内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日仏シンポジウム「病とその表象」

2024-01-11 22:55:09 | 雑感

 明日と明後日、早稲田大学で開催される日仏シンポジウムに発表者として参加する。プログラムには「シンポジウム」という言葉が使われているが、実質的には「ワークショップ」と捉えた方がよい。必ずしも一般化はできないが、今回に関していえば、私が理解したかぎりでの主旨説明によれば、「シンポジウム」と「ワークショップ」との違いは、前者の場合、発表者それぞれが完成された発表原稿を用意するのが原則であるのに対して、後者の場合、発表は問題提起的あるいは中間報告的なもので、発表時間は短め(15分前後)、質疑応答及びディスカッションの時間を長め(30~40分)にとる。
 私にとってそれは望むところである。これまで同じテーマで数回話しているが、今回は、細部はばっさり切り捨て、要点のみ述べる。隙だらけ、穴だらけ、ツッコミどころ満載(は言い過ぎか)の発表をする。結果、すべったとしてもかまわない。パネルを組んでいるもう一人の若手研究者の発表と質疑応答とにより多くの時間が取れればよいとさえ思っている。
 一般公開されている主旨説明の一部を以下に転載する。

 

日仏シンポジウム
「病とその表象」
日時:2024年1月12・13日
会場:早稲田大学 早稲田(本部)キャンパス 26号館地下1階 多目的講義室

 近年のコロナ禍、それに伴う社会活動および芸術活動の中断によって(「病む」と「止む」は語源を共通にすると言われます)、私たちはみな「病」と「健康」とは何か——それが個人的な水準であれ集合的・社会的な水準であれ、具体的な意味であれ象徴的な意味であれ——、問い直すことを迫られました。しかし、芸術と文学は、古代からこの問いと密接な関係を切り結んできました。疫病と狂気は、しばしば上演芸術の伝統の起源に位置しています。「カタルシス」概念は、アリストテレス的意味であれフロイト的意味であれ、演劇、さらには人間と、望ましからぬ病の状態とその状態からの脱出との関係を含意しています。一部の病(ペスト、結核、精神分裂病/統合失調症、ガン、AIDSなど)は強い象徴性を帯びて、多くの芸術作品や文学作品の主題となってきました。その一方で、他の病気、たとえば新型コロナウイルス感染症やスペイン風邪、さらにペストは、個人ないし社会レベルで芸術活動を中断させてきました。
 このような問題意識のもと、早稲田およびストラスブールの両大学を中心とした、異なる専門分野の研究者が、それぞれの視点・視座と手法を交差させることで、日本とフランスの私たちの社会と文化、歴史について、聴衆のみなさんと再考する機会としたいと思います。
 本シンポジウムはワークショップに近いかたちで実施されます。隙のない完璧な発表を目指すよりも、その後に豊かなディスカッションの時間を持てることを重視しています。あらかじめご了承ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


街の匂いを嗅ぐ

2024-01-10 23:59:59 | 雑感

 今回の一時帰国中、期せずして、今まで訪れたことのない街をいくつか歩きまわったりジョギングしたりして、気づいたことがある。それは、それぞれの街にはそれぞれの「空気」あるいは「匂い」があるということである。
 ほとんど何の予備知識もなくいきなりその街を歩き回るとき、最初は方角もよくわからず、同じところをぐるぐる回ったりもするが、次第に街の中での自分の位置がわかってくる。そして、どこに何があるのかが見えてくる。
 とはいえ、そこに住まうためではなく、何ら目的があるわけでもなく、ただ数日滞在するだけの旅行客の目に映る街の姿はその表層にしか過ぎないだろう。それでも、いや、もしかしたら、そうだからこそ、何の先入観もなく、最初にこちらの感覚に触れてくるのは、その街の「匂い」のようなものではないかと思った。それは、嗅覚が捉える匂いというよりも、複数の感覚が関わる共感覚的な「匂い」だ。
 その「匂い」は必ずしも心地よいとは限らないが、その街が自ずと醸し出している雰囲気とも言えるもので、それに対して自分が馴染めるかどうかは直感的にわかり、その共感や違和感が自分の嗜好を明らかにしてくれる。
 こんな非観光的で無目的な束の間の滞在もまたひとつの「旅」の形なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ボケる

