神戸をこよなく愛された作家の陳舜臣(ちん しゅんしん)さんが21日午前5時46分に亡くなられた、享年90歳
阪神淡路大震災直後に陳舜臣さんが神戸新聞に寄稿された「悲しみを超えて」
神戸よ
我が愛する神戸のまちが、潰滅に瀕するのを、私は不幸にして三たび、この目で見た。水害、戦災、そしてこのたびの地震である。大地が揺らぐという、激しい地震が、三つの災厄のなかで最も衝撃的であった。
私たちは、ほとんど茫然自失のなかにいる。それでも、人びとは動いている。このまちを生き返らせるために、けんめいに動いている。亡びかけたまちは、生き返れという呼びかけに、けんめいに答えようとしている。地の底から、声をふりしぼって、答えようとしている。水害でも戦災でも、私たちはその声をきいた。五十年以上も前の声だ。いまきこえるのは、いまの轟音である。耳を掩うばかりの声だ。
それに耳を傾けよう。そしてその声に和して、再建の誓いを胸から胸に伝えよう。
地震の五日前に、私は五ケ月の入院生活を終えたばかりであった。だから、地底からの声が、はっきりきこえたのであろう。
神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢みた神戸ではないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、あたたかみのあるまち。自然が溢れ、ゆっくり流れおりる美わしの神戸よ。そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる。
2004年に陳舜臣さんが掲げられた「神戸元気宣言」
神戸よ 神戸 われらの神戸よ! 元気がないと誰かが言ってるぞ。
その人は知らないのだ、神戸が不死鳥だということを。
大輪田の泊のいにしえから、海を越えて来た人、これから越えようとする人が集まり、われらの神戸を創った。
栄えたときも衰えたときもあった。だが、決して消えたことはなかった。一度もなかった。
戦争で炎上しても、みごとに復活したではないか。
10年前の地震も、鎮魂のしらべを奏でながら、ようやく乗りこえたところだ。
それを誰が元気がないというのか?
それでも元気を出すのだ、力一杯!
神戸よ 神戸 われらの神戸よ!
心よりご冥福をお祈りいたします
阪神淡路大震災直後に陳舜臣さんが神戸新聞に寄稿された「悲しみを超えて」
神戸よ
我が愛する神戸のまちが、潰滅に瀕するのを、私は不幸にして三たび、この目で見た。水害、戦災、そしてこのたびの地震である。大地が揺らぐという、激しい地震が、三つの災厄のなかで最も衝撃的であった。
私たちは、ほとんど茫然自失のなかにいる。それでも、人びとは動いている。このまちを生き返らせるために、けんめいに動いている。亡びかけたまちは、生き返れという呼びかけに、けんめいに答えようとしている。地の底から、声をふりしぼって、答えようとしている。水害でも戦災でも、私たちはその声をきいた。五十年以上も前の声だ。いまきこえるのは、いまの轟音である。耳を掩うばかりの声だ。
それに耳を傾けよう。そしてその声に和して、再建の誓いを胸から胸に伝えよう。
地震の五日前に、私は五ケ月の入院生活を終えたばかりであった。だから、地底からの声が、はっきりきこえたのであろう。
神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢みた神戸ではないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、あたたかみのあるまち。自然が溢れ、ゆっくり流れおりる美わしの神戸よ。そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる。
2004年に陳舜臣さんが掲げられた「神戸元気宣言」
神戸よ 神戸 われらの神戸よ! 元気がないと誰かが言ってるぞ。
その人は知らないのだ、神戸が不死鳥だということを。
大輪田の泊のいにしえから、海を越えて来た人、これから越えようとする人が集まり、われらの神戸を創った。
栄えたときも衰えたときもあった。だが、決して消えたことはなかった。一度もなかった。
戦争で炎上しても、みごとに復活したではないか。
10年前の地震も、鎮魂のしらべを奏でながら、ようやく乗りこえたところだ。
それを誰が元気がないというのか?
それでも元気を出すのだ、力一杯!
神戸よ 神戸 われらの神戸よ!
心よりご冥福をお祈りいたします