「縦横無尽」 フローレ21社長のコラム

花の仲卸フローレ21社長小池潔がつれづれに語ります 快調に更新中

桜の力

2012-04-05 10:10:53 | Weblog
さくら並木ネットワークのスタッフと3月8日から11日まで東北の地へ桜の植樹に行ってきました。
何度も東北の地へ足を踏み入れてきたが、いつもいつもたくさんのことを教えられ多くの感動をお土産に帰ってきます。
今回の訪問ではとびっきりのお土産を何人もの方に頂き、爽快な気分で疲れを東北の地へ置いてきたようでした。
どの植樹地でも宮城岩手の造園業者の方がしっかりした仕事をして頂き感激しました。
さくらを植える地は、水はけが悪い所が多く、ユンボで水抜けの溝を掘り、堆肥もたっぷりと使い植えてくれました。
地元住民と桜並木のスタッフが力を合わせ植え込み、しっかりした鳥居支柱で桜を支え、どのような強風にもびくともしない立派なものに仕上げて頂いた。
桜基金に寄付を頂いた賛助会員に見ていただいても納得いただける仕事だと思った。

気仙沼本吉町天ヶ沢で桜の植樹式を行った。農林水産省や桜寄贈者の全花協のメンバー、桜並木のメンバー、そして地元の多くの皆様。

3月11日を境に被災地や被災者の間で生き方や考え方に変化がでてきた。気仙沼本吉町天が沢で9人の犠牲者がでた。
一つにまとまっていた浜が震災以降、被害の度合いでまとまらなくなりました。 家族をなくした人、家を流された人、浸水した家、被害の少なかった家、無事だった家。無事だった人はいつも「無事でなんともなくてご免なさい」との思いで被災した人に接した。
何をしても意見がまとまらない気まずい関係が続きました。
私達が桜の植樹での住民集会を開いた時、最後に発言した人がこういいました「思い思いのさくらを植えるのもいいですが、みんなが前向きに生きてお花見でもしたいと思ったとき、浜のみんなが寄れる桜並木があると良いね」
別の方が「うちの土地を使ってください、海が見えて、津波が直ぐ下まで到達した地点で、広々としてお花見にはうってつけだと思います」
住民集会で桜並木、それも9人の鎮魂と地域の復興を願った桜を9本植えることになりました。
3.11の植樹式で「やっと浜のみんなが、一つになれた」といいました。私達の活動が少し、お役にたった実感がわいた。
この活動を地元で支え続けてくれた三浦君は3.11でお母様を亡くされました。その悲しみを心に閉じ込め復旧復興の先頭に立ち行動してきました。
そして気仙沼の合同慰霊祭で遺族代表の挨拶をしました。
その日の朝、彼はお母様に初めてのお別れを言ったそうです。桜を植え、「この桜にきれいな花を咲かせてください」とお願いしました。
「この桜を贈ってくれた人がこの地へ見に来てくれたとき」そして多くの人に支えられふるさとの復興を誓いました。
桜を機軸をした感動的なドラマがその植樹先で起こっている。それは想像も出来ないほどの力が桜にあることを実証した一日でした。
さくら並木ネットワークには連日さまざまな問い合わせが続いています。それはどうしたらもっと支援できるか?という問い合わせです。
仲間を増やし、支援の輪を広げ、東北の地へさくら並木を作り続けるために。


青春

2012-03-13 15:56:25 | Weblog
明治45年(1912年)2月14日横浜港より12種類6040本の桜の苗木を積んだ「阿波丸」が出航した。一ヵ月後の3月13日ワシントンについた。
実は3年前明治42年ワシントンへ送った2000本の桜の苗木から害虫が多数発生、すべてが焼却処分になりました。
二度目の桜は米国農務省の検査官が荷物を広げたところ「素晴らしい害虫の姿が見えない」「病気にかかっている木は一本もない」昆虫局長ハーワード博士も、「私は今までこのような完全な輸入植物は見たことがない」と驚いたそうです。
この桜の苗はワシントンポトマック公園に植えられ、半数はニューヨークのハドソン河河川敷に植えられました。これはハドソン河開発100周年記念式に贈られたものでした。
3月27日ポトマック公園での植樹式が行われた、今年2012年は100年の節目の年として盛大なイベントが計画されています。