2024-01-09 23:59:59 | 雑感

 今朝、ホテルで荷造りをしていて気づいた。キャリングケースに入ったワイヤレスヘッドホンがない。機内で音楽を聴くために持参したもので、ホテル入りしてからは使うことはなかった。ただ、チェックインして荷を解くたびにスーツケースからは出して、室内のどこか適当なところに置いた記憶はある。最初の投宿先から順に記憶を辿る。おそらく二番目の投宿先である戸塚駅前のホテルに置き忘れてきたのだと推定する。気づくのにチェックアウトから五日も経っていることになる。
 ホテルに電話し、事情を説明し、忘れ物として保管されていないか尋ねる。幸いなことに、保管してあるという。郵送もできると言われた。が、今日からの滞在先から東横線学芸大学駅まで徒歩12,3分である。戸塚駅まで電車で一時間弱である。取りに行くことにする。無事受け取る。往復の交通費がかかってしまったけれど、これはまあ自分の迂闊さへのペナルティと考えることにする。
 日頃、所持品の確認には注意している。忘れ物をして結果として遺失したということは、ごく些細なものを除いて、過去にはない。だから、今回の件は、ちょっとショックである。来たか、ボケが。いや、もうとっくに来ているのに、そのことに気づいていなかったのは本人だけ、ということかも知れぬ。
 今後、荷物を持って移動する際には、指差し・声出し確認を必ず行うことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


フジヤマ三昧

2024-01-08 23:59:59 | 雑感

 朝、投宿先の藤沢駅近くのホテルから境川沿いを河口に向かって走る。片瀬江ノ島駅まで4キロほど。そこから鵠沼海岸沿いの遊歩道を、海を左手に見ながら1,5キロほど走る。ほぼ快晴で、斜め左前方に富士山の全容がよく見えた。富士山の左手前には伊豆半島が前景として広がり、富士山の右手には丹沢山もよく見えた。見事な構図だと思ったが、なんか出来過ぎに思われ、写真には撮らなかった。これほど天気に恵まれ、富士山を異なった観点から連日見たのは生まれて初めてのことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


円覚寺に拝観料を払わずに入れてしまう「裏道」を走る

2024-01-07 23:59:59 | 雑感

 今朝、今日からの投宿地である藤沢へと移動する前、円覚寺方面を目指してジョギングした。これで三日連続になるが、今日はコースを少し変えてみた。大船からら北鎌倉方向に向かって横須賀線の左側の細道を走った。車両通行禁止ではないようだが、車が通ることはほとんどなさそう。歩道らしい歩道がなく、車のすぐ脇を走らなくてはならない県道21号横浜鎌倉線に比べてはるかに走りやすい。
 北鎌倉駅手間に左山手に登る数十段の急階段がある。子供の頃から、目の前に長い階段が立ちはだかると、衝動的に駆け上りたくなる。で、年甲斐もなく、どこに出るのかわからぬまま、一気に駆け上る。
 登りきったところに雲頂庵という僧房がある。そこから円覚寺方面に細道が続いており、すぐに白雲庵という別の僧房がある。この二つの僧房の間から富士山がよく見えた。やや霞みがかっていたが、山裾までよく見えた(写真は私が撮ったものではなく、ネット上の画像を拝借しました)。
 その細道を円覚寺方向に下っていくと、驚いたことに、円覚寺の境内に出た。つまり、総門脇の受付を通らずに境内に入れてしまったのである。開門前で閉ざされた総門を内側から見ることになった。
 えっ、こんなのありなの? と驚く。開門三十分ほど前で、受付職員や物資搬入の業者が新年の挨拶を交わしている。昨日五〇〇円の拝観料を払って一通り見て回ったところを、その気になれば独占状態でしかもただでもう一度見て回れるじゃん、と一瞬邪悪な欲望がよぎったが、良心がとがめて、もと来た道を引き返し、もう一度富士山を拝んで、階段を駆け下りた。
 円覚寺前を何事もなかったかのように走りすぎ、鎌倉駅方面を目指したが、同じ道を走るのはつまらないと、線路右側の細道を建長寺方向へと走り続ける。建長寺への道と明月庵への道の分岐点に出る。建長寺は一昨日総門を見ているし、まだ開門時間前だからと、明月庵の方を選ぶ。五分ほどで明月庵に着いたがここもまだ開門前。道はその先まで続いている。でも、どこに出るか表示がない。五分ほど走ってみたが、まだまだ先が長そうなので引き返す。
 今日は大船まで走って戻る。走ったのは九キロ半。多分もう二度と大船に宿泊することはないだろうし、同じコースを走ることもないだろう。
 それはともかく、今日のコース、ジョギングあるいはウォーキングにお薦めですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東慶寺、西田幾多郎の墓に参る

