内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の哲学のかたち(14)― 大理石の塊を受け取り、それを自分で像に刻む、ウイリアム・ジェームズ『プラグマティズム』より

2022-06-20 00:00:00 | 哲学

 自己形成過程を具体的に形象化するために、何らかの天与のものから自己像を彫刻のように徐々に刻み出していくという暗喩は、古代の哲学者ばかりでなく近現代の哲学者たちによっても用いられています。二十世紀の哲学者たちのなかではウイリアム・ジェームズをその一例として挙げることができます。『プラグマティズム』(一九〇七年)第七講「プラグマティズムと人本主義」の中に出てきます。彫刻の隠喩はすでに『心理学原理』(一八九〇年)に登場していますから、ジェームズにとっては思い入れのある形象だったのかも知れませんね。
 第七講の実在と真理との関係を論じている箇所に彫刻の隠喩は出てきます。ジェームズは、実在を三つの部分に分けます。第一の部分は、私たちの感覚の流れ。第二の部分は、諸感覚間の諸関係および私たちの心における諸感覚の模写間の諸関係、第三の部分は、前二者に対して付加的なもので、あらゆる新しい探究にあたって考慮されるべき「それ以前の真理」です。これら三つの部分の実在がいつでも私たちの信念の形成を支配しているとジェームズは考えます。これらの実在に対して、それらがたとえどれほど固定的なものであるしにしても、私たちはこれらを取り扱うにあたってはなおある自由をもっているとジェームズは主張します。
 ここから先は、ちょっと長いですが、ジェームズのテキストを読んでみましょう。まず岩波文庫版の桝田啓三郎訳を掲げ、その後に英語原文を付します。今日のところは、このテキストをじっくりと味読することにしましょう。

 ところで、実在のこれらの諸要素がどれほど固定的なものであるにしても、われわれはこれを取り扱うにあたってはなお或る自由をもっている。われわれの感覚をとってみよう。もろもろの感覚があるということは疑いもなくわれわれの支配を越えている。しかしどの感覚にわれわれが注意し、注目し、そしてわれわれの結論において力を込めるかということは、われわれ自身の関心に依存している。そしてわれわれの力の入れどころの異なるのに応じて、全く違った真理が形成されてくるのである。同一の事実でも、われわれの読み方は違っている。同一の固定した諸事実から成る「ウォータールー」という言葉は、イギリス人にとっては「勝利」を意味し、フランス人にとっては「敗北」を意味する。同じように、楽観的な哲学者にとっては、宇宙は勝利を意味するが、悲観的な哲学者には、敗北を意味するのである。
 われわれが実在について語ることは、このようにして、われわれが実在を投げ込むパースペクティヴのいかんに依存している。実在があるということは実在そのものに属することである。しかし、その何であるかはそのどれであるかにかかり、そしてそのどれであるかはわれわれに依存している。実在の感覚的な部分も関係的な部分もともに唖である。どちらもみずからについて何ごとも語らない。われわれがそれらに代って語らねばならぬのである。感覚のこの唖性はT.H.グリーンやエドワード・ケアードのごとき主知主義者をして、感覚をば哲学的認識の範囲外に押しのけさせたが、プラグマティストはそこまで進むことを肯じない。感覚というものは、むしろ事件を弁護士の手に委ねてしまって、快くあろうが不快であろうが、弁護士がいちばん有利だと信じて論述するいかなる説明にも虚心に耳を傾けていなければならぬ弁護依頼人のようなものなのである。
 それだから、感覚の領域においてさえも、われわれの心は或る任意な選択を行なう。われわれは含めたり省いたりしてこの感寛の領域を探索する。われわれが強調するものに応じてわれわれはこの領域の前景や背景を描き出す。われわれの定める順序にしたがってわれわれはこの領域をこの方向やあの方向に解釈してゆく。手短に言えば、われわれは大理石の塊を受け取るのであるが、われわれ自身でそれを像に刻むのである。
 このことは実在の「永遠なる」部分にも同じように当てはまる。われわれは内面的な関係についてのわれわれのいろいろな知覚をまぜ返して、それを自由に排列する。われわれはもろもろの知覚を或る系列としてまたは他の系列として理解し、この仕方であるいは他の仕方で分類し、その一つをあるいは他をより根本的なものとして取り扱い、その果てに、それらについてのわれわれの信念が、論理学とか幾何学とか算術とかとして知られる一団の真理を形づくることになるのであって、そのどれをとってみてもすべて、その全体が鋳込まれている形式と秩序は明らかに人為的なものである。