100年前2度目の桜の輸出に携わった業者は現在創業120年を迎える「横浜植木」です。ハワード博士を感嘆させた桜の苗木は「横浜植木」による丹念な燻蒸と消毒によるところが大きかったのでしょう。
さくら並木ネットワークは東北の各地で津波到達地点への桜並木の造成、桜並木が100年先まで津波の災害を伝え続ける役割を担う。
このような活動をする組織が100年前にワシントンへ桜を無事送り届けた「横浜植木」という会社に挨拶をしておくことは当然の礼儀であると思っていた。

横浜植木の渡辺社長と面会する事ができた。忙しい中一時間を越える時間を頂き、さくら並木ネットワークを御支持頂き、長いお付き合いができるのではないかとの感触を得た。

そしてニュヨークから1通のメールが届いた。ニュヨーク在中の日本の方が,「桜太鼓」という子供の太鼓の組織を中心に大掛かりな震災支援に取り組んでおられる。
今まで赤十字に支援金を贈っていたが支援金の行く先がわからない「桜太鼓」の名前の通り、さくら並木ネットワークへ支援金を贈り桜の木に変えたいとの申し出がありました。

桜並木が津波の到達地点来年は2kmにわたる桜並木の植樹などの依頼も届いています。今後このような計画も多数出てくる状況です。
ポットマックにさくらが植えられ100年。ニューヨークの善意が最大の被害を出した宮城県石巻の津波到達地点に2kmにわたるさくら並木に変わったら、米国だけに止まらず世界中が勇気づけられます。
さくらは10m間隔(成長した時に必要な幅)で植えていきます、ですから2kmといっても200本です。200本一本1万円で200万円のプロジェクトです。
たった200万円という表現が正しいかどうかは別にして、どれだけの人がこのことで勇気や希望を持てることが出来るでしょう。まだ復旧復興は緒についたばかりです。この桜並木が出来たなら何千何万の人に大きな力を与える事は必至です。
ニュヨークと日本が同じ夢を共有出来たなら私たち自身にも大きな幸せが訪れるような気がしています。

この会の代表は私と細沼社長、海外を中心に多くの働きかけをしていただいている細沼弘良氏、3人の年齢を合計すると200歳を超える。
しかしこの3人は青春を生きている実感を味わっている。アメリカのサミュエル・ウルマンの詩を思い出した「青春とは人生のある期間をいうのではなく、心の様相を言うのだ。・・・年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いがくる。・・・」

さくら大使普天間かおり

2012-03-07 15:40:43 | Weblog
昨年の6月だった、7月16日「花の力For Japan」の二度目の打ち合わせだった。
花の力で被災地に笑顔と元気を取り戻す震災支援イベントとして1000人規模で取り組んでいた。
花の力だけでなく「歌の力」もかりて1000人の思いを一つに被災地に届けたかった。
普天間かおりの活動をたまたまYouTobeで知り、当日の出演依頼を取り付けて30分~40分のステージをお願いした。

津波到達地点にさくら並木を作る、しかもそれは東北全土で津波被害がでた地域全てにさくら並木をつくる壮大な計画だった。
普天間にこの話をし、桜並木が完成し、満開の花を咲かせたら「普天間、桜の下で歌ってくれる?」普天間は右手を少し持ち上げ胸のところで握りこぶしを作り「頑張ります」といって微笑んだ。

普天間かおりとはライブやコンサートだけでなく、花の力プロジェクトと震災復興支援活動を共に行ってきた。
沖縄の出身だが第二のふるさととして福島に大きなエールを送り続けている。
更にさくら並木ネットワークの立ち上げにも協力して頂き、現在は「さくら大使」としてさまざまな場面でさくら並木ネットワークの普及に尽力いただいている。
普天間かおりは歌もトークも一流の才能を持っているが、私は普天間かおりのハートこそ誰よりも誇れるものだと思っている。

