内的自己対話-川の畔のささめごと

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「離脱・放下」攷(二十八)― 「自由心霊派」に抗して

2015-04-25 05:48:02 | 哲学

 エックハルトは、「唯一なる〈一〉」においては人と神とはもはや区別されないと主張する一方、キリスト教徒の神化における恩寵の役割を強調する。その立場から、エックハルトは、「自由心霊派」に真っ向から対立する。同派の信徒たちに対して、次の二面において戦う。
 第一の面は、同派の制約なき自由の教説の批判という形を取っている。例えば、ドイツ語説教二十九の中で、「ところが、ある人たちは、「私は、神とその愛を所有するならば、何でも自分の望むことができる」と言っているが、彼らは正しくこの言葉を理解していない(つまり、自分たちの言っていることがよくわかっていない)。あなたが神に反対しその命に背いて何かができるときはいつでも、あなたは神の愛を持ってなどいないのだ」とエックハルトは述べているが、この「ある人たち」とは、「自由心霊派」の信徒たちのことである。
 第二の面は、人の働きの有用性の擁護という形で表現されている。説教八十六は、ルカによる福音書第十章第三十八-四十二節の「マルタとマリア」の話について、マリアのあり方を優位におく伝統的解釈に反対して、マルタがその生活の中の立ち働きにおいて観想を忘れてはおらず、むしろマリア以上に神の認識において成熟しているという、エックハルト独自の解釈を提示している。この意味において、エックハルトは「静寂主義」(quiétisme)には属さない。
 この聖書の箇所は、通常、「なくてはならぬ唯一つのもの」のために一切を放擲して主のみもとに座し御言に聞き入っているマリアの在り方のほうがイエスによって義認されていると解釈される。ところが、エックハルトはこの説教でその解釈を逆転させ、接待のために忙しく立ち働き、さまざまなことに思い煩って心労しているマルタの方に完全性を見るのである。聖書の文面からすれば強引とも言えるこの解釈は、「完全なるもの」をマリアと呼び、その他の者たちをマルタと呼ぶ「自由心霊派」に見られる日常の活動的生活の軽視に反対して、いわば戦略的に選択されていると見るのが穏当であろうと私は考えている。
 この説教については、上田閑照『マイスター・エックハルト』(『上田閑照集』第七巻)の中に詳細な考察がある(三一七-三四一頁)。そこで上田は、同説教を、「「神のために、神を去る」方向をふまえていると解される仕方で「友のために、神を離れる」に相当する在り方を具体的に展開している独特な説教」として、独自の考察を展開している。しかし、上記のような当時の歴史的文脈を軽視し、エックハルト解釈全体の中で同説教に過剰な重要性を与えているその思弁的解釈に私は批判的である(この点については、二〇一三年八月十三日十四日の記事を参照されたし)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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