 Now however fixed these elements of reality may be, we still have a certain freedom in our dealings with them. Take our sensations. That they are is undoubtedly beyond our control; but which we attend to, note, and make emphatic in our conclusions depends on our own interests; and according as we lay the emphasis here or there, quite different formulations of truth result. We read the same facts differently. ‘Waterloo,’ with the same fixed details, spells a ‘victory’ for an Englishman; for a Frenchman it spells a ‘defeat.’ So, for an optimist philosopher the universe spells victory, for a pessimist, defeat. 
 What we say about reality thus depends on the perspective into which we throw it. The that of it is its own; but the what depends on the which; and the which depends on us. Both the sensational and the relational parts of reality are dumb; they say absolutely nothing about themselves. We it is who have to speak for them. This dumbness of sensations has led such intellectualists as T. H. Green and Edward Caird to shove them almost beyond the pale of philosophic recognition, but pragmatists refuse to go so far. A sensation is rather like a client who has given his case to a lawyer and then has passively to listen in the courtroom to whatever account of his affairs, pleasant or unpleasant, the lawyer finds it most expedient to give.
 Hence, even in the field of sensation, our minds exert a certain arbitrary choice. By our inclusions and omissions we trace the field’s extent; by our emphasis we mark its foreground and its background; by our order we read it in this direction or in that. We receive in short the block of marble, but we carve the statue ourselves.
 This applies to the ‘eternal’ parts of reality as well: we shuffle our perceptions of intrinsic relation and arrange them just as freely. We read them in one serial order or another, class them in this way or in that, treat one or the other as more fundamental, until our beliefs about them form those bodies of truth known as logics, geometrics, or arithmetics, in each and all of which the form and order in which the whole is cast is flagrantly man-made.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(13)― 「必要なことはただ一つだけである」

2022-06-19 00:00:04 | 哲学

 『愉しい学問』断章290の原タイトルは、Eins ist not となっていて、新約聖書ルカによる福音書第十章第四二節のイエスの言葉、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」から取られています。ニーチェは他の著作でもしばしばこの表現を引用したり、パロディ化しています。
 この聖書の一節では、マルタとマリアが対比されています。家にやってきたイエスのもてなしの準備に忙しい姉マルタが、自分を手伝おうともせずにイエスの傍らでその言葉に聴き入っている妹マリアについての不平をイエスに訴えたとき、それを受けてイエスがマルタにかけた言葉のなかに上掲の引用文が出てきます。
 通常の釈義では、マルタが vita activa を、マリア vita contemplativa を象徴しており、後者こそがキリスト教徒にとって「必要なただ一つのこと」だとされます。もっとニュアンスに富んだ様々な解釈がありますが、その中でも際立っているのがマイスター・エックハルトの説教86でしょう。通常の解釈図式を転倒させ、マリアにこそ成熟した信仰のあり方を見、マリアはまだその途上にあるとするエックハルトのこの説教についてはこちらの記事を参照してください。
 「必要なことはただ一つだけである」という一文は、ニーチェの生まれ故郷であるレッケンでルター派の牧師であったニーチェの父が説教の際に使っていた椅子に刻まれていたといいます。この一文は、それを聞いただけで聖書のどの箇所のことなのかキリスト教徒ならばすぐにわかるほどによく知られています。ニーチェも当然そのことを前提としてこの表現を使っています。断章290では、あからさまではありませんが、やはりキリスト教批判がその背景にあると見て間違いないでしょう。
 この断章の前半を読むと、「みずから」様式を選び、その様式の強制するところにしたがって己を作品として彫琢し続けることができる力強い本性の持ち主をニーチェは称え、様式への意志的な従属を嫌い、自然が「おのずから」成ることにまかせる他律的な弱い性格の持ち主とそれを対比し、後者を否定的に見ているように読めます。
 ところが、「というのも、一事が必要だからである」以降を読むと、いずれにせよ、「人間が自己満足に到達する」ことが唯一大事なことだと言っています。弱い者たちにとっても自己満足することが大事だということでしょうか。強い者も弱い者も、活動的な者も瞑想的な者も、とにかく己に満足していることが唯一大事なことだということでしょうか。
 ニーチェの言葉には、しかし、毒が含まれています。
 仮に弱い性格の持ち主でも、本人が自己満足していれば、なんとか見るに耐える代物だが、満足していないと、いつも恨みがましく、復讐しようと身構え、ルサンチマンに満ちたその姿は醜い。それを見なくてはならない私たち強き者にはいい迷惑だ。そんな光景の犠牲者に私たちがならなくてすむように、弱い性格の持ち主たちよ、活動的でも瞑想的でもいいから、どうか君たちも自己満足していておくれ、そうすれば、力強い本性の持ち主である私たちも、醜いものを見て気分を害したり、憂鬱になったりせずにすむから。
 弱い性格の持ち主たち(その中には当然キリスト教徒たちが含まれています。あっ、もちろん私も)にこうぐさりとアイロニーの短剣を突き刺してこの断章は終わっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(12) ― 自分の性格に様式をもたせること ニーチェ『愉しい学問』より