福島県いわき市豊間地区、豊間中学校3.11地震と共に大きな津波に襲われた。体育館にあったピアノも再生不可能と思われるほど塩や砂がピアノの内部まで入っていた。
「ピアノショップいわき」のピアノ調律師遠藤さんの粘り強く諦めない修復が奇跡のピアノ復活に繋がった。
さまざまなマスメデァで取上げられ、紅白にも復活のシンボルとして出場した。
「直せる傷はあるのですがあえて直しませんでした、ありのままの姿を見て頂き後世に震災語り継いで欲しい」
そして紅白にこのピアノが出場したことに触れ、「そのようなものが目標でなく、子供達にまた元気に校歌を歌って欲しかった」と言われた。
そしてピアノの上には普天間が歌い続けてきた「Smile Again」のCDフォトスタンドと「守りたいもの」のCDブックが置いてあった。
遠藤さんの願いは普天間かおりにこのピアノの伴奏で一周忌3.11、体育館で「SmileAgain」を歌って欲しい、これが本当の願いでした。
11日ラジオ福島の特別番組で生のライブで11時ごろ歌うことが決まりました。
大きな傷跡が癒えない福島の人達に元気や希望が湧き出るような歌声を聞かせてくれると信じてます。

気仙沼本吉町天ヶ沢で9人の津波による犠牲者がでました。11日同じ時刻に9人の鎮魂と一日も早い復興を願い9本の桜の成木を植えます。
来年には美しい花を咲かせてくれます。それほど遠くない未来に、満開の桜の下で、普天間かおりがの澄んだ美しい声が聞けると思います。それは「さくら並木」を歌った楽曲だと思う。
      参考資料         http://futenmakaori.ti-da.net/
普天間かおりブログ 絶対だはずよ!?

東日本大震災一周忌

2012-02-25 17:08:00 | Weblog
8月28日仙台の「花と緑の復興フォーラム」で花弘の細沼社長が「津波到達最高地点にさくら並木を作る」現在の「さくら並木ネットワーク」構想を発表した。
この半年、私達の周りにはいくつもの感動的な出来事、涙なしでは語れない、生きている事への感謝と喜び、人生で味わった事のないような経験をさせていただいた。
先の見えないこの「さくら並木ネットワーク」に600万円を超す貴重な浄財が集まった。これからの活動を考えると充分とは言えないが大変なお金だ。

さくら並木ネットワークのロゴマークやリーフレットの製作を請け負って頂いた会社は数十万円の代金を全てボランティアとして代金を受け取らなかった。
さくら並木ネットワークのNPO法人設立に尽力して頂いた司法書士の先生は僅かしか受け取っていない報酬に自分のお金を足して賛助会員と桜基金の申し込みをしていただいた。
先生の年賀状には「さくら並木ネットワークという東日本大震災での津波被害を100年先まで伝え続けるために、東北全土の津波最終到達地点に桜並木を作るというNPO法人の設立にかかわったことは何よりもの喜びでありました」このような年賀状を出して頂いた。

さくら基金Åを20本分、賛助会員一口、合計202000円振り込んでいただいた花屋さんがいた。驚いて電話し「何かの間違いでは?」
「間違いでないんです、自分は素人から花屋を開業して10年、10周年にお客様に何かしたいと思って蓄えたお金です。さくらを植えることに使ってもお客さんは許してくれるでしょう」
こう言ってくれた。電話口で涙が止まりませんでした。20本のさくらが必ず東北の地で、今回の津波の被害を風化せず、次の代まで語り続けてくれる事を願って植えます。
この花屋さんは3月10日の桜の植樹に気仙沼までさくらを植えにきてくれます。
3月10日一周忌で植樹する気仙沼天が沢、「いずれ、村の人達が前向きに成ったとき、お花見ができるところがあってもいいのでは」見晴らしのいい、直線のご自分の土地を提供してくれた。
この御夫婦がこの花屋さんの話を聞き「我が家に植える一本の桜をこの花屋さんに植えて頂きたい」このようなお申し入れが有り、「当日お昼のご飯を作って待っていますと伝えてください」こう言われた。
これからもまだまだ感動の出会や涙の出来事が起こることでしょう。

