内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の哲学のかたち(8)― 「離接する」

2022-06-11 23:19:15 | 哲学

 一週間ほど遠ざかってしまいましたが、グザビエ・パヴィの Exercices spirituels philosophiques (=ESP) に立ち戻りましょう。第三章は « Apprendre à se détacher » と題されています。代名動詞 se détacher は「離れる」という意味ですが、前置詞 de を伴うと、「(…から)離れる、脱する、自由になる」ことなどを意味します。主語には物でも人でも置くことができます。人が主語の場合、「…から心が離れる、無関心になる」等を意味することもあります。例えば、« Il s’est détaché de sa femme » は、「彼の心は妻から離れてしまった」ということです。
 しかし、ESP では、se détacher はそのような否定的な意味で使われているのではなく、exercices spirituels の一環を成しています。一言で言えば、自分の力ではどうにもならないことどもには執着しない態度のことです。ただし、それらのどうしようもないことどもに対してただ無関心になる、ということではありません。なぜなら、se détacher 自体が目的なのではなく、それを通じて自分が置かれている状況をよく見きわめ、その状況の中で適切な態度を取る、あるいは適切に行動することこそが目的だからです。
 つまり、se détacher とは、厄介なことから物理的に距離を取る、困難な現場から逃れることではなく、逃げ出しようもない事態の只中で、自分を取り巻く諸事から自分の魂を切り離し、高みからそれら諸事を冷静に眺めうるようにすることです。
 まさに、言うは易く行うは難し、ですね。どんな状況に置かれてもこのような姿勢を保てるように最初からできている「超人」ならともかく、後から思い出せばつまらぬことで振り回される、考えてもどうにもならないことで心が千千に乱れる、などという経験は少なくないのではないでしょうか。私自身、うんざりするほどそういうことを繰り返してきました。
 ただ、se détacher もまた exercices の一つですから、できないことではありません。現実の試練の中で繰り返し試みることで少しずつ身につけることができる態度であるとは実感しています。
 この態度を日本語でどう表現しましょうか。いろいろ可能だと思います。私は、「離れ、かつ接する」という意味を込めて、「離接する」と訳しています。