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Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

岡本拓也、長崎移籍

2013-08-13 22:09:31 | 浦和レッズ
今日はレッズネタで一つニュースがありました。DF岡本拓也選手のJ2,V・ファーレン長崎への期限付き移籍です。今年から23歳以下の選手のJ2への移籍は期間によらずいつでもできるようになったので、DFが欲しかった長崎のチーム事情と一致したのでしょう。

そのため、浦和での岡本を振り返りますが、ユースからの昇格組です。一番得意なポジションは4バックの右で、ユース時代から試合に出場するほどの有望株でしたが、最近は伸び悩み気味でした。ミシャが監督になり、システムが3バックになったことで、彼は得意でないCBに挑戦せざるを得なかった事情もあると思います。

それでも、ミシャはストッパーに攻撃力を要求するタイプなので、岡本は右ストッパーに意欲的に挑戦しました。しかし、そのポジションは森脇、坪井と実力者がひしめき、岡本はサテライトの練習試合にすら思うように出場できなくなりました。先日のアーセナル戦では出場しましたが、短い時間にとどまり、他チームに行った方が本人のためとフロントも判断したようです。

また、浦和での岡本は負傷がちだった不運もあります。ペトロの最後の試合になった2011年のホーム大宮戦で右SBに負傷者が続出した影響でスタメン起用されましたが、ここで決勝点のきっかけとなる突破を許したのは痛恨で、それ以降トップチームでは姿を見なくなりました。

出られなかった2年間で、何かを吸収していたことを信じたいですが、それ以前の岡本はまだ体力面に課題がありました。プロで通用するためには、もう一つ何か売り物が欲しいところで、長崎でそれをつかんでくれることを期待したいです。
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大宮、ルーカス・ニール獲得に動く

2013-08-13 11:19:48 | 他チーム
カルリーニョスが抜けて外国人枠が一つ空いた大宮は、CBの補強として豪州代表DF、ルーカス・ニール選手をリストアップしているという、スポーツ紙の情報があります。気になって大宮のHPを調べてみましたが、まだ確定はしていないらしく、公式発表はまだですが、ニールは相手の選手とはいえ印象的な選手だったので記事にします。

ニールは身長183cmと、決して日本人が届かない絶対的な高さがあるわけではありません。しかし、彼が優れているのは余り気味のポジションを取ってのカバーリングです。私は豪州代表で、2009年、2013年と2度の最終予選でニールが出場した豪州代表の試合を見ていますが、その2試合は0-0、1-1で、しかもその1点は本田圭佑のPKと、組織を崩して取った点はありません。

特に2009年のときは、豪州の組織的守備がうまくはまった試合で、当時の日本のFW、玉田、田中達也がスピード型なのを利用して、無理にオフサイドを取りに行かず必ず最終ラインに一人余らせてカバーリングを徹底させることで、田中達也の受ける位置をサイドに出させ、日本にチャンスらしいチャンスを作らせなかった組織的守備のリーダーとしてニールは活躍しました。

もっとも、35歳という年齢を考えると長期間日本でプレーすることは難しいかもしれません。現在所属先がなくフリーなので、移籍金はかかりませんが、大宮が監督交代直後でどこまで組織を徹底できるか微妙な時期なので、組織で生きる彼のようなDFが輝くかどうかはわかりません。

CBとしてはうまいタイプなので、ピッチが近いNack5スタジアムならその個人技に注目することも可能だと思います。可能なら私も、見てみたい選手の一人ではあります。
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守備専門からの飛躍(遠藤保仁)

2013-08-13 08:23:25 | 他チーム
代表選手ネタは、G大阪の遠藤保仁選手を取り上げます。代表最年長で井原の代表キャップの記録を抜いた遠藤ですが、ユース代表時代を知っている私は、まさかこれほどの選手になるとは思っていませんでした。理由は、ユース代表で遠藤は守備専門のボランチだったからです。当時のユース代表は、稲本と小笠原という不動のダブルボランチで、大宮サッカー場で見たユース代表の1次予選、ブルネイ戦では遠藤の記憶はありません。

ナイジェリアで開催され、トルシエが指揮を執った1999年のワールドユースで、不調の稲本に代わって遠藤は出番を得ます。しかし、当時の印象は遠藤に今の攻撃力があるイメージはありません。小笠原の攻撃参加を陰で支える、地味な仕事人という印象で、事実2000年シドニー五輪にはバックアップメンバーで試合に出ることはできませんでした。

そんな遠藤が変わったのは、G大阪に攻撃サッカーを旗印にする西野監督が就任してからでした。当時、G大阪は年に1回、駒場の浦和戦に来るときしか見られないチームだったのでおぼろげな印象ですが、CKキッカーが遠藤だったのは見て驚きました。代表入りはジーコ監督のときです。

もっとも、ジーコ監督の当時の遠藤は、国内組で戦う親善試合では小笠原とダブルボランチを組んでいましたが、海外組が戻ってくる試合になると毎回判で押したようにベンチ要員になってしまう苦しい立場でした。ドイツW杯では、フィールドプレーヤーの中で唯一出番がない、挫折を味わうことになりました。

遠藤にとって、飛躍のきっかけになったのは、岡田監督がアンカーにコンバートしてからでした。守備の職人を置きたいオシムとは違い、岡田監督の理想は全員がパスを出せるサッカーだったらしく、遠藤と長谷部をダブルボランチに置いて後ろからゲームを作るという発想が遠藤にはマッチしました。当時、負けると敗退確実になる3次予選のオマーン戦で試したのは度肝を抜かれましたが、オマーンが日本を恐れて腰の引けたサッカーをしたので、サポの私の緊張は10分でほぐれたことを覚えています。

ボランチは代表監督の好みがあるので、岡田監督が代わると遠藤もどうなるかわからないと思っていましたが、続くザックの信頼も勝ち得たのは立派です。今や頼れるベテランで、ボールも落ち着きパスも出せる総合力の高いボランチとして、代表サポの心は既につかんでいると思います。
コメント (2)
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