明治29年三陸を襲った大津波、岩手県南部の気仙沼群吉浜村、人口1079人中982人死亡。村は全滅した。
先日岩手を訪問した折、吉浜村の東日本大震災での津波被害を見た。流された家屋ゼロ、死亡1名、その1名、引き波のとき、畑へ忘れ物をとりに行っての死亡、残念な結果だった。
明治の教訓を今日に活かした数少ない村落です。明治に作った古ぼけた石碑を新しく大きなものを再び建立したのは一昨年だった。
そして明治の先人の教えをかたくなに守り最少限の被害で今回の津波を繰りぬけた。
次の津波は80年後か100年後か、私たちはこの世に存在しない、だけどこのような惨いことはこれが最後にしたい。
それはさくら並木に託す他にないことだけは確かだ。



sakura front

2012-02-20 07:16:02 | Weblog
第84回アカデミー賞のノミネーションが発表され、東日本大震災の被災地にカメラを向けたルーシー・ウォーカー監督作「津波そして桜」がドキメンタリー短編賞にノミネートされた。
東日本大震災で巨大津波に襲われ被災した人々が、復興へ向けて歩む姿をとらえている。
映画『カウントダウンZERO』で核兵器の現状を暴いたルーシー・ウォーカー監督が、未曾有の大津波に直面した、日本人に二度とこのようなむごい事が起きないようフィルムによって記憶にとどめた作品だそうだ。。
作品は、被災地の人たちの姿を、日本人にとって桜がどういう存在か、というサブテーマを重ねつつ描いたものだった。
放射能の話も、東電の話もちらりと出てくるけれど、主役は人と桜。
予告編の中で年老いた老人が満開の桜に向かって「桜に、人の気持ちわかってもらえて、こおいうこと二度と起きないよう住民を守ってくださいとお願いするしかないね」
さくら並木ネットワークの理念、この活動の大本、人間に代わり長い命の桜に、平成の大津波を100年先まで伝え続ける。ルーシーウォーカー監督の思いとさくら並木ネットワークが響きあっていると感じた。

ロンドンに東日本大震災を支援するボランティア団体sakurafrontの存在を知らされた。ボランテァで桜ブローチを手作りで製作販売、この収益金で被災地を支援する団体です。
この会から、その収益金で津波到達地点に桜並木を作りたい、sakurafrontとさくら並木ネットワークの連携を願うメールが届きました。
勿論我々も喜んで申し入れを受け入れ活動のふくらみに期待しております。
ルーシーウォーカー監督はイギリス人ということも有り、sakurafrontの考えにも共鳴、2月27日アカデミー賞授賞式にはスタッフ全員で「桜ブローチ」を付けることになりました。
さくら並木ネットワークも早速「桜ブローチ」の販売を申し入れ、数量は限定されますが届く事になりました。3月9日からの桜植樹にはさくらネットワークのスタッフもこのさくらブローチを付けて臨みます。

近い将来ルーシーウォーカー監督はこの作品を持ち日本を訪れます。受け入れにはロンドンのsakurafrontとさくら並木ネットワークが共同で受け入れ組織の一つになるよう働きかけています。
そしてウォーカー監督にも津波到達地点に桜の植樹をお願いしたいとも思っています。
ウォーカー監督はもともと桜が大好きで、桜をテーマにした短編を撮ろうと思っていたという。ところが震災が起き、それで一度は諦めかけたものの、やっぱり震災と桜を絡めた作品にしようと思ったのだという。

さくら並木ネットワークとsakurafrontそしてウォーカー監督の想いは深いところで結びつき、きっと大きな力になり、東北の地へいくつものさくら並木を作るり、幸せを運んでくれるように思っています。



2012-01-20 16:34:10 | Weblog
9月10日初めて気仙沼本吉地区天ヶ沢を訪れた。天ヶ沢地区の高台に仮設住宅ができ避難所からの引越しが終わったばかりのころだった。
まだ瓦礫の山が町のあちらこちらに積み残したまま、津波の爪あとが訪れた我々の心に深く突き刺さるようであった。
「花の力プロジェクト」や炊き出しをする「チームカイト」など複数の支援組織の混生チームでの仮設住宅の完成と復興への第一歩を踏み出すお祝いの会を催した。夜の炊き出し後、地元の歓迎の宴、男女30人による「大漁うたいこみ」での歌と踊りのおもてなしだった。父や母を亡くし、家を失い、大切な物を失ってそれほどの時がたってない人達。力いっぱい歌い踊ってくれた姿を見て心を揺さぶられ涙が止まらなかった。
漁師にとって大切な漁場の海、豊かな海の恵みに生かされている。その人達が同じ海に大きな災いをもたされた。
彼らは決して海を憎まず、再び海と共に生きようとする。そんな姿を「大漁うたいこみ」を拝見し感じ取った。