2022-06-18 02:27:51 | 哲学

 さて、パヴィのアンソロジー ESP に選ばれた文章の紹介を続けましょう。
 今日紹介するのは、ニーチェの『愉しい学問』です。このタイトルをご覧になって怪訝に思われた方もいらっしゃるかも知れません。というのも、最初の日本語訳である生田長江訳のタイトルは『悦ばしき知識』となっていて、信太正三訳もこれを踏襲しており、このタイトルで本作品は長らく日本で親しまれてきたからです。その他、『華やぐ知慧』や『喜ばしき知恵』といった訳も登場しましたが、講談社学術文庫版(二〇一七年)の訳者である森一郎氏は、「訳者あとがき」の中で、なぜ Die fröhliche Wissenschaft というドイツ語の原タイトルを『愉しい学問』と訳したか説明していますので、ご興味のある方はそちらをご覧になってください。
 アンソロジーに選ばれているのは断章二九〇全文です。ちょっと長いですが、せっかくですから全文読んでみましょう。

一事が必要。――自分の性格に「様式(スタイル)をもたせること」――は、偉大で希少な芸術だ。この芸術を使いこなせる者は、自分の自然本性にそなわる力や弱さが生み出すものをすべて見通したうえで、それを何らかの芸術計画に組み入れ、ついには、そのどれもが芸術や理性として現われ、弱さすら人の目を惹きつける魅力となるようにしてしまう。こちらには、第二の自然が大量に投入されており、あちらでは、第一の自然が部分的に撤去されている――どちらも、積年の修練と日々の労苦が傾けられてきたおかげである。こちらには、撤去されないで残っている醜いものが秘め隠されており、あちらでは、それが改釈され、崇高なものに仕立てられている。曖昧で、形を与えることに逆らう多くのものは、遠景用にとっておかれ、活用されている――無限に遠い彼方へ目配せを送るようにと。作品が完成したあかつきには、大小長短すべてを支配し形成しているのは、同一の趣味による強制だったということが、ついに明らかとなる。その趣味が良いか悪いかは、ひとが思うほど重要ではない――ただ一つの趣味であれば、それで充分なのだ。そういった強制のなかで、つまり自分自身の法則のもとでのそういった束縛と完成のなかで、最高級の喜びを享受できるのは、支配欲に満ちた力強い本性の持ち主であろう。彼らの暴力的意欲の情熱が鎮められるのは、およそ何であれ様式化された自然本性、つまり征服され奉仕する自然を目にしたときである。彼らが宮殿を建て、庭園を造らねばならないときでも、自然を自由にしておくことは彼らの趣味に反する。――逆に、様式の束縛をいやがるのは、自分自身を支配できない弱い性格の持ち主である。彼らはひどくいやな強制を課させると、そのもとで自分がどうしても下賤になってしまうのを感じる。――彼らは、奉仕するやいなや奴隷になってしまうので、奉仕することをいやがるのだ。そのような精神は――第一級の精神かも知れない――自分自身と自分の環境を、自由な――野性的で、勝手気ままで、空想的で、無秩序で、突飛な――自然として、形成したり解釈したりすることを、つねに心がけている。彼らがそうしたがるのは、そうであってこそ自分自身を喜ばせるからだ。というのも、一事が必要だからである。すなわち、人間が自己満足に到達するということが。これは、あれこれの詩や芸術を通してでもよろしい。ともかく人間は、そういうときだけは、見るに耐える代物となる。自分に満足していないときは、その恨みを晴らそうと、絶えず身構えている。われわれ他の者は、その犠牲になるだろう。われわれが醜い光景につねに耐えねばならない、という意味での犠牲だけだとしても。というのも、醜いものの光景に接すると、気分を害したり憂鬱になったりするから。