2024-01-06 23:59:59 | 雑感

 昨日テレビのニュースで「明日から三連休」と聞いて、「なんで八日月曜日が休みなの?」とよくわからなかったのですが、「成人の日」なのですね。二〇〇〇年から一月第ニ月曜日が「成人の日」であることを忘れていました。
 今朝もジョギングに出かけました。東慶寺までは昨日とほぼ同じコースでしたが、そこから六〇〇メートルくらい鎌倉方面に下ったところで、「葛原岡大仏ハイキングコース」に入りました。そこから大仏殿まで地図上はせいぜい三キロ程度だったので、軽く行けるだろうと思ってのことでした。
 ところが、けっこうアップダウンがきつく、階段の段差も大きく、長谷観音に向かう県道に出るまでまるでクロスカントリーでした。
 でも、こうして走り回ってみると、二次元の地図が身体運動を通じて三次元化され、地理が立体的に直感できるようになります。
 鎌倉駅まで走ったところで10キロを超え、そこからまた走って大船まで戻るのはちょっとしんどかったので、復路はズルをしてJR横須賀線を使いました。
 午後、横須賀線でまた北鎌倉へ。円覚寺を参拝。けっこうな観光客でした。そして東慶寺へ。小林秀雄、和辻哲郎、西田幾多郎の墓に詣でました。それぞれの墓前で合掌。墓地には誰もいませんでした。「縁切り寺」にカップルの来るはずもありませんよね。
 それはともかく、西田の墓前では、この五月にパリのフランス国立図書館で、哲学の根本動機としての「深い人生の悲哀」について発表することを事前報告しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


早朝、北条政子と源実朝の墓に参る

2024-01-05 22:12:49 | 雑感

 夜明け前、大船から鎌倉方面へとジョギングに出かけた。大船駅前ホテルから北鎌倉駅まで最短経路は2,2キロくらい、鎌倉駅まで5キロ余りである。ただ、県道の歩道は狭く、側溝を単にコンクリート板で蓋しただけの箇所も多く、決して走りやすくはなかった。
 北鎌倉駅前には7時前着いた。近隣の名刹はまだ開門していない。当然、訪問客はいない。円覚寺正門までの階段を駆け上がり、閉ざされた門前で一礼する。東慶寺も建長寺にも門前で一礼。鶴岡八幡宮の境内は通過できた。すでに拝殿の開門を待つ人たちが散見された。
 横大路を鎌倉市川喜多映画記念館方向に進み、寿福寺総門前に出る。ここも境内には入れなかったが、総門脇の表示板によると、寺背後の山腹にある墓地には行けるようだ。
 墓地には北条政子と源実朝の墓である五輪塔が山腹の岩をくり抜いた奥処にある。ここにも誰もない。鳥の声が聞こえるだけ。二人の墓の前で手を合わせる。携帯も所持していたが、墓を写真に撮る気にはなれなかった。五輪塔が置かれた奥処を見つめていると、ちょっと吸い込まれそうな気がして怖くなった。
 寿福寺を後にし、銭洗弁財天を目指す。結構距離があり、しかも急坂でしんどかった。ここもまだ受付開始前。トンネルを潜り抜けて境内を見回しただけで、来た道を戻り、鎌倉駅を目指す。
 鎌倉駅前バスターミナルに着いた時点ですでに10キロ以上走っている。ここからまた大船まで走って戻にはあと5キロ以上走らなくてはならない。そこまで調子良かったので走れなくはなかったが、駅前に止まっている大船駅行のバスが目に留まる。一瞬、乗っちゃおうかと気持ちが揺らぐ。
 でも、時刻表を見ると、出発まで、まだ20分ある。ぼーっと待っているのは堪え難い。で、鶴岡八幡宮脇を抜けて、円覚寺方面をバスに追い抜かれないかぎり走り続けることにする。円覚寺前のバス停で時刻を確認する。あと二、三分で来る。というわけで、円覚寺前からは大船駅まではバスで戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