それから4ヶ月が過ぎ、同じ場所で天ヶ沢の人達と「さくら並木ネットワーク」の役員がさくらの植樹についての説明会を行った。地元の地権者からさくらを植えて欲しいという承諾書を頂き、それぞれの思いや要望をお聞きした。
合計74本の桜植樹が決まった。直線100mの海を望む高台に8本のさくら並木の造成も現地の要望で決定した。
74本全て私有地での植樹です、「皆さん仮にその桜に寄付をした人のネームプレートが付いたらどうですか?」と恐る恐る聞いてみると「東京に知人ができたようだ」「もしその人が花が咲いたとき来てくれたら、新しい親戚が増えたようだろう」
私達が願っていた、津波の被害を100年先まで伝え続ける、私達と東北を結ぶ絆に桜が立派に役割を果たしてくれそうである。

8本のさくら並木は花のオールジャパン、全花協(JFTD・花市場協会・花生産協会・日花協・全国花卸協会・インドア協会)で3月11日植樹する事が決定した。
さくら並木ネットワークは第一歩踏み出した。
これからの長丁場、会の存続には一年間2000円を支払って頂く協賛会員の存在が欠かせない。
賛助会員2000人獲得に向け新たな幕が開いた。

「花は人をしあわせにできる」

2011-12-24 12:27:54 | Weblog
「花は人をしあわせにできる」この言葉はフローレが一昨年新しい理念を作ったときのスローガンです。
作ったとき誰もが「本当に花で幸せになれるの?」という疑問を持った。私自身もその事に深い確信があったわけではない。
だけれど世界中の人達が肌の色や文化、宗教などさまざまな違いがあっても、きれいな花をもらうと誰もが美しい笑顔がこぼれる。
その笑顔を見ると花は人をしあわせにできるのではないかと何となく思っていた。

そして3月11日が来た。テレビの画面を見て人間の無力さにいらだち、花はいったい何の役に立つのか、ただ呆然としていた。
翌週津波の被害がでた、千葉県旭市の花生産者へ励ましと現状の視察へ伺った。ハウス内は1mも陥没が起き、亀裂が走り、鉄骨が折り曲がっていた。
しかし植えている花は何事があったか知らぬそぶりで凛と咲いていた。その花が私には見たこともないぐらいに美しく見えた。
その美しい花の姿と「花の力」が自分の中で結びついたような気がして、翌週、「旭花生産者復興支援セール」を世田谷フローレで行った。
セールは盛況で花屋さんも「自分でできること」花を買って支援になるのならとご協力を頂いた。

4月には「花の力で被災地被災者に元気と笑顔を」を合言葉に復興支援組織「花の力プロジェクト」を立ち上げ花の力を手に支援の輪を広げた。
その活動の中で参加した人達全てが、大きな大きな花の力を確信した。
命以外の全てを失くした人達が、花に出会い、花があったからこそ生きる力を振り絞り、復興に歩みだした。
その姿を見たとき、私だけでなく多くの人が涙し、花の仕事に携わっている満足感を感じた。

現在「NPO法人さくら並木ネットワーク」の共同代表を共に努めている花弘の細沼社長と津波到達地点にさくら並木を作る計画を話し合っていたのは5月だった。
さくら並木が平成の大津波を忘れさせない。さくら並木が再び東北に来る津波の際の避難場所の目安になる。我々が東北の人達とさくら並木を通して繋がっている。
さくら並木がいくつもの物語を作り東北と繋がっている絆となる。
このさくら並木こそ「花は人をしあわせにできる」というプロジェクトである。
「花は人をしあわせにできる」このスローガンが3月11日を経験して更に大きなものとなった。
そして来年も花を通してがんばる事が出来る力を授かったようである。

太助と八重

2011-12-17 20:04:12 | Weblog
「さくら並木ネットワーク」がいよいよ本格的に動きだした。ホームページも立ち上がりご賛同いただいている賛助会員、桜基金も登録を始めています。
皆さんに広くこの会を知って頂くツールとしてリーフレットを製作しています。このリーフレットの裏面の説明部分は物語風に書いた方が、より理解して頂けるということになりました。
その物語は私が書くことになりました。
縦横無尽をお読みいただいている読者に先行リリースしますのでぜひお読みください。リーフレットは三つ折で2つ3つの挿絵も考えています。
        
