内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

田中正造「直訴状」― 仏語で唯一の環境思想のアンソロジーに収められた唯一の日本語のテキスト

2022-06-07 16:30:27 | 読游摘録

 先月末に注文した中古本が今日届いた。La pensée écologique. Une anthologie, PUF, 2014 である。 Dominique Bourg と Augustin Fragnière による編集。前者はスイスのローザンヌ大学の教授で、環境思想・環境倫理を専門とする。後者は同大学の助手で博士論文準備中とある。やはり環境思想・環境倫理が専門のようだ。しかし、これは2020年(第3刷)の裏表紙の紹介文による情報であるから、現在の立場は違うかもしれない。 
 環境思想を何らかの仕方で表明した著作をその西欧的起源(ルソーとソーロー)から現代まで網羅した仏語のアンソロジーとしては、現在これが唯一である(総頁数は九百頁を超える)。収められた90以上のテキストのほとんどは欧米人の著作からの抜粋であり、しかも原著の言語は仏・英・独語に限られている。
 ところが、驚いたことに、一つだけ日本語のテキストの仏訳が収められている。その原テキストは、田中正造が明治天皇に宛てて認めた(より正確には、当時万朝報の記者であった幸徳秋水が執筆し、それに田中正造が加筆修正した)「直訴状」である。田中がこの書状を明治天皇に直接手渡そうとして果たせなかったのは、明治34(1901)年12月10日のことである(こちらの東京新聞の記事を参照されたし)。
 この直訴状がどうしてこのアンソロジーに収録されることになったのか、その経緯は詳らかにしないが、ジュネーヴ大学の日本学科の教授で日本史学者ある Pierre-François Souyri 氏が解説を書いているところからすると、彼の指導の下、若きスイス人研究者(フランスでの国際シンポジウムで二度会ったことがある)によって書かれた足尾銅山鉱毒事件についての博士論文(2019年提出)がきっかけになっているのかも知れない。その解説で、Souyri 氏は、社会正義を求める義民たちの命を賭した行為としての直訴は江戸時代から行われており、田中はその伝統に従っていることに一方では注意を促しつつ、他方では、環境保全と人権保護を訴える訴状の近代性を強調している。
 直訴状の原文は荘重な漢文訓読体で書かれてはいるが、住民の苦難を明治天皇に宛てて切々と訴えるその真率な思いが今も胸を打つ。それが明晰なフランス語に訳されて仏語圏で知られることは喜ばしいことだと思う。と同時に、直訴状の終わり近くに「臣年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ」とあるのを読み、おのずと粛然とさせられた。