鬱の典型的な症状としてよく知られているのが、死への誘惑である。
実際に鬱を患っているひとに聞いてみると、たしかにそれはあるのだそうだ。
特にうつ症状が悪化して入院を勧められるようなときは、本当に死への願望が強くなるという。
「生きる意味がわからなくなった」というのがあるが、例えば何も手につかなくなる、何もしたくない、何かをする気力が失せてしまい、ただ漫然と生きているのがつらくなるといったものや、いつになったら暗いトンネルの闇から抜け出せるのかがわからない、希望をもてないというものまで、その理由はひとによって様々であるが、一様に生きることへの気力の低下があるように思う。
そのときは誰とも会いたくない、話をしたくない、ひとの話を聞きたくないのだそうだ。ひとと会うことにとても疲労感を覚えるらしく、極力ひとと会うことを避ける傾向が見られる。
だからだろうが、傍にいる人間もなるべくそっとしておいたり、よく言われることだが「励ますことをしない」という風になり、結果として自然とお互いに接触しなくなる。
そのとき本人のなかには、やはり孤独感といったものは存在するらしいが、ひとと会って疲れたり体調を崩すことのほうが本人にはつらいようで、さほど孤独であることに意識が向けられることはないという話をしてくれたひとがいた。
ところがうつが徐々に好転し、回復期になってくると状況が少し変わってくる。
喜怒哀楽といった基本的な感情のなかで、怒りや悲しみは出せても喜びや楽しいといった感情はでにくかったのが、徐々に出せるようになり、笑顔や声をあげて笑ったりするようになる。
そしてここからがおそらく回復期となっていくのではないかと思われるのだが、そのとき気をつけなければならないのが、回復期における死への誘惑、願望だ。
メディアなどの情報ではよく聞いたり見たりしていて、そうなのだとは理解していたが、実際にどういう理由で死にたくなるのかがよく理解できないでいた。
最近、そのことについてある事例に接する機会があってわかったのは、鬱状態があまりよくないときに感じている孤独感と、回復期になって感じる孤独感に違いがあるということである。
鬱状態での孤独感の場合、あることは自覚している。
しかし、それより他人と関わりを持ちたくないという気持ちのほうが強いことから、どうにかしたいという思いにはならないという。
が、回復期になると今までの孤独感とは違う孤独感が襲うのだそうだ。
今までは平気だった孤独であることを、寂しく感じるようになるのだという。
いつのまにか社会とも周囲ともつながっていない自分になっていたことに気づき、そして言いようのない孤独感、寂しさを感じはじめ、社会から自分は必要とされていないのではないかといったかたちでの強い孤独感に苛まれるらしい。
これは、そのひとがとてもシンプルなひととして当たり前の感情、感覚に戻りつつある兆候と見てとれる。
私たちは社会に暮らし、多くのひととの関係性のなかで生きている。
誰ひとりとしてひとりで生きていくことはできない。
その至極当たり前の関係性を拒み、孤独のなかで病と付き合いながら生きてきたひとが、自らひとと繋がりを求めていこうとする回復への最初の段階が「寂しさ」なのではないだろうか。
こうした小さな変化が回復期であることを、おそらく本人はきづいていないのではないかと思う。
それだけに、このふたつ目のハードルをどうやって上手く乗り越えさせて上げられるかが課題だろう。
カウンセリングを受けている場合などは、カウンセラーに心理的変化を話すことで、その兆しを気づいてもらい、対処してもらえる。
しかし、周囲のひとたちがそういった兆しをキャッチできないとしたら事態は必ずしも楽観的にはいられない。
死への誘惑、願望ひとつとっても、そのひとの心の中にあるものは微妙に違う。
そこを周囲のひとたちはできるだけ敏感に感じ取ってあげて欲しいのと、やはり援助職としても、そこをしっかりとキャッチしてサポートする必要がありそうだ。
実際に鬱を患っているひとに聞いてみると、たしかにそれはあるのだそうだ。
特にうつ症状が悪化して入院を勧められるようなときは、本当に死への願望が強くなるという。
「生きる意味がわからなくなった」というのがあるが、例えば何も手につかなくなる、何もしたくない、何かをする気力が失せてしまい、ただ漫然と生きているのがつらくなるといったものや、いつになったら暗いトンネルの闇から抜け出せるのかがわからない、希望をもてないというものまで、その理由はひとによって様々であるが、一様に生きることへの気力の低下があるように思う。
そのときは誰とも会いたくない、話をしたくない、ひとの話を聞きたくないのだそうだ。ひとと会うことにとても疲労感を覚えるらしく、極力ひとと会うことを避ける傾向が見られる。
だからだろうが、傍にいる人間もなるべくそっとしておいたり、よく言われることだが「励ますことをしない」という風になり、結果として自然とお互いに接触しなくなる。
そのとき本人のなかには、やはり孤独感といったものは存在するらしいが、ひとと会って疲れたり体調を崩すことのほうが本人にはつらいようで、さほど孤独であることに意識が向けられることはないという話をしてくれたひとがいた。
ところがうつが徐々に好転し、回復期になってくると状況が少し変わってくる。
喜怒哀楽といった基本的な感情のなかで、怒りや悲しみは出せても喜びや楽しいといった感情はでにくかったのが、徐々に出せるようになり、笑顔や声をあげて笑ったりするようになる。
そしてここからがおそらく回復期となっていくのではないかと思われるのだが、そのとき気をつけなければならないのが、回復期における死への誘惑、願望だ。
メディアなどの情報ではよく聞いたり見たりしていて、そうなのだとは理解していたが、実際にどういう理由で死にたくなるのかがよく理解できないでいた。
最近、そのことについてある事例に接する機会があってわかったのは、鬱状態があまりよくないときに感じている孤独感と、回復期になって感じる孤独感に違いがあるということである。
鬱状態での孤独感の場合、あることは自覚している。
しかし、それより他人と関わりを持ちたくないという気持ちのほうが強いことから、どうにかしたいという思いにはならないという。
が、回復期になると今までの孤独感とは違う孤独感が襲うのだそうだ。
今までは平気だった孤独であることを、寂しく感じるようになるのだという。
いつのまにか社会とも周囲ともつながっていない自分になっていたことに気づき、そして言いようのない孤独感、寂しさを感じはじめ、社会から自分は必要とされていないのではないかといったかたちでの強い孤独感に苛まれるらしい。
これは、そのひとがとてもシンプルなひととして当たり前の感情、感覚に戻りつつある兆候と見てとれる。
私たちは社会に暮らし、多くのひととの関係性のなかで生きている。
誰ひとりとしてひとりで生きていくことはできない。
その至極当たり前の関係性を拒み、孤独のなかで病と付き合いながら生きてきたひとが、自らひとと繋がりを求めていこうとする回復への最初の段階が「寂しさ」なのではないだろうか。
こうした小さな変化が回復期であることを、おそらく本人はきづいていないのではないかと思う。
それだけに、このふたつ目のハードルをどうやって上手く乗り越えさせて上げられるかが課題だろう。
カウンセリングを受けている場合などは、カウンセラーに心理的変化を話すことで、その兆しを気づいてもらい、対処してもらえる。
しかし、周囲のひとたちがそういった兆しをキャッチできないとしたら事態は必ずしも楽観的にはいられない。
死への誘惑、願望ひとつとっても、そのひとの心の中にあるものは微妙に違う。
そこを周囲のひとたちはできるだけ敏感に感じ取ってあげて欲しいのと、やはり援助職としても、そこをしっかりとキャッチしてサポートする必要がありそうだ。