      太助と八重

2041年東北に遅い春がやってきました。このときを待ちわびていたように桜の花がいっせいに咲き始めました。さくら並木の下で八重ばあちゃんと孫娘よしのがなにやら話をしております。

よしの 「おばあちゃん、桜きれいだね」
八重  「きれいだ、よしのなぁ、30年前に大きな地震と津波があってな、この桜の根元まで津波が来      た。ばあちゃんはその津波で大切なものたくさん失くしてしまった」
よしの 「太助じいちゃんは、そのとき死んだの」
八重  「大きな地震が来たとき、じいちゃんはよしのの父ちゃんとばあゃんに大きな津波がくるから一番     高いところまで逃げろと言ってな、自分は村さ下りていった。一軒一軒回って 津波さ来るから     逃げろて言った。村の人さ、私達は太助さんに助けられたと言ってた」
よしの 「じいちゃんはどうしたの」
八重  「最後の一軒というところで大きな津波がきた、村の人は太助がその大きな津波に飲み込まれ二度     と姿を見ることができなかったと言ってた」
よしの 「じいちゃんは人を助けて、自分は死んだの」
八重  「その時、世界の人が、日本中の人が、二度とこんな恐ろしいことがあってはならね。このことを     忘れちゃいけねぇ、100年でも150年でも語り継いでいくように、このさくら並木を作って     くれた」
よしの 「じいちゃんは桜になったの」
八重  「ばあちゃん悲しくてな、桜の花が咲くと思い出す。でも桜の花からいちゃんの声が聞こえて来る     ようでな。皆仲良くしてるか、元気にしてるか、じいちゃんの声聞くたび何か生きてく力もらえ     ているようでな」
よしの 「きっと、じいちゃん桜の木の中に居るんだ」
八重  「よしのの言う通りかもしんねぇな」
よしの 「ばあちゃん、向こうから大勢人が来るよ」

孫息子 「じいちゃんの桜はどこ」
孫娘  「ばあちゃんの桜はどこ」
爺   「このあたりだと思ったが、きっと名前が付いているから探してごらん」
孫息子 「有った、ばあちゃんのも」
息子  「父さん、桜の木も立派になりましたね」
爺   「この桜の木は平成の大津波を忘れないだけではなく、私達と東北の人が強い絆で結ばれている証     となっている。母さん、二人で植えてよかったね」
息子嫁 「お母様、桜の花が私達に何か、言いたげですね」
婆   「本当です。今度東北に津波が来るころ、私も父さんもこの世にはいませんが、誰であってもあの    ような悲しい思いをさせてはなりませんね。」
毎年桜の花が咲くころ、東北の多くの町々で桜の花を眺め、思い思いの話に花が咲く。



さくら並木ネットワーク

2011-12-10 14:33:07 | Weblog
東日本大震災で地震津波による死者行方不明者は2 万人に及ぼうとしています。
明治29年の明治三陸地震では2万2千人、昭和三陸地震では3千人、過去にも津波により多くの犠牲者を出してきました。
国は今まで津波に対する防御策として津波防波堤を築いてきました。
岩手県宮古市田老には「万里の長城」と呼ばれた防波堤を築いた。全長2.5Kmにも及ぼうかとする長さで、高さは10mにも及んでいた。多くの人が「万里の長城が破壊することは無いだろう」と思っていた。
3千人もの犠牲を出した昭和の三陸地震のあと建設。地元民も自らの土地を2割拠出して、国、県地元の熱意で45年の月日をかけ1978年完成した。
東日本大震災で宮古市を襲った津波は高さ20m、「万里の長城」の遥か上を超し、次々と防波堤をなぎ倒してしまった。自然の力は我々の想像や想定をこともなく打ち砕いていく。今回の教訓は津波防波堤の強度が弱いこと、高さが低いことではないように思う。決して防波堤だけに頼ることなく「今回の津波の大きさを孫の代その先まで語り継ぐことにあるように思う。