真昼の海

2024-01-04 22:54:56 | 雑感

 日中よく晴れ、春先のような陽気。今日からの投宿地である大船駅からモノレールに乗ってふらふらと海を見に行く。モノレールの終点湘南江ノ島駅上からは富士山がよく見えた。

 湘南海岸を腰越から七里ヶ浜まで歩く。飛行機の上からではなく、海岸から海を見るのは七年ぶりのことだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


災害で失われたのは人間の命だけではない

2024-01-03 22:23:04 | 雑感

 規模の大小を問わず、何らかの災害があったときに報道される犠牲者の数は人間に限られる。それは当然のことだと私も思う。
 命の「優先順位」からすれば、人命救済が第一という大原則についても何の異議も私にはない。いや、自分は何もできないくせにこんなことを言うこと自体、慎むべきことなのかも知れない。
 ただ、瓦礫の下で息絶えたのは、火災によって焼死したのは、津波によって攫われたのは、人間だけではない。
 だからどうしろと訴えたいのでもない。でも、人間以外の失われた命のことも忘れたくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


箱根駅伝往路初生観戦記―ただ応援するということ

2024-01-02 23:59:59 | 雑感

 子供の頃から渡仏する一九九六年まで、正月といえば箱根駅伝をテレビで観戦していました。渡仏後年末年始に初めて帰国したのは二〇〇五年から二〇〇六年にかけてで、多分のその時も箱根駅伝をテレビ観戦したと思います。それ以後、年末年始に帰国できたのは二〇一三年の年末からのことで、コロナ禍直前の二〇二〇年正月までは箱根駅伝をやはりテレビ観戦しました。二〇二一年から二〇二三年の三年間は年末年始に帰国できず、結果をニュースで知っただけです。
 本日初めて間近で応援しました。戸塚中継所まであと一キロのところ、いわゆる「戸塚の壁」と呼ばれる登り坂の途中です。選手たちが通過する三十分前にはその場所に着いたのですが、すでに多数の観衆が沿道にニ列三列に並んでおり、その隙間から選手たちが眼の前を通過していくのをわずかに垣間見ることができただけでしたが、それでも感動しました。私は拍手しただけでしたが、選手が通過するたびに多くの人たちが「頑張れー」と声援を送るのを聞いて、胸が熱くなりました。
 最後の選手が通過した後、観衆はすぐに戸塚駅方向へと歩き出しました。その中には電車移動して他の地点でまた応援する人たちもいたことでしょう。
 国道沿いの細い歩道をぞろぞろと歩いているとき、私のすぐ後ろで会話していたカップルあるいは夫婦の女性の方が「何も考えずにただ応援できるって気持ちいい」と言うのが聞こえました。あっそうだ、そういうことだ、と得心がいきました。思わず振り返って、「まったく仰るとおりです」と言いたくなったほどでした。
 何の思惑もなく、特に応援する大学や選手があるわけでもなく、ただただ目の前を全力で走っている選手を応援するということ、それは応援する人の心をいわば浄化してくれるのだと思います。そうと自覚していなくても、「ただ応援する」という純粋な気持ちになれる機会というのはそうそうないでしょう。
 甲子園の高校野球の人気にも同じ理由があるのではないでしょうか。