 この文章、ちょっとわかりにくくありませんか。私は三回読んでようやくこういうことなのかなとある理解に達しました。明日の記事でそれを説明します。今日のところは、まずじっくりとお読みになってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


体軽快によく走る、筆もまたよく走る

2022-06-17 16:32:19 | 雑感

 この五日間、毎日十四キロ走りました。タイムを徐々に上げるべく意識してピッチを上げました。結果、今日、私的最高記録が出ました。一時間十六分で走り切りました。平均時速十一キロということです。今日は他にもう一つ個人記録を更新しました。連続ジョギング日数が五十八日に達したのです。これまでの記録は昨年十二月から今年二月にかけての五十七日でした。連続運動日数記録は更新中で、今日が百三十一日目でした。
 さて、今月二十七日が締め切りの原稿は、私にしては大変珍しいことなのですが、締め切りまで十日以上余して一昨日一応書き上げました。今日は一日、補足と推敲をしていました。論文ではなく、むしろ随筆に近いのですが、いわゆるエッセイとはまた一味違う文章になっていると自負しています。
 今回はとにかく筆が走りました。書き始めた日、四百字詰め原稿用紙にして一気に十六枚書けてしまいました。それを一日寝かせて、その翌日書き継ぎ、依頼された枚数三十枚に達しました。つまり、正味二日で三十枚書くことができたのですが、これにはやはり、このブログでの普段の積み重ねが大きく寄与していることを原稿を書きながら実感しました。
 より具体的に言うと、このブログの効用として以下の三点を挙げることができます。(1)多様なテーマの文章が蓄積されていること、(2)毎日文章を書く訓練によって文章力が鍛えられていること、(3)文章を書き始めるためのウォーミングアップがいつもすでに完了していること。
 今回、原稿の半分は、このひと月あまり書き溜めてきたメモを素にして今回新たに書きおろしたものですが、残りの半分はこのブログで書いてきた内容が陰に陽に支えになっています。どうしてそういうことになっているかは、それ自体がこの原稿の主題なので、ネタバレを避けるために今は話しません。
 この拙稿は『現代思想』八月号に掲載される予定です(発売予定日の七月二十六日にまた宣伝させていただきます)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


心の奥底で燃え続ける学問への情熱の火種 ― 福永光司『古代中国の実存主義』にふれて

2022-06-16 11:47:38 | 読游摘録

 講談社学術文庫の今月の新刊の一冊、中島隆博『荘子の哲学』(原本は『『荘子』――鶏となって時を告げよ』岩波書店 2009年)をあちらこちら拾い読みしていて、参考文献ガイドのなかに挙げられている福永光司『荘子 古代中国の実存主義』(中公新書 1964年)についての著者の評言に目が止まった。

『荘子 古代中国の実存主義』は、福永光司のパッションがほとばしる書物である。荘周が福永となったのか、福永が荘周となったのかわからないほどに、福永荘子の実存が痛いほどに迫ってくる。このような書を書きたいと人に思わせるほどの魅力であるが、福永でなければ決して書くことのできない唯一無二の書である。

 今から五十八年前に書かれたこの名著を私は不明にも知らなかった。この評言を読んで俄然読んでみたくなった。で、電子書籍版をすぐに購入した。序説を読んだだけで、実存の根本を探究する思考の熱量が充溢する文章に圧倒される。
 「あとがき」で、この本をよりよく読者に理解してもらうためには、それを書いた私という人間を『荘子』との関連において若干説明しておく必要があるとして、自分について語っている一節がある。その中に母の思い出が出てくる。それがとても印象深い。学問への情熱を燃やし続ける心の奥深いところにある火種とはこのようなものであるのかも知れない。