「明治の先人は明治三陸地震のあと、津波被害を風化させてはならないという思いから石碑を建立、多くの教訓を書き記した。その石碑も30年40年、月日を重ねるごとに、苔が蒸し、土や砂をかぶり、津波の被害と共に忘れ去られる。石碑と共に桜の並木ができたなら、桜の木は年を重ねるごとに大きく成長し、いっぱいの花を咲かせてくれる。石碑は目して語らずですが、いっぱいに花を咲かせる桜は私達に多くのことを語ってくれます。
そして、大きな津波が来たら避難です。絶対に安全といえませんが、少なくとも「桜並木まで逃げれば何とかなる」という大きな目安となります。
いつの日か、桜のオーナーになった人たちが家族や友人と、自分の桜を見に現地へ訪れてくれるようなことがあれば、このプロジェクトは大成功です。
現在まで少なくない桜並木のオファーが届いています。このプロジェクトの終わりはいつになるのか全く分かりません。
成功するためには、圧倒的多数の人たちに、このプロジェクトの壮大な理念と「花の力」を伝えることしかありません。

復興への道

2011-12-08 07:22:52 | Weblog
大きな被害に見舞われた岩手宮城を二日間駆け足で回り、現地の多くの人達に復興への厳しい道のりを伺った。一筋縄ではいかない復興への道に考えさせられたことが多くあった。

気仙沼の産業は何といっても水産業。魚の水揚げが年間で400億円。これを支える水産加工の売り上げが800億円。この1200億円が中心となり、市場の機能やインフラ機能を支え地域経済を担っている。
水産加工の800億円の多くは大手水産加工6社が占めている。この6社全てが気仙沼から撤退したと聞いた。冷凍食品大手「ニチレイ」は、水産事業に属するグループ会社「まるいち加工」が運営する気仙沼工場を 6 月末で閉鎖したのを始め次々とその他の企業も工場を移転させた。
企業の撤退は地域での雇用を喪失し、復興への大きな障害と打撃になることは間違いない。

しかし地場で暮らし、地場で生業を立ててきた人たちは逃げ出すわけにいかない。津波で甚大な被害を受けながらも 800 人の従業員の雇用を守った阿部長商店の阿部泰浩社長。「勝算があったわけじゃないが、解雇すればまちの復興はないんじゃないかと思った」「従業員みんなの力でやっていけば会社は復活できるはずだ」従業員の生活を守ることが、地域を守ることにもなるんだという信念が阿部長商店のいち早い復興に繋がった。
社長にこの決意をさせた一番の要因は、被災した2日後の月曜日。採用内定予定者数人が会社の前の瓦礫やヘドロの掃除を自ら進んで行っていたこと。これを見た社長は、何があってもこのような若者を解雇してはならないとの決意を固めたと聞いた。
気仙沼(本社工場など)の施設は大津波に加え 1m近い地盤沈下で施設一帯は実質海水に覆われる状態となり復旧はおろか、再開の計画さえ立てられない状態だったそうです。
未曾有の震災と津波の中で、一人の解雇者も出さなかった阿部長商店の社長と社長の期待にこたえた社員の頑張りがいち早い復活を実現したのだと思った。

今回の第一の目的は大船渡の「かもめの卵」の斉藤製菓斉藤社長の町おこしの一貫での、盛川河川のさくら並木の復活の依頼案件です。
斉藤製菓は本社含み 4 店舗は津波で流されましたが、社長の陣頭指揮の下、一人の犠牲者も出さず、一人の解雇者も出さず、4 月 25 日に営業再開を告知したのは奇跡のようでした。過去の苦難を乗り越えてきた力強いバイタリティーと従業員を路頭に迷わせてはいけない、という責任感によるものなのかなと想像
すると共に、あらためて会社案内のごあいさつが強い説得力を持って迫ります。
『人に喜びを与えることができる菓子づくりは、大きな魅力。それを叶えるのは人。あらゆる事業は人につきる。人を練り、磨いていくことが、企業に大きなチャンスを生む』
震災時、工場に残っていた「かもめの卵」をいち早く避難所に運び、配達不能になった商品は社員の自主的判断で被災者の下へ運んだそうだ。社長はこの社員の自主的判断を大いに讃えたと聞いた。
社長は「カモメは羽ばたく。復興の先導役になりたい」と話した。
残念ながら社長は出張中で代理の方とのお話になりました。時間をかけてさくら並木が地域の振興にも役立つプロジェクトへと発展することができればと考えています。

三陸の200km のリアス式海岸は美しい景観と静かな海のたたずまいを見せていましたが、一旦内陸部へ目を移すと目を覆いたくなる無残な姿をとどめたままでした。
息の長い支援が必要だと考えさせられた二日間でした。