の壮絶な人生を驚愕の思いで見つめた梅原さん自身の感想が記されていたのである。
著者は本の中で、病を抱えた人間が周囲に優しくできるというこは驚きであり、闘病しながら絵筆をもち続けられることは信じ難いことのように受け止めているような書きぶりが、わたしには違和感を覚えるもので、少々気になったことを憶えている。何故、病を抱えた人間が人に優しくできることが驚きであり、闘病のなかで絵筆を持ち続けることが驚きなのだろうと…
それはもしかしたら至極健康な人には理解できないことかもしれない。
しかし実は病と向き合っているときほど、人に優しくできている自分、何かに打ちこめられる自分であることは喜びなのである。他人を思いやれることに自分が自分であることを確かめているのだ。
この本を読み終えて感じたのは、人は誰もが表現したいと思っているのではいかということだった。
誰もがこの世に生を受けた証として何らかの表現をしたいと思っている。
ただ、その手段、方法を知らなかったり、才能というツールに恵まれないことで自分にはできないと諦めてしまったり、あるいは自分の内面に潜むそうした思いに気がつかないだけなのだと…
果たして表現とは、そういう選ばれた人だけのものなのなのだろうか…
否、視点をちょっと変えてみたとき、表現とは限られた人だけに与えられたものではないことに気づく。それぞれに与えられた表現方法がちゃんとあるはずなのだ。
たとえばそれは容姿であったり、仕草や声であったり、頭脳や運動能力、それも文科系、理科系、個人競技や集団競技、造形や色彩、想像力、優しさ、包容力、几帳面さなど、挙げればきりがない。
喜びも怒りも哀しみも楽しさも…あらゆるものすべてがその人の表現なのである。
ただ、そのことに本人が自覚を持っているかどうかで、そのまま埋もれてしまうか表現となるかの違いが生まれるのだ。
そこに意識をちょっと向けるだけで今までとは違う自分を発見できるかもしれない。
そこに新たな可能性さえも見出せるかもしれない。
もちろんそこからは自分が自分を磨くこと。
誰の力も借りることはできないし、評価も得られるとは限らないことも承知していなくてはいけないが…
表現とはそのひとそれぞれが自覚を持って生きる姿そのものなのではないだろうか。
そういう意見もまた然り、ですね。
意識的であろうと、無意識であろうと