内的自己対話-川の畔のささめごと

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紫式部の生涯(三)

2024-01-28 23:59:59 | 読游摘録

 今日と明日は新日本古典文学大系版(一九八九年)の伊藤博氏による解説から摘録する。確実とされる史実についてはどの解説も同様なので、それらは省く。逆に、『紫式部日記』の同じ箇所に依拠している箇所でも解説者の解釈が打ち出されているところは録した。

当時の貴族の子女は母方の一族のもとで育成され、人と成るのがふつうだが、式部の場合母やその一族との交流を示すものは伝わっておらず、おそらく物心つかぬころ母を失ったものと思われる。三歳で母を失った光源氏のように。そして光がそうであったように父のもとに引き取られ、父方の一族の薫陶のもとに成長していったらしい。

式部の父方の曽祖父たちは、延喜の御代醍醐天皇と身内関係で結ばれ、娘を女御として入内させ、古今集歌人のパトロン的存在として、またみずからも貴顕歌人として文化的にも大きな役割を果たした。しかし、醍醐天皇の崩御後、一家の没落が始まる。

式部の曽祖父中納言兼輔が入内した娘を案じた歌「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(後撰集・雑一・一一〇二番、大和物語四十五段)や式部の祖父雅正の歌「花鳥の色も音をもいたづらにもの憂かる身は過ぐすのみなり」(後撰集・夏・二一二番)が高い頻度で源氏物語の引き歌として用いられており、式部の胸につよい感銘をもって受けとめられていたものらしい。雅正の妻は後年式部が越前に下向するまで生存していたらしい。この老女は母のない式部らをはぐくみ、曽祖父たちが活躍した御代の話や勧修寺説話などを問わず語りに孫たちに聞かせたものと思われる。

源氏物語が延喜の御代にオーバーラップさせて宮廷物語を始発させ、地方に沈淪する一族が貴人の御子を得、これを后がねとすることで皇権の中枢にくいこんでゆく明石一族を主要な構想軸としてゆく、そのはるかな源泉は、この幼い日に祖母から聞いた昔語りであったかもしれぬ。

雅正はついに受領どまりで空しく果て、弟の清正、子の為頼・為時(式部の父)もまた同じであったが、その現実の鬱屈を振り切るように詩や和歌の世界にすぐれた詠作をのこし、勅撰集にその名をとどめている。紫式部の育った土壌はこうしたものであった。