1983年東京都から第一次市場整備計画案がでた、、その中で36ヶ所ある東京の市場を将来6ヵ所に統合するとの計画だった。
その新聞記事を読んだ時、これで花の流通が少しは変わるのかと思った。
36ヶ所から6カ所になると、まず花やさんは随分不便になるように思った。
当時の話しは、セリのロットも大きくなり小規模な花やさんは仕入れが出来なくなる、など誠しやかに話されていた。
私は府中(東京)で花屋をやっていた。すでに15年の経験があり、少し卸の真似事のような事もやっていた。
多摩墓地の周りのお茶屋さんや少し花やさんにも花をわけていた。
当時一億を少し越える売上があったように思う、しかし、この先自分自身の能力も含め、花屋としての限界を感じていた。
その頃、幡ヶ谷生花市場で買出しをしていた、市場としては大きくはなかったが、商品は良いものがたくさんあった。
1985年幡ヶ谷市場前のマンション1階の25坪を借りスタートした。
仲卸とは、何もわからないままで不安だらけだった、花屋を開業する時も花屋へ3ヶ月見習をしただけだった。
今回も、わからなくても何とかなるという楽観的な見かたをしていた、でも大きくなりたい、たくさん売りたいとの、思いは人一倍持っていた。
当時、仲卸といえば大阪の和秀、金子社長の名前は誰でもが知っていた、特別なコネはなかったが、電話をかけアポイントをとって大阪へ向かった。
忙しい中、一日時間をあけて大阪中を連れ歩き、仲卸道のようなものを伝授された記憶がある。
2・3日前に、和秀本社開発営業部の幸田さんからメールを頂いた、幸田さんが和秀として「花育」を取り組んでいて、フロ-レの資料を欲しいとの事で、さし上げたお礼のメールだった。
長文のメールで身に余るお褒めの言葉を頂いた、当時金子社長から受けたご恩にはまだまだこんなことではとてもお返しできてないと思っています。
社長は引退され息子さんが立派に引き継がれていると聞いております。
大阪で金子社長が何度も言った言葉は「花屋を儲けさせれば、花屋は又必ず買ってくれる、花屋を先に儲けさせる」この言葉はいまだに忘れず、もっとうにしている。
1985年3月にオープンした、フロ-レという名前は花弘(下北沢)の細沼常務さんにつけていただいた、「小池君はイタリア的な明るさがあるので」花のイメージでイタリア語の造語でフロ-レがいいと付けてくれた。花弘とはその後1990年に丸紅とジョイントする時、株主になって頂いて、いまだにフロ-レの大切なパートナーである。
私はフロ-レの名前を大変気に入って名前に負けない会社に育てようと誓った。
かえりみると、バブル経済の幕が開いた直後だった、目標を上回る売上が、そしてどうしてもお客にしたかった(KOフローリスト)(Nフローリスト)(Sフローリスト)が毎週何回も来てくれるようになった。
特にオランダから週3回品物を入れていた、一番売れた年はオランダからの全輸入量の5%を輸入した年もあった。
気がついたら売上は10億に近づいていた、毎日毎日が忙しく、私もスタッフもくたくただった、もっと会社らしく、小池商店から株式会社フロ-レへと早く変わりたかった。
時代はバブル真っ盛り、花はバブルの象徴のような存在であった、大手企業は「これからは花だ」といずこも花業界に突込んできた、そんな時、現フロ-レの副社長である丸紅の松田と、出会った、フロ-レ21は松田の命名だった。
立ち上げから5年、今から思うと嵐と雷の連続で、息する暇もないようだった。
花が好きで、花の魅力に取りつかれ、新しい花を、新しい種類を、品質の良いものを、もっと安く、何時もお客さんの要求に答えようと仕事をしてきたつもりです、しかしお客さんの要求に半分も答えることが出来なかったように思う。
そのことが丸紅との新しい出発を決意させた、フロ-レツェンティワンの誕生となった。