 私と『荘子』との関係といえば、私は私の母のことを思い出さずにはおられない。それはまだ私が小学校の四年生か五年生のころのことであった。ある日、学校から帰った私をとらえて母が奇妙な宿題を課した。「裏の氏神の境内にある曲がりくねった松の大木が、どのようにしたら真っ直ぐに眺められるか、考えてみろ」というのである。私がもしそのとき、「その松の木を伐り倒して製材所に運べば……」と答えるような思考をもつ子供であったなら、あるいはまた、母がそのような答を用意する性質の人間であったなら、私の人生と物の考え方とは、現在とは似ても似つかぬ方向をたどっていたにちがいない。しかし、私はこの問題を解こうと本気で考えつづけるような子供であった。ただしかし、問題は少年の私にはあまりにも高等すぎた。翌日まで考えつづけた私はついに屈服して母に答を求めた。「曲がっている木を曲がっている木としてそのままに眺めれば、真っ直ぐに見ることができる」――これがそのときの母の答であったが、分かったような分からないようなこの答を聞いて、私はあっけにとられた記憶がある。しかし、この言葉は今もなお私の脳裏に生きている、私と『荘子』との結びつきが、このころからすでに約束されていたともいえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


子供のときから彫りつづけた内なる彫像 ― フランソワ・ジャコブ自伝より

2022-06-15 09:25:17 | 読游摘録

 昨日の記事でまるごと引用したプロティノス「美について」(ポルフュリオスがプロティノスの死後編纂した『エンネアデス』では第一巻第六論文、執筆年代順では第一論文)の第九章のなかに描き出された己の内なる魂の彫像という美しい隠喩は、フランソワ・ジャコブの自伝『内なる肖像』(みすず書房、一九八九年)を思い出させる。邦訳のタイトルでは「肖像」となっているが、原タイトルは La statue intérieure であり、「内なる彫像」と訳すほうがより原タイトルに忠実である。肖像はむしろ portrait に対応する。それに、こう訳すほうが単に単語レベルでより忠実だというだけでなく、著者の意図により忠実でもある。なぜなら、ジャコブは本書で次のように述べているからである。

« Je porte en moi, sculptée depuis l’enfance, une sorte de statue intérieure qui donne une continuité à ma vie, qui est la part la plus intime, le noyau le plus dur de mon caractère. Cette statue, je l’ai modelée toute ma vie. Je lui ai sans cesse apporté des retouches. Je l’ai affinée. Je l’ai polie. »

La statue intérieure, Éditions Odile Jacob, 1987, p. 24.

私は自分のなかに、子供の時分から彫りつづけてきた内なる彫像ともいうべきものをもっている。自分の人生に連続性を与えているもの、自分の一番奥深い部分、自分の性格の一番かたい核にあたるもの。この彫像を私は人生を通じて形作ってきた。たえず手直しを続けてきた。練り上げてきた。磨きをかけてきた。

 ジャコブがプロティノスの「美について」を念頭に置いていたかどうかはわからない。1965年にモノー、ルヴォフとともにノーベル医学生理学賞を受賞した分子遺伝学者は、また卓越した文章家でもあり、1996年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出されている。この自伝もまさに第一級の文学作品である。この作品を通じて、ジャコブが少年期から絶えず刻み出し続け、磨き上げ続けた「内なる彫像」の間近へと私たちは導かれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(11)― 内なる彫像を刻み出す

2022-06-14 23:59:59 | 哲学

 パヴィの ESP の第三章に集められた古今の名著からの抜粋の中からもう一つご紹介しましょう。プロティノスの『エンネアデス』の中でも最もよく知られた論文の一つ「美について」の第九章です。ちょっと長いですが章の全文引きます。講談社学術文庫『プロティノス「美について」』(二〇〇九年)に収められた斎藤忍随・左近司祥子訳です。ゆっくりと繰り返し味読しましょう。

