内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ショーペンハウアーの刃―「著述と文体について」より

2022-06-10 09:41:38 | 読游摘録

 ショーペンハウアーの『余録と補遺』に収められている一篇「著述と文体について」を読んでいて、その数々の鋭い洞察が耳に痛いどころか、研ぎ澄まされた刃のごとく心に突き刺さった。ところが、それで落ち込んでしまったかというと、そうでもなく、むしろ不思議な爽快感を覚える(もしかして、ワタシハスデニ死ンデイル?)。どんな言葉が突き刺さったか、例を挙げる(光文社古典新訳文庫『読書について』鈴木芳子訳)。

文体は書き手の顔だ。精神の相貌が刻まれている。それは肉体の顔よりももっと見まちがいようがない。他人の文体をまねるとは、仮面をつけることだ。仮面はどんなに美しくても、生気がないためにまもなく悪趣味で耐えがたいものになる。醜くても生きた顔のほうがいい。

著者の作品を二、三ページ読めば、どのくらい自分にとってプラスになるか、およそ見当がつく。

真の思想家はみな、思想をできる限り純粋に、明快に、簡明確実に表現しようと努める。したがってシンプルであることは、いつの時代も真理の特徴であるばかりでなく、天才の特徴でもあった。似非思想家のように、思想を文体で美々しく飾り立てるのではなく、思想が文体に美をさずけるのだ。なにしろ文体は思想の影絵にすぎないのだから。不明確な文章や当を得ない文章になるのは、考えがぼんやりしている、もしくは混乱しているからだ。

すぐれた文体であるための「第一規則」、それだけでもう十分とえそうな規則は、「主張すべきものがある」ことだ。

したがって冗長な表現はすべて避け、苦労して読むに値しない無意味なコメントを織り混ぜるのも一切やめなさい。読者に時間・労力・根気のむだづかいをさせてはならない。そうすれば、この書き手が執筆したものは注意深く読むに値し、手間ひまかけるだけの甲斐があると、読者の信頼を勝ち取れるだろう。

わずかな思想を伝えるのに、多くの言葉をついやすのは、まぎれもなく凡庸のしるしだ。これに対して多くの思想を少ない言葉におさめるのは、卓越した頭脳のあかしだ。

真理はむきだしのままが、もっとも美しく、表現が簡潔であればあるほど、深い感動を与える。そうすれば聞き手は雑念に惑わされずに、スッと真理を受け取ることができるからだ。また聞き手が修辞的技巧に魅了され、たぶらかされたのではなく、真理そのものから感銘を受けたと感じるからだ。たとえば、人間存在のむなしさについて、どんなに熱弁をふるっても、ヨブの言葉以上の感銘を与えるものがあるだろうか。「人は女から生まれ、つかのまの時を生き、悩み多く、花のように咲きほころび、しぼみ、影のようにはかなく消えてゆく」(『ヨブ記』第十四章第一~二節)

真に簡潔な表現とは、いつでもどこでも、言うに値することだけを語り、必要なものと余計なものを正しく区別し、だれもが考えつきそうなことをくだくだしく論じないようにすることだ。だが、簡潔さを求めるあまり、明瞭さを、ましてや文法を決して犠牲にしてはならない。わずか数語を省こうとして、思想の表現をよわめ、それどころか文章をあいまいにして萎縮させるのは、嘆かわしく無分別な行いだ。

 これらすべての言葉を肝に銘じて、これからも文章修行を続けていきます。