それは1990年大田市場の開場と同じくして始まった。
その新聞記事を読んだ時、これで花の流通が少しは変わるのかと思った。
36ヶ所から6カ所になると、まず花やさんは随分不便になるように思った。
当時の話しは、セリのロットも大きくなり小規模な花やさんは仕入れが出来なくなる、など誠しやかに話されていた。
私は府中(東京)で花屋をやっていた。すでに15年の経験があり、少し卸の真似事のような事もやっていた。
多摩墓地の周りのお茶屋さんや少し花やさんにも花をわけていた。
当時一億を少し越える売上があったように思う、しかし、この先自分自身の能力も含め、花屋としての限界を感じていた。
その頃、幡ヶ谷生花市場で買出しをしていた、市場としては大きくはなかったが、商品は良いものがたくさんあった。
1985年幡ヶ谷市場前のマンション1階の25坪を借りスタートした。
仲卸とは、何もわからないままで不安だらけだった、花屋を開業する時も花屋へ3ヶ月見習をしただけだった。
今回も、わからなくても何とかなるという楽観的な見かたをしていた、でも大きくなりたい、たくさん売りたいとの、思いは人一倍持っていた。
当時、仲卸といえば大阪の和秀、金子社長の名前は誰でもが知っていた、特別なコネはなかったが、電話をかけアポイントをとって大阪へ向かった。
忙しい中、一日時間をあけて大阪中を連れ歩き、仲卸道のようなものを伝授された記憶がある。
2・3日前に、和秀本社開発営業部の幸田さんからメールを頂いた、幸田さんが和秀として「花育」を取り組んでいて、フロ-レの資料を欲しいとの事で、さし上げたお礼のメールだった。
長文のメールで身に余るお褒めの言葉を頂いた、当時金子社長から受けたご恩にはまだまだこんなことではとてもお返しできてないと思っています。
社長は引退され息子さんが立派に引き継がれていると聞いております。
大阪で金子社長が何度も言った言葉は「花屋を儲けさせれば、花屋は又必ず買ってくれる、花屋を先に儲けさせる」この言葉はいまだに忘れず、もっとうにしている。
1985年3月にオープンした、フロ-レという名前は花弘(下北沢)の細沼常務さんにつけていただいた、「小池君はイタリア的な明るさがあるので」花のイメージでイタリア語の造語でフロ-レがいいと付けてくれた。花弘とはその後1990年に丸紅とジョイントする時、株主になって頂いて、いまだにフロ-レの大切なパートナーである。
私はフロ-レの名前を大変気に入って名前に負けない会社に育てようと誓った。
かえりみると、バブル経済の幕が開いた直後だった、目標を上回る売上が、そしてどうしてもお客にしたかった(KOフローリスト)(Nフローリスト)(Sフローリスト)が毎週何回も来てくれるようになった。
特にオランダから週3回品物を入れていた、一番売れた年はオランダからの全輸入量の5%を輸入した年もあった。
気がついたら売上は10億に近づいていた、毎日毎日が忙しく、私もスタッフもくたくただった、もっと会社らしく、小池商店から株式会社フロ-レへと早く変わりたかった。
時代はバブル真っ盛り、花はバブルの象徴のような存在であった、大手企業は「これからは花だ」といずこも花業界に突込んできた、そんな時、現フロ-レの副社長である丸紅の松田と、出会った、フロ-レ21は松田の命名だった。
立ち上げから5年、今から思うと嵐と雷の連続で、息する暇もないようだった。
花が好きで、花の魅力に取りつかれ、新しい花を、新しい種類を、品質の良いものを、もっと安く、何時もお客さんの要求に答えようと仕事をしてきたつもりです、しかしお客さんの要求に半分も答えることが出来なかったように思う。
そのことが丸紅との新しい出発を決意させた、フロ-レツェンティワンの誕生となった。
それは1990年大田市場の開場と同じくして始まった。