 さて、この内なる眼は何を見るのか。目覚めたばかりの時では、この眼も、明るく輝くものを充分に眺めるわけにはいかない。したがって魂自身に、まず美しい仕事を眺める習慣をつけさせる必要がある。次いで美しい作品、と言っても技術芸術の作り出す作品ではなく、善い人と呼ばれる人々の作る作品を眺める習慣を養わせる必要がある。続いて、この美しい作品を作る人々の魂を見ることである。だが、いかにすれば、善い魂の素晴らしい美しさがどんなものかを見ることができるようになるのだろう。汝自身に立ち帰り、汝自身を見よ、これがその方法である。たとえ未だ美しくない自分を、君が見たとしても、彫刻家のように振舞うべきである。彫刻家は美しい作品に仕上げなければならない大理石を前にして、あるいは削り、あるいは滑らかにし、あるいは磨き、あるいは拭い、ついに大理石の中に美しい顔を浮き出させるに至る。これが彫刻家のとる道だが、君もそのように、余分な不必要な部分はすべて取り除き、曲がった部分はすべて正すべきである。暗い部分はすべて浄めて、明るく耀くようにしなければならない。汝自身の像を刻む、この務めを中絶してはならない。このように努めてゆけば、遂には徳の神的光が君の前に輝き出でるであろう。遂には「節制の美徳が聖なる台座に就く」光景に君も接することができるようになるだろう。
 もし君がそうなり、それを見たとする。君は浄められて君自身と合一化したとする。そうなれば、その一体化を妨げるものは何もなく、君自身の内には、いかなる異質の灰雑物もなく、君自身はあます所なく純粋な真の光である。その光は大きさによって測定できる性質のものではない。小さくせばめても、その形は定められない。無限に拡大しても、その形を定めるわけにはいかない。その光は、いわばあらゆる尺度より大なるもの、あらゆる量を超えるものという意味で、およそ測定不可能なものである。君がもしこの状態に達し、君自身を見たとすれば、君はすでに視る力そのものであり、揺るぎなき自信を有している。君はすでに高みに在って、もはや案内者の指針を必要としない。ただ視線を凝らして見るべきである。大いなる美を眺めるのはただこの眼のみである。
 しかし、眼が悪の目やににかすみ、浄らかさを得ていなければ、あるいはその視力が弱ければ、見ようとしてもしりごみを覚えて、素晴らしく輝くものを眺めることができない。たとえ見得るものがすぐ眼前にあることを他人が指摘してくれても、何一つ見ることができない。すなわち見るものたる眼は、見られるものたる対象と同族化し、類似化した上で、観照にのり出さなければならないのである。その理由は、眼が太陽と似ていなければ眼は断じて太陽を見ることができないし、魂もそれ自身が美しくなっていなければ、美を見ることができないという点にある。神を観、美を観ようとする者は、誰でもまず何よりも、神に類似していなければならない、美しい自己となっていなければならない。そういう者は始め、まず上昇して知性に達し、そこにおいてあらゆる美しい純粋な「形」を眺めつつ、これこそ美、つまり諸々のイデアであると主張するであろう。すべては、知性の所産であるあの存在としてのイデアによって美しくなるからである。だがこの知性、これらのイデアを超えたかなたのものを、我々は善なるもの、真実の善と呼ぶ。そして善は自らの前に美を幕としている。したがって、大まかな言い方をすれば、善が根源的美である。もし知性的なものを善と区別するとなると、純粋な「形」、つまりイデアの場を知性的美と見なし、美のかなたにあって、美の泉、美の源をなすものを、善と見なすべきであろう。あるいは善と根源的美とを同一視すべきである。ただしいずれの場合にも、美はここにではなく、かしこにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(10)― 「一つ、ただ一つ、哲学である」マルクス・アウレリウス『自省録』より

2022-06-13 04:33:08 | 哲学

 マルクス・アウレリウス『自省録』からは第二巻一七節がまるごと取られています。余計な味付けや無駄な解説なしに、テキストそのものをとくと味読することにしましょう。テキストそのものと今言いましたが、読むのはもちろん邦訳で、ギリシア語原文ではありません。私の手元には、岩波文庫の中でも指折りのロングセラーである神谷美恵子訳(文庫初版1956年)と講談社学術文庫の鈴木照雄訳(2006年)があります。両方をそのまま掲げます。その後に、手元にある三つの仏訳のなかから神谷美恵子が参照した Trannoy 版(1925年初版、その校訂版が2018年 Les Belles Lettres 社から刊行される)を付します。

 人生の時は一瞬にすぎず、人の実質(ウーシア―)は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体全体の組合せは腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、その運命ははかりがたく、その名声は不確実である。
 一言にしていえば、肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。しからば我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。それはすなわち内なるダイモーンを守り、これの損なわれぬように、傷つけられぬように、また快楽と苦痛を統御しうるように保つことにある。またなにごともでたらめにおこなわず、なにごとも偽りや偽善を以てなさず、他人がなにをしようとしまいとかまわぬよう、あらゆる出来事や自己の与えられている分は、自分自身の由来するのと同じところから来るものとして、喜んでこれを受け入れるよう、なににもまして死を安らかな心で待ち、これは各生物を構成する要素が解体するにすぎないものと見なすように保つことにある。もし個々のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素自体にとって少しも恐るべきことでないならば、なぜ我々が万物の変化と解体を恐れようか。それは自然によることなのだ。自然によることには悪いことは一つもないのである。(神谷美恵子訳)

 人間の生命にあって、その年月は点であり、その地は流動するもの、感覚は混濁し、全肉体の組織は朽ちやすく、魂は激動の渦巻きであり、運命は窺いがたく、名声は不確実である。これを要するに、肉体のことはすべて流れる河であり、魂のことは夢であり妄想である。人生は戦いにして、過客の一時(いっとき)の滞在であり、後世の評判とは忘却である。
 しからば、われわれを護衛しうるものは何か。一つ、それもただ一つ、哲学のみである。その哲学とは、かの内なる神霊(ダイモーン)を辱められず傷つかぬものにし、また快楽と労苦に打ち克ち何一つでたらめになすことも、また欺瞞と偽善をもってすることもなく、他人が何かをなすかなさぬかには何も求めることのない者、かかる者として守りぬくことである。かかる神霊(ダイモーン)はまた、生起し割り当てられたことを、自分自身そこから出たその同じ源から由来するものとして受け入れる者でもある。そしてあらゆる場合に、死はそれぞれの生き物の構成要素の分解にほかならずとして、心和みつつそれを待ち迎える者でもある。
 ところで、もしこの構成要素そのものにとって、各要素がたえず他のものに変化する事態に何の恐れることもないならば、なぜに人は万物の変化と分解に対し、上目づかいに胡散くさい見方をするのか。なぜなら、それは「自然」に即したことであり、「自然」に即してしかも悪いというものは、ぜったいに存しないからである。(鈴木照雄訳)

Dans la vie de l’homme, la durée, un point ; la substance, fluente ; la sensation, émoussée ; le composé de tout le corps, prompt à pourrir ; l’âme, tourbillonnante ; la destinée, énigmatique ; la renommée, quelque chose d’indiscernable. En résumé, tout ce qui est du corps, un fleuve ; ce qui est de l’âme, songe et vapeur ; la vie, une guerre, un exil à l’étranger ; la renommée posthume, l’oubli. Qu’est-ce donc qui peut nous guider ? Une seule et unique chose, la philosophie. Et celle-ci consiste à veiller sur le Génie intérieur, pour qu’il triomphe des plaisirs et des peines, qu’il ne fasse rien à la légère, qu’il s’abstienne du mensonge et de la dissimulation, qu’il n’ait pas besoin que les autres fassent ou ne fassent pas ceci ou cela ; en outre, qu’il accepte ce qui arrive et constitue sa part, comme venant de cette origine quelconque d’où lui-même est venu ; surtout qu’il attende la mort en de favorables dispositions, n’y voyant rien que la dissolution des éléments dont est formé chaque être vivant. S’il n’est rien de redoutable pour les éléments eux-mêmes dans cette transformation continuelle de chacun d’eux en un autre, pourquoi craindrait-on la transformation et la dissolution du tout ? C’est conforme à la nature. Or rien n’est mal de ce qui est conforme à la nature.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(9)― 自己の(魂の)可塑性

2022-06-12 12:51:10 | 哲学

 ESP の第四章は « Apprendre le mode de vie philosophique » と題されています。「哲学的な生き方を学ぶ」ということです。前章が「離接」を主題としていたのに対して、本章では、さらに一歩進めて、哲学的な生き方とはどのような生き方であり、それを身につけるには具体的にどうするべきかが問題とされています。私見では、この章のポイントは「自己の(魂の)可塑性」という一言に集約できると思います。
 自己あるいは自己の魂は、生まれつきのもの、すでに出来上がったもの、もはや変えようのないものではありません。学派と時代によって、魂の本来の純粋な在り方を原初に認める場合もあれば、そのような理想形を原初的なものとして措定しない場合もありますが、いずれの場合も、この地上で肉体に縛りつけられている有限の生を送っている魂は、その肉体を介して外在的な刺激によって引き起こされる情念・情動・欲望などによって振り回され、本来あるべき姿から程遠い状態にあるから、そのような状態からいかに魂を純化していくかという課題を共有しています。
 本章にも多数のテキストが集められています。それぞれがかなり長いテキストです。その一つでも自分で訳出する気力も時間も今の私にはないので、著者名とテキストのタイトルを順に示しておきますね。「食欲」を唆られた方は、どうぞご自分でそのなかの一冊を手にとってお読みになってみてください。
 クセノフォン『ソクラテスの思い出』、ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』、エピクテートス『人生談義』、プルタルコス「老人は政治にたずさわるべきか」(『倫理論集』51)、マルクス・アウレリウス『自省録』、プロティノス「美について」(『エンネアデス』I, 6, [1])、モンテーニュ「経験について」(『エセー』第三巻第十三章)、デカルト書簡、カント『人倫の形而上学の基礎づけ』、エマーソン「自己信頼」、ソーロー『森の生活』、ニーチェ『喜ばしき知恵』(あるいは『愉しい学問』)、サルトル「存在するとは存在しないことである」(講演)、フーコー「倫理学の系譜学について」(対談)、ベルクソン「デカルト学会へのメッセージ」、ウィリアム・ジェームズ『プラグマティズム』『心理学』、ウィトゲンシュタイン『心理学の哲学』、フーコー「真理・権力・自己」、ヒラリー・パトナム『実在論の諸相』。
 頁数にすれば二四頁ですから、それほどの量でもないのですが、その中味となると、あたかも大きなテーブルに並べきれないほどの多種多様なご馳走を目の前にしているようで、とても一日では食べきれないし、無理に詰め込めば消化不良を引き起こしてしまうのがおちでしょう。
 今日のところは、これらの大ご馳走のお品書きに目を通すだけにして、明日から、少しずつ賞味していきましょうか。


日々の哲学のかたち(8)― 「離接する」

2022-06-11 23:19:15 | 哲学

 一週間ほど遠ざかってしまいましたが、グザビエ・パヴィの Exercices spirituels philosophiques (=ESP) に立ち戻りましょう。第三章は « Apprendre à se détacher » と題されています。代名動詞 se détacher は「離れる」という意味ですが、前置詞 de を伴うと、「(…から)離れる、脱する、自由になる」ことなどを意味します。主語には物でも人でも置くことができます。人が主語の場合、「…から心が離れる、無関心になる」等を意味することもあります。例えば、« Il s’est détaché de sa femme » は、「彼の心は妻から離れてしまった」ということです。
 しかし、ESP では、se détacher はそのような否定的な意味で使われているのではなく、exercices spirituels の一環を成しています。一言で言えば、自分の力ではどうにもならないことどもには執着しない態度のことです。ただし、それらのどうしようもないことどもに対してただ無関心になる、ということではありません。なぜなら、se détacher 自体が目的なのではなく、それを通じて自分が置かれている状況をよく見きわめ、その状況の中で適切な態度を取る、あるいは適切に行動することこそが目的だからです。
 つまり、se détacher とは、厄介なことから物理的に距離を取る、困難な現場から逃れることではなく、逃げ出しようもない事態の只中で、自分を取り巻く諸事から自分の魂を切り離し、高みからそれら諸事を冷静に眺めうるようにすることです。
 まさに、言うは易く行うは難し、ですね。どんな状況に置かれてもこのような姿勢を保てるように最初からできている「超人」ならともかく、後から思い出せばつまらぬことで振り回される、考えてもどうにもならないことで心が千千に乱れる、などという経験は少なくないのではないでしょうか。私自身、うんざりするほどそういうことを繰り返してきました。
 ただ、se détacher もまた exercices の一つですから、できないことではありません。現実の試練の中で繰り返し試みることで少しずつ身につけることができる態度であるとは実感しています。
 この態度を日本語でどう表現しましょうか。いろいろ可能だと思います。私は、「離れ、かつ接する」という意味を込めて、「離接する」と訳しています。